第四の刺客(3)
何事もなかったように、三人は夕食を取り他愛ない話をして秋の夜長を過ごした。
ちとせは普段と変わらず朗らかに孫達の話をして、唯真は柔らかな表情で楽し気に聞いている。
三奈も笑顔を見せているが、言葉は少なくその表情は若干固い様子だった。
翌日の朝は、晩秋らしい冷え込みの強い朝だった。結露で窓ガラスが曇り、室内の空気も、真冬を思わせるほど冷えていた。
そんな朝、ちょっとした事件が起きた。
唯真が、ベッドから起きることができなかったのだ。
めまいとひどい倦怠感があり、熱を測ると三十八度に近い発熱があった。
青白い顔で目を閉じる唯真を見て、季節の変わり目に疲れが出たのだろうとちとせは言った。
家政婦に復帰したばかりの三奈が、ここぞとばかりに張り切って仕事を始めた。
定期的に白湯を飲ませ、食欲の無い唯真にリンゴのすりおろしや薄い粥を用意する。
口の重い唯真から、実は寒気が強い事を聞き出すと、掛布を追加し保温に務め、家事の合間に頻繁に様子を見に来て、汗が出始めると体を拭いて着替えを手伝う。
唯真が恐縮するほど、三奈の看護はかいがいしいものだった。
そのかいもあって、唯真の体調不良は三日目にはかなり回復し、ベッドから起き上がり食事も重めの粥へと変わった。
滋養食にぴったりの玄米粥を口にしながら、唯真は三奈へ礼を言う。
「三奈さん、迷惑かけてごめんなさいね。早く床払いできるよう頑張るから」
肩過ぎまで伸びたダークブロンドを左肩に寄せまとめている唯真は、御乙神家の術者が見れば、それは少し髪の長さが足りないが、先視で視える『滅亡の子』を抱く唯真の姿にほぼ重なるものだった。
先視をするほどの霊力を持たない三奈はそれを知らないが、しかし唯真の姿をじっと見て、ぽつりとこぼした。
「……そんなに、頑張らなくていいんです」
ベッドサイドに椅子を出して座っている三奈は、曇った表情をしている。少し怒っているようにも見えた。
三奈の様子を探るように顔を傾けてくる唯真に、三奈は目線を合わせる。
発言を迷うように唇を噛み、そして口を開く。
「体って、正直なんですよ」
え?と声に出す唯真に、三奈は独り言の様な言葉を重ねる。
「感情を押し殺したら、代わりに体が悲鳴を上げるんです。悲しい時に泣かなかったら、代わりに体が泣くんです」
三奈の目に、うっすらと涙の幕が張っていた。
それを見留め息を詰めてしまった唯真に、三奈は更に言い募る。
「織哉様は、女性にセクハラ発言なんてしないんです」
三奈は訴える。声が大きく、強くなった。今までの三奈とは別人の様に。
「織哉様は女性にそんなこと言いません。ただでさえ女性に好かれる人ですから、そんなこと言ったら面倒くさい事になるだけだから、織哉様は発言にはとても気を付けられているんです。
私は美鈴様付きの家政婦で織哉様のお世話も手伝っていましたから、家族以外では一番織哉様の傍に居たんです。だから知ってるんです」
半分泣きながら三奈は訴える。唯真はそんな三奈をただ茫然と見ていた。
「織哉様は、唯真さん以外にはセクハラ発言なんてしないんです。ついあんな事言ってしまう相手は唯真さんだけなんです!」
最後は半ば叫ぶように言って、三奈は席を立つ。逃げる様に寝室を出ていった。
匙を握ったまま、唯真は三奈を見送ってしまう。口を半分開けたまま、正に呆然としていた。
『椿の間』は、まるで墨を流したような暗闇に満ちていた。
深夜の冷えた闇の中で、純白の正装の輝明は、ひとり膝に手を置き正座している。
火雷は、体の前に横に置かれていた。
暗闇の中目を閉じて、輝明は自らの思考の中に沈んでいた。丑三つ時も過ぎた真夜中の闇に、溶け込むように佇んでいた。
瞼を開いた。開けられたその目は、静かだった。
それは葛藤が通り過ぎた、嵐の後の静けさだった。
決意が目に現れていた。思考して思考して思考して、脳が崩れるかと思うほど考え抜いた末にたどり着いた、ゆるぎない決断だった。
手を伸ばし、火雷を取る。瞬間、火雷の刀身に赤い炎が燃え上がる。
暗闇を、赤い光が照らす。やつれ青ざめた輝明の顔を、彩るように火雷の炎は赤く照らした。
葛藤のあまり幾晩も睡眠が取れず、輝明の眼窩は目に見えて落ちくぼんでいた。
かざした火雷の向こうに、先視のビジョンが視える。
眉根に深い皺を刻み、輝明はそれを視る。ひどく痛いものを見たように、目を閉じた。
どうしても変わらない未来を、瞼を閉じて遮断した。
目を見開く。今は、揺るがない意志が眼差しに乗り、射るように前を見据えていた。
「―――輝明様」
火雷の炎に照らされて輝明の後ろ、純白の正装を纏うちとせが片膝を付き控えていた。
「輝明様、やはり、未来は……」
変わりませんか?と、顔を上げて尋ねる。
すがるような、憂いた表情だった。
音も無く現れたちとせに驚くことはなく、輝明は炎を見つめながら、言う。
「ちとせ。僕は、必ず、未来を変えてみせる」
輝明の返事に、ちとせは目を閉じ、痛みをこらえる顔をする。
唇を噛み、心を飲み込むようにうつむく。
心を痛めた様子のちとせとは対照的に、もう輝明に感情の揺れは無かった。
冷酷にも見える、射貫くような目で赤い炎を纏る火雷を見つめていた。
唯真の体調が回復し、床払いが済んだのは寝込んでから一週間後の事だった。
既に暦は十一月に入っていた。御乙神家に連れてこられてから、もうすぐ一年が経とうとしていた。
正に別世界に迷い込んだ感のあるこの一年を、夕食の後、ひとりソファに座って唯真は振り返っていた。
高遠達はどうしているだろうと、彼らの存在を懐かしいような、ひどく遠いような、不思議な感覚で思い出していた。
今、ちとせは入浴中で、三奈は夕食の後片付けでキッチンに立っている。
あの発言から三奈は、唯真とあまり口をきいてくれない。
怒っている訳でも避けている訳でもなく、どうやら困っている様子だった。
近づくと困った顔をして逃げてしまう三奈を見て、困っているのは私の方だけど、と唯真は思う。
三奈に言われたことを、どう解釈していいのか迷っていた。素直に直訳したとしても、どう受け止めたらいいのか分からない。
(一生結婚しない子供も持たないって、ずっと前から決めていたから。私は一生一人でいるって決めていたから)
三奈が帰ってきた日から夜がよく眠れない。
それは体を動かさないせいだと唯真は考えている。それ以外に理由はない。睡眠不足で重い頭で、絶対にそうだと考えている。
(私は、一生、独りだと決めていたから)
御乙神家に連れてこられた当初、自分の子供が殺戮者になると言われた時、実は大したショックは受けなかった。
それは、子供を持つことが、元々唯真の人生設計に入っていなかったからだ。
自分の子供という存在自体が、実は唯真にとっては有り得なかったのだ。
誰かの思惑で無理矢理子供を作らされるかもしれないと言われた時は、腹立たしかった。
自分を利用しようとする者も、欲しくもない子供を産まされるかもしれない未来も、どちらも腹立たしかった。
だから御乙神家に連れてこられた当初はひどく苛ついていた。
自分の扱いや織哉のからかいよりも、実はその事に苛ついていた。でもどうしてもその本音は、口には出せなかった。
胸が痛くざわめくほど静かな晩秋の夜、キッチンからの水音を聞きながら、唯真は自分の心に向き合っていた。
人生の大きな岐路に立つ時、人は何故か今まで歩んできた道を振り返る事が多い。
しかしそれは、年齢を重ねてから自らの経験として知る事で、唯真も今はまだ、その事を知らなかった。
玄関の扉が開く音に、唯真は反応して顔を上げる。リビングの扉を見つめる。
すぐにリビングの扉が開き、入ってきた人物が姿を見せる。
輝明だった。今日は落ち着いた深緑の着物を着ている。
質の良い正絹であるのが分かる上質な着物は、本来なら三〇歳手前の男性には過ぎた逸品だが、輝明は着物に着られることなく良く似合っていた。
しかし、余程仕事が忙しいのか、しばらく会わない間に、目に見えるほどやつれ痩せていた。
元々細面の顔がなお細くなり頬骨が目立ち、目が落ちくぼんでいるのが分かった。
「輝明様。どうかなさいましたか?」
急いてタオルで手を拭いた後、三奈が輝明の傍に寄る。
輝明はこれと言った感情は見せず、ひとつうなづいて見せる。
「三奈。体は無理していないか」
「はい、おかげさまで。お気遣いありがとうございます」
畏まって三奈は頭を下げる。そんな三奈から目線を動かし、輝明はソファに座る唯真を見る。
「唯真さんも、少し体調を崩していたと聞いたが。もう具合は良くなりましたか」
輝明の声掛けに、唯真は握っていたカップを置いて向き直る。意識して笑顔を作った。
「はい、ありがとうございます。三奈さんがとても良く看病してくれて、すっかり良くなりました」
唯真の笑顔に応えるように、輝明も微笑む。穏やかな笑顔だった。
三奈はその笑顔を、少し驚いた様子で見ていた。
「それは良かった。最近急に寒くなったし、ずっと離れに閉じ込められているから、さすがにストレスが溜まってしまったかと思ったんだ。
体調が良くなったのなら、今夜は月も明るいから、気晴らしに庭園を歩きませんか?」
輝明の意外な提案に、良いんですか?と唯真は軽く目を見開いて返す。
今までは織哉に外に出ない様厳重に注意されていたので、離れの外に出たのは、住まいの移動の際の二回だけだ。
純粋に外に出られるのが嬉しくて、唯真の表情は晴れやかになる。
行きます、と一つ返事でソファを立った唯真に、輝明が言う。
「今夜は一段と冷え込んでいるから、上着を着た方が良い」
「コートを取ってきます。少し待っていてもらえますか」
輝明に見送られ寝室に入った唯真は、クローゼットからキャメルのローブコートを取り出す。
カシミア混の軽く温かいコートを羽織り、唯真は寝室を出ようとする。
ひるがえるコートに向かって、どこからともなく、小さな
和紙を切り抜いただけの人形は、吸い付くようにローブコートの背中に取り付いた。
そのまま音もなくコートを伝い、するりとポケットに滑り込む。
唯真はその出来事に気づかず、寝室を出た。
二人が玄関を出ていく音を、ちとせは浴室の中で、湯船に浸かりながら聞いていた。
白い湯煙の中、ちとせの目から涙が零れた。
ふっくらとした両手で顔を覆う。声はないが、肩が嗚咽に揺れていた。
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