第九話 頭取さんに気に入られたようです
「はー……これが大手銀行の頭取さんのお仕事部屋」
「もし良ければ、座り心地も体験してください」
「いえいえ。すぐに失礼しますので!」
「頭取から、
「そうなんですか?」
「はい。立ち話ですむほど短くないので、お座りになってください」
そう言われ、おそるおそるソファに座る。さすが大手銀行頭取の部屋のソファ。見た目も高級そうだったが、座り心地も最高だ。そこに落ち着くと、それを見計らったかのように、行員さんがお茶をお盆に乗せて部屋に入ってきた。
「どうぞ」
「ありがとうございます!」
お湯呑みも茶たくも高級そうだ。きっとお茶も例外なく、高級な茶葉なのだろう。あまりに自分の会社と違うので、若干、引き気味になる。
「それで私にお話と言うのは?」
その人が部屋を出ていくのを待って、質問をした。
「羽織屋さんは質問をせずに通していらっしゃいますが、頭取の病気のことです。これからも原稿の受け渡しで通っていただくので、ある程度は話しておいた方が良いだろうと、命じられまして」
「あの、良いんですか? 私は部外者で、まったくの他人ですが」
安達さんは小此木さんの秘書という立場上、知っておかなければならないこともあるだろう。だが私は、回顧録の担当を任されただけの編集者だ。そこまで内情を聞いてよい立場ではない。投薬の予定や手術の予定に関しては、原稿の受け取りに必要だから教えてもらっただけで、その他のことは聞くつもりはなかった。
「私もそう申し上げたのですがね。頭取はあなたを信じるに足る人物だと、判断したようです」
「……
安達さんが笑った。
「それもおっしゃっていましたよ。あの先生が気に入る人間はめったにいないから、羽織屋さんは信用できると」
「それって一体、どういう判断基準なんですかね。喜んで良いのか微妙な気分です」
「そのあたりのことは私も判断しかねますね。ですが頭取の命令ですので、私が知っている範囲でお話しておきます」
「はい」
安達さんが話してくれたことを簡単にまとめると、次のようなことだった。
頭取の病気はガンであること。予想していたより進行していなかったこと。進行してはいなかったが、安心できるほど初期のステージでもなかったこと。投薬治療で使われる薬は、がん細胞の検査した結果で選ばれたもので、効果は十分に期待できるものであること。投薬治療が終了したら、病巣を取り除く手術をすること。手術後にさらに一ヶ月ほどの投薬治療をして、がん細胞の根絶をめざす予定なこと。
「投薬の薬に複数の候補があるなんて、初めて聞きました」
「昔と違って、最近はがん細胞のタイプによって使う薬が違うそうです。ずいぶんと医学は進んだものだと、頭取も感心していましたよ。もちろん私もです」
「では、お元気になって退院できるんですね?」
「まだ油断はできないとのことですが、我々はそう期待しています」
「そうですか、よかったです。だったら……」
言いかけて口をつぐむ。
「慌てて回顧録を書く必要もなかったのでは?とおっしゃりたいんですよね?」
安達さんが笑いながら言った。
「まあ……そんなところです。もしかして、キャンセルの可能性もあるんでしょうか?」
「今回の入院が、頭取ご自身のこれまでの人生を、振り返るきっかけになったのは事実です。ですから、回顧録をキャンセルすることはないと思います。見たところ、楽しんで書いていらっしゃいますからね。絶対に完成させると思いますよ?」
「そうですか」
それを聞いて少しだけ安心した。いやいや押しつけられた担当ではあったけれど、今は頑張って書きあげてほしいと思っていたからだ。それもあり、さっき受け取った原稿も、帰社してから目を通すのを楽しみにしている。
「とにかくホッとしました」
「ただまあ……」
「ただまあ?」
少しだけ、雲行きのあやしい話が続きそうな雰囲気になる。
「人生を振り返ったのをきっかけに、後進に道をゆずると言い出さないかと、心配しておりましてね」
「あ、そういう可能性も……あるんですか」
「ご存じのように、それまでは営業一筋のかたでしたし、今の地位にあまり執着していらっしゃらないので」
「そうなんですか? 大手企業では派閥争いもあって、それを勝ち抜いてトップに立つという話じゃないですか。小此木さんも、そういうパターンで昇りつめたんじゃないんですか?」
私の質問に安達さんは困ったように笑う。さすがにこの質問には答えられないか。
「でも、人生を振り返った小此木さんが、奥さん孝行をしたいと言い出したら、誰も止められませんよね? おとなしくゆずられるしかないですよね、後ろにいる人達は」
「たしかにそうですね。そうなったら、誰にも止められないと思います。ああ、それで思い出しました。これは私の、個人的な情報提供なのですが」
「個人的な情報提供」
この話の流れで頭取秘書からの情報提供だなんて、恐ろしくて聞きたくない気がしないでもない。
「羽織屋さんは、頭取ご夫妻に気に入られたようです」
「ご夫妻」
「はい。奥様にも、ということですね」
このパターン、もしや加茂先生のお宅と同じでは?
「なるほど。嫌われるよりは良いですね」
「まあそうですね。しかし、気をつけてくださいね」
「はい?」
どうしてそこで「気をつけてください」になるのかさっぱりだ。
「それは、気に入られているからと言って、いい気になるな的な話ですか?」
「いえいえ、そういうことではなく。頭取ご夫妻に気に入られると、次にやってくるのは、間違いなく
「はい ―― ?!」
予想外の言葉に、ソファからずり落ちそうになる。
「ちなみに私もそうでした。頭取に就任される前でしたが」
そう言いながら、安達さんは自分がしている結婚指輪を見せた。
「えええええ……」
「羽織屋さん、今現在、お付き合いされているかたはいらっしゃいますか?」
「いえ、今はフリーですけど……」
その返事に安達さんがニッコリとほほ笑む。
「でしたら、やはり気をつけてください。間違いなく言われますから」
「いやいやいやいや……まずはその前に、ご自身の治療ですよね?」
いくら良い薬ができたからといって、今はそんなことをしている場合ではないと思うのだが。
「おっしゃるとおりです」
「それでも気をつけないといけませんか」
「話を持ってこられたらまず断れないと思うので、気をつけてもムダという話もありますが」
「マジっすか……」
「もちろん、頭取が退院するまでに、相手を自力で見つけたら話は別だと思いますよ? どうですか?」
「どう考えても無理っす」
今から知り合いに声をかけて合コンをしまくる? 無理無理! どう考えても無理スジだ。
「あの、まさかその相手を探すのも、秘書室の仕事とか言いませんよね?!」
「まさか! さすがに我々も、そこまで公私混同な仕事はしませんよ。ああ、そうそう。ちなみに、話がうまく進んだら、
「あの! それは、秘書室として阻止することはできないのでしょうか?!」
「無理ですね」
安達さんは秘書らしいすました顔でそう言った。
「即答ですか」
「羽織屋さんのところで
「いえ、あの、まだ数に入れないでもらえますか?」
「以上が私の個人的な情報提供です」
「提供されても対処できる気がしません」
笑みを浮かべている安達さんを前にして、ため息をつく。
「ああ、お茶がさめてしまいましたね。入れなおすように言いましょうか」
「いえ、けっこうです。猫舌なので、このぐらいがちょうど良いですから」
そう答えると、お湯のみに手をのばした。冷めてはいたが、緑茶のいい香りがする。さすが大手銀行、冷めてもいい香り。これは絶対に高級茶葉だ。やけくそ気味になりながら口をつけた。
「ところで安達さん」
「なんでしょう」
「夫婦仲は円満なんですか?」
「もちろんです。頭取ご夫妻の目は間違いありませんでしたよ。私も妻も感謝しています」
「そうですか」
ため息をつきながらお茶を飲み続ける。……本当においしいお茶だった。
「あ、私は別に紹介してほしいわけじゃありませんから!」
「それは頭取に直接おっしゃっていただきませんと」
安達さんは秘書的なほほ笑みを浮かべてそう言った。
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