第九話 頭取さんに気に入られたようです

「はー……これが大手銀行の頭取さんのお仕事部屋」

「もし良ければ、座り心地も体験してください」


 小此木おこのぎさんのオフィスに案内され、興味深げに部屋を見回す私に、安達あだちさんはソファの背もたれを軽くたたいた。見るからに高級そうだ。そして、高級そうなのはソファだけではない。デスクは言うまでもなく、壁にかかっている絵画や足元のカーペットも高級そうだ。真面目な話、靴を脱いで入ったほうが良いですか?と質問したくなった。


「いえいえ。すぐに失礼しますので!」

「頭取から、羽織屋はおりやさんに話すようにと、言われていることがありますので」

「そうなんですか?」

「はい。立ち話ですむほど短くないので、お座りになってください」


 そう言われ、おそるおそるソファに座る。さすが大手銀行頭取の部屋のソファ。見た目も高級そうだったが、座り心地も最高だ。そこに落ち着くと、それを見計らったかのように、行員さんがお茶をお盆に乗せて部屋に入ってきた。


「どうぞ」

「ありがとうございます!」


 お湯呑みも茶たくも高級そうだ。きっとお茶も例外なく、高級な茶葉なのだろう。あまりに自分の会社と違うので、若干、引き気味になる。


「それで私にお話と言うのは?」


 その人が部屋を出ていくのを待って、質問をした。


「羽織屋さんは質問をせずに通していらっしゃいますが、頭取の病気のことです。これからも原稿の受け渡しで通っていただくので、ある程度は話しておいた方が良いだろうと、命じられまして」

「あの、良いんですか? 私は部外者で、まったくの他人ですが」


 安達さんは小此木さんの秘書という立場上、知っておかなければならないこともあるだろう。だが私は、回顧録の担当を任されただけの編集者だ。そこまで内情を聞いてよい立場ではない。投薬の予定や手術の予定に関しては、原稿の受け取りに必要だから教えてもらっただけで、その他のことは聞くつもりはなかった。


「私もそう申し上げたのですがね。頭取はあなたを信じるに足る人物だと、判断したようです」

「……加茂かも先生に気に入られたからでしょうか?」


 安達さんが笑った。


「それもおっしゃっていましたよ。あの先生が気に入る人間はめったにいないから、羽織屋さんは信用できると」

「それって一体、どういう判断基準なんですかね。喜んで良いのか微妙な気分です」

「そのあたりのことは私も判断しかねますね。ですが頭取の命令ですので、私が知っている範囲でお話しておきます」

「はい」


 安達さんが話してくれたことを簡単にまとめると、次のようなことだった。


 頭取の病気はガンであること。予想していたより進行していなかったこと。進行してはいなかったが、安心できるほど初期のステージでもなかったこと。投薬治療で使われる薬は、がん細胞の検査した結果で選ばれたもので、効果は十分に期待できるものであること。投薬治療が終了したら、病巣を取り除く手術をすること。手術後にさらに一ヶ月ほどの投薬治療をして、がん細胞の根絶をめざす予定なこと。


「投薬の薬に複数の候補があるなんて、初めて聞きました」

「昔と違って、最近はがん細胞のタイプによって使う薬が違うそうです。ずいぶんと医学は進んだものだと、頭取も感心していましたよ。もちろん私もです」

「では、お元気になって退院できるんですね?」

「まだ油断はできないとのことですが、我々はそう期待しています」

「そうですか、よかったです。だったら……」


 言いかけて口をつぐむ。


「慌てて回顧録を書く必要もなかったのでは?とおっしゃりたいんですよね?」


 安達さんが笑いながら言った。


「まあ……そんなところです。もしかして、キャンセルの可能性もあるんでしょうか?」

「今回の入院が、頭取ご自身のこれまでの人生を、振り返るきっかけになったのは事実です。ですから、回顧録をキャンセルすることはないと思います。見たところ、楽しんで書いていらっしゃいますからね。絶対に完成させると思いますよ?」

「そうですか」


 それを聞いて少しだけ安心した。いやいや押しつけられた担当ではあったけれど、今は頑張って書きあげてほしいと思っていたからだ。それもあり、さっき受け取った原稿も、帰社してから目を通すのを楽しみにしている。


「とにかくホッとしました」

「ただまあ……」

「ただまあ?」


 少しだけ、雲行きのあやしい話が続きそうな雰囲気になる。


「人生を振り返ったのをきっかけに、後進に道をゆずると言い出さないかと、心配しておりましてね」

「あ、そういう可能性も……あるんですか」

「ご存じのように、それまでは営業一筋のかたでしたし、今の地位にあまり執着していらっしゃらないので」

「そうなんですか? 大手企業では派閥争いもあって、それを勝ち抜いてトップに立つという話じゃないですか。小此木さんも、そういうパターンで昇りつめたんじゃないんですか?」


 私の質問に安達さんは困ったように笑う。さすがにこの質問には答えられないか。


「でも、人生を振り返った小此木さんが、奥さん孝行をしたいと言い出したら、誰も止められませんよね? おとなしくゆずられるしかないですよね、後ろにいる人達は」

「たしかにそうですね。そうなったら、誰にも止められないと思います。ああ、それで思い出しました。これは私の、個人的な情報提供なのですが」

「個人的な情報提供」


 この話の流れで頭取秘書からの情報提供だなんて、恐ろしくて聞きたくない気がしないでもない。


「羽織屋さんは、頭取ご夫妻に気に入られたようです」

「ご夫妻」

「はい。奥様にも、ということですね」


 このパターン、もしや加茂先生のお宅と同じでは?


「なるほど。嫌われるよりは良いですね」

「まあそうですね。しかし、気をつけてくださいね」

「はい?」


 どうしてそこで「気をつけてください」になるのかさっぱりだ。


「それは、気に入られているからと言って、いい気になるな的な話ですか?」

「いえいえ、そういうことではなく。頭取ご夫妻に気に入られると、次にやってくるのは、間違いなく婿むこを世話させてくれ、ですから」

「はい ―― ?!」


 予想外の言葉に、ソファからずり落ちそうになる。


「ちなみに私もそうでした。頭取に就任される前でしたが」


 そう言いながら、安達さんは自分がしている結婚指輪を見せた。


「えええええ……」

「羽織屋さん、今現在、お付き合いされているかたはいらっしゃいますか?」

「いえ、今はフリーですけど……」


 その返事に安達さんがニッコリとほほ笑む。


「でしたら、やはり気をつけてください。間違いなく言われますから」

「いやいやいやいや……まずはその前に、ご自身の治療ですよね?」


 いくら良い薬ができたからといって、今はそんなことをしている場合ではないと思うのだが。


「おっしゃるとおりです」

「それでも気をつけないといけませんか」

「話を持ってこられたらまず断れないと思うので、気をつけてもムダという話もありますが」

「マジっすか……」

「もちろん、頭取が退院するまでに、相手を自力で見つけたら話は別だと思いますよ? どうですか?」

「どう考えても無理っす」


 今から知り合いに声をかけて合コンをしまくる? 無理無理! どう考えても無理スジだ。


「あの、まさかその相手を探すのも、秘書室の仕事とか言いませんよね?!」

「まさか! さすがに我々も、そこまで公私混同な仕事はしませんよ。ああ、そうそう。ちなみに、話がうまく進んだら、仲人なこうどをせてくれとおっしゃると思います」

「あの! それは、秘書室として阻止することはできないのでしょうか?!」

「無理ですね」


 安達さんは秘書らしいすました顔でそう言った。


「即答ですか」

「羽織屋さんのところで仲人なこうどをしたら、何組ですかねえ……ちょうど二十組目になるかと。キリが良くて、大変けっこうですね」

「いえ、あの、まだ数に入れないでもらえますか?」

「以上が私の個人的な情報提供です」

「提供されても対処できる気がしません」


 笑みを浮かべている安達さんを前にして、ため息をつく。


「ああ、お茶がさめてしまいましたね。入れなおすように言いましょうか」

「いえ、けっこうです。猫舌なので、このぐらいがちょうど良いですから」


 そう答えると、お湯のみに手をのばした。冷めてはいたが、緑茶のいい香りがする。さすが大手銀行、冷めてもいい香り。これは絶対に高級茶葉だ。やけくそ気味になりながら口をつけた。


「ところで安達さん」

「なんでしょう」

「夫婦仲は円満なんですか?」

「もちろんです。頭取ご夫妻の目は間違いありませんでしたよ。私も妻も感謝しています」

「そうですか」


 ため息をつきながらお茶を飲み続ける。……本当においしいお茶だった。


「あ、私は別に紹介してほしいわけじゃありませんから!」

「それは頭取に直接おっしゃっていただきませんと」


 安達さんは秘書的なほほ笑みを浮かべてそう言った。

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