泡沫(4)



 ある日帰宅した織哉は、珍しく考え込むような表情を見せていた。


  足にまとわりつき抱っこをせがむ明を、考え込む様子のまま抱き上げる。


 腕の中の明に、好きなように髪やら頬やら引っ張らせつねらせながら、やはり何か考えている。



「唯真。ちょっといい?」



 織哉の様子に気が付いていた唯真は、さりげなく夫の周りをうろうろしていたのだが、存外早くお呼びがかかる。


 明を抱いたままソファに腰掛けた織哉の隣に、唯真も腰を下ろした。


 小さな手でいたずらを仕掛けてくる息子の頭を、顎でぐりぐりしてやり返しながら、織哉は口を開く。



「あのさ、高遠さんって、覚えてる?」



 夫の口から出た人物の名に、唯真は思わず声を大きくする。



「高遠さん?私の元上司の高遠隆たかとおのぼるさん?」



「そう。唯真と初めて会った時、俺を無期懲役の凶悪犯見る様な顔で睨んできた、あの高遠さん」



 父親のあごぐりぐり攻撃をかわし、再度顔に手を伸ばしてきた息子に口を引っ張られながら、織哉は話を続ける。



「こら明やめなさい。しゃべれないだろ。昔唯真が言ってた優秀な警察の友人って、あの人の事でしょ?


 あの人本当に優秀過ぎて、御乙神家の情報部門が用意した偽の捜査記録なんてハナから見破って今でも唯真の捜索諦めてなくて、とうとう御乙神家の存在まで行き着いた様子だよ」



 片手で明のいたずらの相手をしてやりながら、織哉は淡々と語る。


 話を聞いて、唯真の顔から表情が引く。御乙神家は犯罪組織ではないが、人智を超える力を持つ集団である。


 そして目的に対する行動は、唯真が体験した通り、決して穏やかなものではない。


 その行動様式を変えるために輝明は奮闘していた訳だが、どう考えても非暴力主義に転向できたとは思えない。


 そして今御乙神家は、一族を滅亡させると予言されている明の捜索に躍起になっているはずだ。


 恨まれているはずの唯真の行方を追ってきた一般人など、苛立ちついでにどんな目に遭わされるか分かったものではない。


 高遠が危ない―――織哉の言わんとしていることを察して、唯真は膝に乗せた手を握りしめる。



「警察関係の人って、人の生死に関わるせいか、口に出さないだけで目に見えない世界の事信じてる人結構居るんだよ。

 高遠さんも、その辺のつてをたどって御乙神家の存在にたどり着いたんじゃないかな。


 でも、一族に繋がりの無いフリーの拝み屋でも、御乙神家の事はそう簡単に一般の人には漏らさないはずなんだけどね。よっぽど高遠さん、情報網広く持ってる上に粘り強く捜査したんだろうね」



 唯真の手が、夫の肩に置かれる。明をあちこち指でつついて相手をしていた織哉は、固い表情の妻に目をやる。



「織哉……」



「うん。俺も色々考えたんだけど、一番良いのは、高遠さんに唯真が無事でいることを知らせる事かなって思うんだ。高遠さんの目的は唯真だから、唯真が無事でいる事さえ知れば捜査をやめるはず」



「会いに行くのは……難しいわね。電話か手紙で知らせれば……でも、信用してもらえるかな……」



 深刻な顔で呟く母親を、明は不思議そうな様子で見上げている。


 そんな息子を腕に抱き直し、片手でわさわさと髪をかき混ぜてやりながら織哉が言った。



「俺に一つ、考えがあるんだけど」





 『ここはどこだ?俺は一体何を?』と、高遠は自分でも間抜けだと思う独り言をこぼした。


 周囲には、何も無い。足で立ってはいるが、地面も見えない。


 辺りは、明る過ぎない柔らかい白で覆われていた。その色は、インテリアに詳しい人間なら、ごく僅かに茶色味が混じったアイボリーと表現しただろう。


 俺は署で出前を食った後に仮眠を取っていたはず、と、自分の現状を思い出し、高遠は周囲をせわしなく見回す。


 状況がさっぱり分からなかったが、不思議と恐怖は感じなかった。


 不意に、正面に人影を見留める。三メーターほど先の近距離には、ついさっきまで誰も居なかったはずだった。


 柔らかな白い景色の中に立つ人物に、高遠は思わず大声を上げた。



「佐藤!」



 七年前、有り得ないほど不運な退職の後、今度は精巧に手の込んだ根回しをされ消息を絶った元部下の姿に、高遠は一も二もなく駆け寄る。


 髪の色や長さは変わっていたが、それは間違いなく優秀な割に妙に危なっかしくて目の離せなかった、元部下の佐藤唯真だった。


 七年行方を探し続けた佐藤唯真の肩に手を掛けようとするが、その手は空中で固まった。


「はぁ?」



 唯真の腕には、幼稚園年長ほどの幼子が抱かれていた。


 当たり前の様に唯真に抱かれる幼子と、以前とは別人の様に柔らかい表情の唯真は、どう見ても、母と子だった。


 『ちょっと待て何てこった』と、高遠は不思議そうに見上げてくる幼子と、恥じらうように微笑む唯真を交互に見る。


 何の暗さもない子供の表情と、以前は無かった女としての艶やかさが美しい唯真は、どちらも幸せそうな様子だった。


 誰が見ても分かるほど全身から男嫌いのオーラを出していて、男性職員は高遠以外食堂の相席にすら座れなかった部下が、何と母親になっていた。


 しかも、女性として大切に愛されているのが丸わかりの幸せそうな姿で。


 『何が起こった何でこうなった!』と心の中で叫ぶ高遠に、唯真は腕の中の明を優しく抱き直しながら言う。



「お久しぶりです、高遠さん。色々と、ご心配をかけてしまって申し訳ありません」



「いや、それはいいんだ、お前が無事でありさえすればいいんだ。ついでに幸せそうで何よりだ。

 そうか、結婚していたのか。こんなかわいい子供まで。随分きれいな顔をした子だな。お前じゃなくて父親似だな。これは将来さぞや井ノ上が喜びそうなイケメンとやらに……」



 そこまで言って、高遠は言葉が止まる。自分を不思議そうに見上げてくる幼子の顔を、じっと見る。


 つい職業柄、頭の中のデータベースを検索してしまう。そして、ある一人の人物がヒットする。



「……佐藤。まさか、この子は……」



 半ば引きつった表情の高遠に、背後から織哉が耳元で囁いた。



「どうもこんばんはお久しぶりです俺が父親です」



「やはり貴様か御乙神織哉っ!」



 自分の背後をしっかり取って現れた織哉に、高遠は素早く向き直り半身の構え(*合気道における基本的な構え)を取る。


 けれど既に背後を取られた後である。歯ぎしりするほど悔しそうな高遠に唯真は驚いて尋ねる。



「高遠さん、織哉の事を知っているんですか?」



「お前の事を捜査していたら出てきたんだよ!神道系の霊能者一族の御乙神家。古代から記録が残る霊能者の血族で、時の権力者達をその不思議な力で影から支えてきた。


 血筋は現代でも続いていて、決して世間の表には出ずいわゆる高級階層から目に見えない世界の案件を受けている。そのエリート拝み屋一族の本家のお坊っちゃまだコイツは!」



 高遠は、苦々しい顔で調べ上げた情報を語る。対して織哉は、素直に感心した様子で言葉を返した。



「うわ、良くそこまで調べましたね~。さすが唯真が信頼する人だけあるなぁ本当に優秀だ。でもその技量で警部補止まりって、やっぱり唯真と一緒で善人過ぎて世渡り下手なタイプなんですね~」



「やかましいわこの上なく怪しい職業の顔だけ男め!あの居酒屋で佐藤を口説いているのを見た時、物凄い嫌な予感がしたんだよ!感情の入り方が初対面のレベルじゃなかったからな!


 一体いつから佐藤をストーキングしてたんだ!しかも誘拐した挙句子供までこさえやがって何てことしてくれたんだ!」



「あ、やっぱり気付いていたんですか。本当に優秀ですね~。


 あの時、あなたが本気で俺を殴ってでも唯真から追い払うつもりなのが分かったから引いたんですよ。しかし何かもう、言動が上司というより父親ですね高遠さん」



「そうか気付いていたか。だったら遠慮は要らなかったなあの時ボコボコにしとくべきだったな。いっそ息の根を……」



「あの、高遠さん……」



 織哉に煽られて暴走し始めた高遠を、唯真は止めようと傍に行って肩に手を置こうとする。


 その時、父親に詰め寄る見知らぬ人間を見上げていた明が、声を上げた。



「おじいちゃん?」



 幼児独特の舌ったらずな物言いに、高遠は織哉の襟首を締め上げかけた手をぴたりと止め、唯真の腕の中の明に向き直る。


 絵本やテレビの情報で、明も『おじいちゃん』の存在を知っている。しかし、明の『おじいちゃん』は存在しない。親戚にも、会うことはない。


 明の零した言葉に、唯真は思わず痛いような顔をする。その様子をちらりと盗み見て、高遠は自分を見上げてくる幼子に顔を近づけた。



「……そうだよ、おじいちゃんだ。さあ、おいで」



 すい、と唯真の腕から明をすくい上げ、高遠は慣れた手つきで抱き、微笑む。


 高遠の生き様が映る、太く包容力のある笑顔だった。


 シミの出来た顔に白髪の多くなった髪に、無邪気に小さな手を伸ばす明を、高遠は優しくゆすってやりながら楽しそうに見守っている。



「名前は?」



「あきら。みこがみあきら」



「そうか、明か。良い名前だ。お父さんとお母さんは仲良しか?」



「うん。なかよし。でもおとうさんすごくつよいのに、おかあさんのがつよいの」



「そうか。それでいいんだ。仲良しなんだなお父さん達は」



 あまり感情が表に出ない明が、うん、とうなづく。


 そんな明の様子は、唯真から見ると、とてもご機嫌だった。


 高遠は、表情が変わらないながらも、嬉し気に瞳を輝かせて自分を見上げてくる幼子に言う。



「明。いつかおじいちゃんの所に遊びにおいで。おばあちゃんとお兄ちゃん達と、甘えん坊の大きな犬がいるから。うちにお泊りしたらいい。楽しいぞ」



 話しながら、周囲の景色が霞んできた。唯真や御乙神織哉の姿も霞み、消えていく。



「お父さんとお母さんと一緒に、遊びにおいで。急がなくても良いから。おじいちゃんが生きている限り、待っているから。必ず、遊びにおいで」



 消えていく腕の中の幼子は『うん』とうなづき、初めて笑った。



 白く霞み消えていくその笑顔は、唯真が高遠や井ノ上だけに見せていた笑顔に、本当に良く似ていた。

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