第二十一話 頭をツルツルにしたそうです

「こんにちはー」

「あ、羽織屋はやりやさん、お久し振りですー」


 今日は、我が社が出版物の印刷依頼をしている工場にやってきた。出迎えてくれたのは工場長さん。ずいぶん前、河野こうのさんにつれてきてもらった時、工場を案内してくれた人だ。


「お久し振りです。いよいよゲラ刷りの段階に入りましたので、データ諸々を持ってきました」

「あー、はいはい。河野さんから聞いてますよ。ちょっと訳あり案件だって」


 少しだけ声をひそめて笑った。


「大事なのは機密性なんですよー」


 私がそう言うと、工場長さんは大袈裟おおげさに眉をひそめてみせる。


「うちが何年、光栄こうえいさんの仕事をやってると思ってるんです? これまで一度でも、事前にネタバレが起きたことがありましたっけ?」

「そうでした」

「まあそれでも万が一ってこともあるので、今回の印刷に立ち会う人間は、私が選びましたよ。このメンバーなら、誰か探りを入れてきても心配ないと思います」

「ありがとうございます!」


 まだ東都とうと銀行さんに動きはない。とにかく正式に人事の発表があるまでは、これまで以上に厳重な注意が必要だ。事務所に向かう途中、大きな印刷機が音を立てながら動いているのが見えた。


「今日は大型の輪転機りんてんきを回してるんですね」

「部数が多くて納期が間に合わないってんで、業者仲間からSOSが来ましてね。いま何社かで手分けして、超特急で印刷してるヤツなんですよ」

「へー。私、あれが動いているのを見るのは初めてです」


 印刷機には、巨大なトイレットペーパーのような用紙がセットされている。初めてあれを見た時は驚いたものだ。


「うちも最近は、枚葉機まいようきが主力ですからねー。ま、たまにああやって動かしてやらないと印刷機がねちゃうんで、ちょうど良かった」

「やっぱり印刷部数って減ってますか?」

「最近はどのジャンルでも、電子書籍が増えましたからねえ。最盛期に比べれば、印刷部数はかなり減ったと思いますよ。だけど0じゃないのでね」


 最近はデータ入稿がほとんどで、色の配合などもすべて数値化されている。だが最後は人の目に頼ることになるので、工場長さん達のような職人気質の人達は、まだまだ必要とされていた。


「こんにちはー」

「あ、いらっしゃい、羽織屋さん」


 事務所に入ると、オペレーターのお姉さんがニッコリしながら迎えてくれた。


「データを持ってきましたー」

「本紙本機校正だよね。羽織屋さんもそういう仕事をするようになったのか。一人前になるのが早いねー」

「いやいや、まだ一年目のペーペーですよ。今回は人がいなくて、私にお鉢が回ってきただけです」


 一人前なんてとんでもないと、手を振りながら笑う。


「またまたー、ご謙遜けんそんをー」

「本当ですって。今回のこれ、編集長と河野さんにも手伝ってもらってますから」

「すごーい! 編集長まであごで使うまでに!」

「どうしてそういうことに?」


 表紙と本文の校正紙、印刷の指示書、そしてデータの入ったメモリーを渡した。


「さっそくデータの確認するね。時間ある? いちいち電話してあれこれ聞くより、その場で確認したほうが早いし」

「時間は大丈夫です。データに関しては問題ないと思うんですけどね。表紙も武田たけださんが作ってくれたものですし、はめ込む写真も武田さんが整理してくれているので。あ、もちろん確認は私もしてます」

「ああ、武田さんがデザインしたものなのね。今回はどんなものなのかなー」


 メモリーをパソコンにつなぎデータを読み込む。思っているより転送に時間がかかっていた。


「それなりに時間がかかるものなんですね」

「最近は画像データが、どんどん大きくなってるからね。でもこれはまだ、マシなほうだと思うわよ。フルカラーの雑誌とか大変だから。おかげでここのパソコン、何度買い換えたことか」

「それだけでも痛い出費だったよなあ……」


 工場長さんが遠い目をした。


「そういうものなんですか」

「特に印刷用の生データは、普通のデータに比べると大きくなりがちだから。はい、転送終了。これは返しておくわねー」


 メモリーを返してもらう。


「さてさて、文字化けはないかしらー?」


 テキストデータを開き、どんどん流していく。


「私が打ち間違えている以外は、特に問題なしだと思うんですけどね」

「何人で校正しても、あれだけは不思議となくならないのよねー。うちでも印刷前に、常識読みはしておくね」

「お願いします。今回は校正さんを入れてないので、心配で心配で」


 結局、校正さんにお願いすることができないまま、ここまできてしまった。本音では、今からでも誰かにお願いしたいぐらいなのに、編集長が首を縦に振ってくれないのだ。


「そこまで秘密厳守なんだ?」

「そうなんですよ。それもあって、編集長が校正作業に加わったんです」

「そういうことだったの。工場長、だったらウチでの確認、ラインに入る人達にもお願いしましょうか。印刷にかける前の紙面確認はどうせするんだし」

「そうだなあ。そのほうが安心かもしれんな、羽織屋さん的には」


 本当に何人でやっても心配なのだ。関わる人間が増えれば漏れる心配も増えるが、少なくとも誤字脱字が残る可能性は減る。私の独断でお願いしてしまっても良いだろうか。


「これは、ここまでの工程を確認したうえでの現場から提案。編集長には印刷責任者として電話するから、羽織屋さんは心配しなくて良いよ。間違ってました刷り直しますで困るのは現場だし、当然の提案だからね」


 私の顔を見て察したのか、お姉さんがニッコリとほほ笑む。


「助かりますー」

「うちは小規模な工場な分、多少の変則的な作業が入っても大丈夫だからね。まあ本職の校正さんにはおよばないが、できるだけのことはやっておくよ」

「本当に助かります。ありがとうございます。私も時間がある限り、チェックは重ねていきますので」


 これで少しは不安の種が減る。工場長さんの言葉に、少しだけ肩の荷が軽くなった気がした。


「さて、じゃあ、確認していくよー」



+++



 データの文字化けや写真データの抜け落ちもなく、無事にデータの受け渡しも完了した。あとはゲラ刷りが刷り上がるのを待つだけだ。これまでは校正紙でイマイチ本という実感がなかったが、これが出来上がってくると、いよいよ本らしくなる。


―― 楽しみだなー、小此木おこのぎさんの本。まだゲラだけど ――


 駅に向かって歩いていると、カバンの中でスマホがブルブルと震えるのを感じた。


「ん? もしかしてお使いの指示かな」


 ここだと、会社に戻るまでに加茂かも先生のご自宅がある。もしかしたら河野さんから、原稿を受け取ってこいという指示かもしれない。


「……あれ、小此木さんからだ」


 送信者は小此木さんの奥様だった。アプリを開くと、頭をツルツルにした小此木さんが、ニカッとこちらに向けて笑いかけていた。


「おお、おもいっきりツルツル!」


『意外と主人の頭の形は整っているとわかりました。それまでは絶壁だと思っていたんですよ』


 前、横、後ろと三枚の写真が次々と送られてくる。


「本当だ。なかなかいい形してるー」


 せっかくなのでお返事をしておかなければ。


『たった今、印刷工場でゲラ刷りの手配を完了しました。今しばらくお待ちください。それと写真を拝見しました。ずいぶんと思い切りましたね。てっきり五分刈り程度だと思っていました!』


 しばらくすると返事が既読になる。


『五分刈りは未練がましいので、思い切ってツルツルにする決断をしました! ちょっと頭が寒くて後悔しています!』


 その返信に笑ってしまった。どうやら小此木さん御本人が送ってきたようだ。


「でもほんと、前向きだよなー……」


 髪の毛のことだけでなく諸々のことも含めて、自分だったらここまで思い切れるだろうかと考える。もちろんいろいろ考えたから回顧録を書こうと思い立ったのだろうが、それでも小此木さんはどこまでも前向きだ。


『頭からお風邪をひかれませんように』


 失礼だと思いつつ、そう返信する。すぐに既読がついた。


『ありがとう! ゲラ刷り、楽しみにしています!』


 その返信を読んでいる時にメールが着信した。今度こそ河野さんだった。


『急用ができた。加茂先生のところに寄って原稿の受け取りを頼む。時間は四時』


「ちょっと四時って、あと三十分もないじゃないですか! 無理無理、無理ですよ! 飛ばない限り無理!」


 メールではらちがあかないと、河野さんではなく加茂先生のご自宅の電話番号をタップした。こういう時は、河野さんではなく加茂先生のところの吉田よしださんだ。


「あ、加茂先生のお宅ですか? 光栄出版の羽織屋です! 吉田さん、実はですね……」


 電話で話しながら駅まで走った。

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