第四の刺客(4)
冷えた空気に蒼い月光が、冴え冴えと映えていた。
今夜は
広い池を囲む石畳の小道を歩きながら、輝明は唯真へ細々と語る。
「この池には鯉がいるんだが、多分ここの鯉は織哉が嫌いだと思うよ」
話を聞いて欲しそうな輝明に、唯真は先を促す返しをする。
「どうしてですか?何かいたずらでもしでかしたんですか?」
輝明は口元に笑みを浮かべ、続きを話し出す。
「もう知っていると思うが、織哉と僕は母親が違うんだ。僕は正妻の子で、織哉は霊能の世界とは全く関係の無い女性との婚外子なんだ」
「はい、その事は聞いています。でも、言われるまで気づきませんでした。あなた方、とても仲が良いから」
「織哉がこの屋敷に引き取られたばかりの頃、織哉を宗家に迎え入れることを巡って異議を唱える者がいてね。
父は引き取ると決めた割に大した根回しはせず、まぁ、色々と厄介なことがあったんだ。
僕はどうも馬鹿正直で苦労性で、織哉を放っておけなかった。そうしたら、織哉に懐かれてしまってね」
ふふ、と思い出し笑いをして、輝明は眼鏡の奥の目を細める。その様子は、とても優しい雰囲気だった。
「当時師匠だったちとせと織哉の事を相談していたら、ドタドタ騒がしいのが近づいてきて、何事かと思ったら織哉の奴、ずぶ濡れで錦鯉を抱えてきて『コイつかまえた』と満面の笑顔でのたまってね。
廊下も部屋の畳も池臭くなるし、捕まえきれなくなった鯉を放してしまって僕の部屋で五〇センチ近い錦鯉が跳ねまわるし、鯉も災難だったと思うが、僕もちとせも災難だったよ」
「まさか、池に飛び込んで鯉のつかみ取りをしたんですか?何でまたそんなことを」
「やらかした理由を聞いたら、僕が難しい顔をして考え込んでいるから、綺麗な鯉を見せて元気づけたかったそうだよ。
それなら散歩にでも誘えば良さそうな気がするが、当時はまだ七歳だったから、突拍子もない方向に発想が向かったんだと思う。
でも、池に飛び込んでまで僕を元気付けようとしてくれたのは、本当に嬉しかった。ああ唯真さん、こっちだ」
もう虫の声が聞こえない晩秋の夜は、耳が痛いほど静かだった。
輝明と唯真の、石畳を進む足音はいつの間にか土を踏む音に変わり、蒼い月光が照らす周囲の植え込みに僅かに響く。
「僕の両親は家同士の事情で夫婦になったんだが、残念ながら上手くいかなくてね。母は織哉が引き取られると決まったら、とうとう実家に帰ってしまったんだ。
当時の僕は、両親の不仲について何の感慨もないつもりだったが、織哉と一緒に過ごすようになって、視界が開けたように毎日が楽しくなった。
織哉から兄として慕われて、初めて家族とは良いものだと思ったんだ。……本当は自分は寂しかったのだということを、織哉が気づかせてくれたんだ」
うつむき加減で前を見ながら、輝明ははにかんだような表情を見せる。
今夜の輝明は、唯真が今まで見たことがないほど表情が豊かだった。何も隠していない、素の心を見せてくれているのが分かった。
「今も、自分の他のただ一人の神刀の使い手として頼りにしている。他の人間とは分かり合えない思いを、共有できる相手なんだ。
かけがえのない、たった一人の弟だよ。だからあいつには、幸せになって欲しいと心から願っている」
輝明に連れられるまま、いつの間にか冬枯れの木々に囲まれた、小さな広場のような場所にたどり着いていた。
周囲に建物や外灯の明かりは見えず、離れなどの建物からも随分離れた場所に来たことが分かった。
唯真が、目を凝らした。見間違いかと思ったのだ。月の光に照らされた木々に、動きがあったような気がしたのだ。
二人の正面、広場の中央に立つひときわ大きい冬枯れの木が、目に見えて枝先が膨らみ始めた。
目を見張る唯真の前で、冬枯れの木々が次々と枝先を膨らませる。
それはあっという間に茶色の皮を破り、可憐な薄桃色のつぼみとなった。
広場を囲む木々は、桜だった。弾ける音が聞こえる様な勢いでつぼみは花開いていき、周囲は満開の桜で覆いつくされた。
蒼い月の光に照らされ、満開の桜が夜空に向かって咲き誇る。
中央の大木も、降る様な薄桃色の花を開花させる。
その様子は、無意識に溜息を吐くほど、美しかった。
「綺麗……すごく綺麗。こんな綺麗な桜、初めて見ました……」
柔らかく桜の花びらが舞い散る中、唯真は傍らの輝明を振り返る。
輝明は、静かに語る。
「ここは、僕の秘密の場所でね。春になると、この通り桜が本当に綺麗なんだ。少し疲れた時や一人になりたい時、ここに来る。
……実は美鈴にも、織哉にも教えていない場所なんだ」
「これは、この桜は幻なんですか?あなたの力なんですか?」
息詰まるほど咲き誇る桜を見て、少し興奮気味に語る唯真に、輝明は「そう」と答える。
「こんな綺麗な桜が、この季節に見られるとは思いませんでした。ありがとうございます」
微笑んで礼を言う唯真には目線をやらず、輝明は目の前の景色を何も見ていない目で告げた。
「――もう、本物を見せてあげることは、決してできないから」
数瞬、言われた意味が分からなかった唯真は、しかしすぐに笑みが引いた。
「いや、まさか」と、己の心に浮かんだ答えを打ち消そうとするが、けれどそれしか答えは見つからない。
無意識のうちに、じり、と足が輝明から離れる。
夢の様に薄桃色の花びらが舞い散る中、輝明は後ずさる唯真に、ゆっくりと目を向けた。
その目は、紛れもない、殺意が、何も隠されることなく映っていた。
じり、じり、と、僅かずつ後ずさる唯真を、ゆっくりと、ごくゆっくりと追いながら、輝明は言う。
揺るがない、殺意の目を向けながら。
「……本物の魔性の女とは、肉感的な色気をこれ見よがしに振りかざすのではなく、月の光の様な色香で静かに男を絡め捕るのだな。……あなたのように」
輝明に隙は無かった。ただ立っているだけでも、技をかける隙も逃げる隙も、唯真には見い出せなかった。
自分も武道を嗜んでいるからこそ分かる。
ゆっくりと追い詰めてくる輝明は、純粋な武闘家としての力量も、とても唯真が敵う相手ではなかった。
「あなたが警察を退職した理由は、自己都合による退職となっていたが、実は違ったのだな」
言われて、強張っていた唯真の顔に、わずかに抗議するような様子が見えた。
手に負えない相手に追い詰められる恐怖の中、それでも気概を見せてくる女性に、輝明もわずか、表情を動かす。
その感情は、非難だった。
「警察側が徹底的に隠ぺいしていたから、うちの情報部門でも中々分からなかったらしい。あなた、結婚前の上司と恋愛沙汰で揉めて、挙句相手の婚約者を大怪我させたそうだな」
「違います!それは違う絶対に!私はそんなことはしていません!一方的に追い回されて交際を断ったら栄転を握り潰された!
その上勝手に婚約破棄してきて婚約者が怒って職場に乗り込んできたんです!私は何もしていない!」
組織内の武術大会で何度も優勝し実務の実績も積み、二十七歳の時、唯真は本庁警備部への転属の辞令を受けた。いわゆる要人警護・SPへの昇格だった。
唯真の所属していた管内からは初の抜擢で、以前から強く後押しをしてくれていた高遠もそれは喜んでくれた。
「お前の腕に合った男がわんさといる場所だから、良いダンナ探してこい。何なら護衛対象のお偉いさんを捕まえて玉の輿に乗ってしまえ」と満面の笑顔で祝福してくれた。
だからあの時の自分は、浮かれていたのだ。ずっと断っていた後輩の井ノ上の頼みを引き受けてしまった。
それは忘年会での余興だった。課の女性職員全員で仮装をしてアイドルグループのダンスを踊るという、よくある余興だ。
皆、別々の仮装で、唯真の仮装は「マリリン・モンロー」だった。
井ノ上は、以前から唯真の金髪姿が見たいと言い続けていた。唯真にドレスを着せてみたいと。
仲の良い後輩の頼みだし一度位はと思い、唯真は軽い気持ちで引き受けた。
学生時代の部活は新体操で、実はダンスは得意だった。
世間でお馴染みの、白いホルタードレスを着て、プラチナブロンドのヴィッグを付けて踊った。
ダンスが終わると、気味悪いほど静まっていた会場が野太い歓声と指笛の嵐となった。戸惑うほど、騒ぎはしばらく収まらなかった。
けれどそれが破綻の始まりだった。
忘年会に、本庁から出向してきた警視が出席していた。
以前から唯真を食事に誘ってきていた上司だが、婚約者がいることを聞いていたので、なるべく顔を合わさない様にしていた相手だった。
けれど忘年会の後から、追い詰められる様に交際を迫られるようになった。
勝手に電話番号を調べられ連日電話をかけられ、勤務中に執務室に呼び出され口説かれる。
勤務終了後には課の外で待ち伏せされ、他の課の職員にも隠しようの無い状態だった。
あまりになりふり構わないやり方に、同僚達も困惑を通り越して怒っていた。
高遠も怒っていたが、警視はいわゆるキャリア組で高遠とは別格の役職者だった。誰も唯真を守ることができなかった。
唯真が婚約者のいる人とは付き合えないとはっきり断ると、入籍一週間前だったのに婚約破棄をしてしまった。
その上「警備部なんて危険の多い部署に行くなんて駄目だ」と、栄転まで取り消してしまった。
「君のあの女神の様な姿が忘れられない。妻にするのなら君しかいない」と、自宅マンションのインターホン越しに言われた時には、もう身の危険を感じた。
元々女好きでストーカー気質だったのだろうが、完全に行動が常軌を逸していた。
そして、警視の婚約者が職場に乗り込んできた。
婚約者は本庁の上位役職者の令嬢で、唯真の事はすぐに調べが付いたらしい。
「この泥棒猫」と署内で掴みかかられ、駆け付けた警視が彼女を引き剥がしてくれたが、二人は揉み合っているうちに階段から転げ落ち、そろって骨折の大怪我をしてしまった。
今度は怒った婚約者の父親が、唯真を退職に追い込み始めた。
庇って弁明してくれた高遠まで退職に追い込まれそうになり、まだ子供が小さい高遠を巻き込む訳にはいかず、唯真は自分から辞表を出したのだ。
「正確に調べたのなら、私が何もしていないことは分かっているはずです。私は、自分に恥じるような事は何もしてない!」
夜の闇に、光る様な白い花びらが降る。その花びらに包まれるように二人は相対していた。
怯えながらも、唯真は自らの潔白を訴える。
頑張って生きてきた、恥じることはなく生きてきたと、輝明を真っ直ぐに見て訴える。
一年前とは別人のように女性として磨かれた唯真を、輝明は足先から頭まで、検分するように見た。
その眼差しは、酷く冷めた、厳しいものだった。
「自分に恥じることは何もないと……?」
調子の変わった輝明の様子に、唯真は思わず身をすくませる。
おびえた様子で探るように自分を見る唯真に、輝明は言う。
「この一年あなたの話には、ただの一度も家族の事が出てこなかった。独身の女性が軟禁されるのなら、まずは両親に連絡させてくれと言うのが普通だろう。
でも、あなたの口から、そのような話は一度も出てこなかった」
「……初めの頃言いましたよね。うちは仲が良くないと……」
「それはそうだろう。義理とはいえ父親と娘が不適切な関係にある家庭など、円満である訳がない。あなたは本当に、男をおかしくしてしまう魔性の女なんだな」
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