第八話 2回目の原稿を受け取りました

「そう言えば今回の回顧録、データ入力も羽織屋はおりやさんがしてくれているんだって?」


 そろそろおいとましようかと考えていると、小此木おこのぎさんが言った。


「はい。関わる人間を極力少なくしておいたほうが、いろいろと安全だと思いまして」

「そうか。手書き原稿で申し訳なかったね。私もパソコンで書けば良かったかな」

「その点はご心配なく。やりやすい方で続けてくだされば、こちらはそれに合わせますから」


 加茂かも先生のように、いまだに手書きにこだわる先生もそれなりに存在する。それに小此木さんの文字は、先生より断然、読みやすかった。


「じゃあ、このまま手書きでも問題ないかい? ここにはプリンターを持ってきていなくてね。書いたものを一度、妻に読んでもらっているから、手書きのほうが助かるんだ」

「では今まで通り、手書き原稿で進めましょう。校正原稿も、紙ベースでお渡しします」

「助かるよ。じゃあ、今日までに書けた分を渡しておこうかな」


 その言葉に、奥様が立ち上がる。そしてベッドの横にある棚から、原稿用紙を出してきた。小此木さんは一回目分より少ないと言っていたが、それでもかなりの量だった。


「ずいぶんと書きすすめられましたね。無理なさってませんか?」

「ま、ここでは検査以外にはやることがないのでね。心配ないよ。消灯時間はちゃんと守って寝てるから」

「そこは本当よ」


 奥様が、原稿を差し出しながらうなづく。


「なら安心です。看護師さんに怒られるようなことになったら、私が出入り禁止になってしまいますし」

「せっかく書き始めた回顧録だからね。看護師を怒らせて中止にならないよう、用心深く書き続けているよ」

「お願いします」


 受け取った原稿をバッグに入れた。


「次から書く分に関しては、さっきのアドバイスを念頭に進める予定だ。次の投薬日前日に渡せると思う」

「わかりました。今日の校正返却も含めて、予定を入れておきますね」

「面倒だが、来る時は今日と同じ手順で来るように。安達あだち君、予定を入れておいてくれ」

「わかりました」


 私と安達さんは、それぞれの手帳に予定を書き入れる。


「この隠密行動は、本が完成するまで続けると考えて良いですか?」

「うーん、そうだねえ……投薬治療の効果と、手術の結果次第かな」


 当分は今日と同じ方法でここに通うことになりそうだ。


「わかりました。こちらは合わせますので、変更がある時は遠慮なくおっしゃってください」

「ありがとう。申し訳ないね、いろいろと」

「いいえ。これも仕事ですから」

光栄こうえい出版さんのほうは、羽織屋さんが必ずおこしになるということで、よろしいですか?」


 安達さんが横から言葉をはさんだ。


「今のところは。どうしてもはずせない予定がある場合は、河野こうのが代理でうかがうかもしれませんが」

「名刺を渡しておいた方が良さそうですね」


 安達さんは自分の名刺を出すと、私の前に置く。


「なにかありましたら、秘書室直通のこちらの電話にお願いします。私が頭取との連絡役ですが、秘書室全員で羽織屋さんのことは共有しておきますので、不在でも問題ない状態にしておきます」

「ありがとうございます。では私も、名刺をお渡ししておきます」


 そう言って、名刺入れから自分の名刺を出した。


「よく社外に出るので、携帯電話にしてもらうほうが間違いないと思います。出られない時にはメッセージを残してもらえば、必ず折り返します」

「承知しました」

「ではそろそろ、おいとましますね」


 安達さんの名刺を手帳にはさむと、湯のみと茶たくをキッチンへと持っていく。


「では安達君、よろしく頼む。羽織屋さんの件もだけど、仕事のほうも」

「承知しました。では、羽織屋さんまいりましょうか」

「はい」

「羽織屋さん、チョコレートの差し入れをありがとう。気をつかってもらわなくても良いんだからね。こちらがお願いして、来てもらっているのだから」

「いえいえ。私が好きでやっていることなので」


 それに経費でしっかり落としているので、私のお財布には何のダメージもない。


「では失礼します」


 私と安達さんは病室を出た。詰め所の看護師さんに挨拶をすると、エレベーターに乗る。


「さっきの様子からだと、安達さんは今日以外にも、ここに来ているみたいですね」


 エレベーターが動いている間、黙っているのも気づまりなのでさりげなく言った。


「私が頭取と話していた件ですか?」

「パソコンも持ち込んでいらっしゃったし、そんなところです。あ、もちろん話の内容は聞いてませんので、ご安心ください」


 私がそう答えると、安達さんは笑った。


「羽織屋さんは誠実なかたですね」

「そうですか?」


 これはほめられたのだろうか? まあ良い。そういうことにしておこう。


「そういうところを買われて、今回の件を任されたのだと思っていましたが」

「単に人手不足なだけですよ。私しかいなかったんです」

「そういうことにしておきます」


 安達さんはすました顔でそう言った。正直に暴露したのだが、どうやら信じてもらえていないらしい。


―― 小此木さんは察していたみたいだけど、他の人には、その可能性を話していないのか…… ――


「パソコンの件ですが」


 安達さんが口を開く。


「頭取のお知り合いの中には、秘書室を通さず個人的にやり取りをされているかたもいらっしゃいます。それもあって、本社の頭取用のパソコンから、メールの転送をしているのですよ」


 東都とうと銀行としては、頭取さんはあくまでも本社にいることにしているらしい。


「入院されていることは、本当に極秘なんですね」

「当社の株価にも影響しますから。もちろん、今回の件をご存知のかたもいらっしゃいますが」


 その中には編集長、河野さん、私も含まれているわけだ。エレベーターを降りると、とめてある車に乗り込んだ。もちろん最初と同じで、私は後ろのシートだ。


「もうお察しだと思いますが、本店に戻ってから会社に戻っていただきます。羽織屋さんも表向きは、本社の頭取の執務室にいたことになっているので」

「頭取さんの執務室で打ち合わせ、ですか」

「なにか御不審な点でも?」


 エンジンをかけた安達さんが、バックミラーごしにこちらを見た。


「いえ。最初に御挨拶にうかがった時、ここではなく、てっきり本社にうかがうものだと思っていまして。その、不謹慎ですが、大手銀行頭取の執務室を見られると、ワクワクしちゃいまして」

「ああ、そういうことですか」

「不謹慎なことで申し訳ないです」


 その頭取さんが病気だというのに、お気楽に考えていたものだと、今更ながら申し訳なく思う。


「羽織屋さんの気持ちは、わからなくもないですね。実のところ私も、よそさまの頭取や社長の執務室がどのようなものか、興味がありますし」

「秘書でも気になるんですか?」

「そこは、秘書だから気になる、のかもしれませんね」

「なるほど」


 そこはなんとなくだが納得できた。


「御覧になっていきますか?」

「はい?」

「頭取の執務室ですよ」

「良いんですか?!」


 思わず後ろのシートから乗り出す。引き気味の安達さんの表情に、「あ、しまった」と思ったが後の祭りだった。


「あ、すみません、本音がダダ漏れすぎました……」

「まあ、表向き羽織屋さんは、その執務室で頭取と打ち合わせをしているわけですし、内装がどのようなものか誰かに質問された時、答えられなかったら困るでしょう?」

「誰が質問してくるんだって話ですけど、良いんですか? 勝手に部外者を入れてしまって」

「もちろん頭取の許可はとりますよ」


 そう言いながら、メールをどこかにしている。おそらく上の病室にいる小此木さん宛だ。その素早いフリック入力に感心してしまう。


「入力が早いですね。私、そんなに素早くできません」

「時は金なりですから」

「銀行の人が言うと説得力があります」


 すぐに返信が戻ってきた。こちらも素早い。


「頭取の許可が出ました。本社に戻ったらご案内します」

「ありがとうございます!」

「ああ、そういうことか」


 安達さんが急に笑い出した。


「はい?」

「羽織屋さん、今日もワクワクして本社に来られたんですね? それでエレベーターが上に行かず、下に行ったのが気になったと」

「……はい、そんなところです」


 些細なことでも忘れずしっかりと覚えていたのは、さすが秘書といったところだろうか。こちらとしては、きれいさっぱり忘れてくれていたほうが良かったのに。


「それはそれは、気がつかず申し訳ないことをしました」

「いえいえいえいえ!! こちらこそ申し訳ありません!!」

「頭取の許可も出たことですし、本社に戻りましたら、心置きなく見学していってください」

「なんだかすみません……」


 安達さんは笑いながら、車を発進させた。

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