第一の刺客

第一の刺客(1)


 「最近妙についてない」と、佐藤唯真さとうゆまは元上司の高遠隆たかとおのぼると元後輩の井ノ上李緒いのうえりおに零していた。



 場所は、どこの街でも見かける全国チェーンの居酒屋である。


  通路側が明け放しになっているので完全な個室ではないが、居酒屋にしてはそう騒がしくはない。十二月初旬の、忘年会シーズンとは思えない店内の様子だった。


 それは多分、今日が週中日の水曜だからだろう。


 現役警察官である高遠と井ノ上は、明日は非番だ。今夜は飲む気満々で非番を調整してくれたようだ。


 一年前まで、唯真も二人と同じ都道府県警察に所属する警察官だった。今は警察を辞め、教職を目指して勉強に励む日々である。


 二十八歳という決して若くはない年齢での再挑戦を、在職中からの気の置けない仲である高遠と井ノ上は、たびたび連絡を入れて励ましてくれていた。


 今夜は忘年会兼、唯真の受験の壮行会だった。


 入試は来年一月下旬である。受験勉強のラストスパートの前に会っておこうということになったのだ。



 唯真はゆずサワーを一口飲んでから、浮かない顔で昨日我が身に起こった出来事を説明する。



「横断歩道の信号待ちをしていたら、信号機が落ちてきたんですよ。頭の上で音がしたような気がして、顔を上げて大正解でした。

 もう少し上を見るのが遅かったら、私はここにはいませんでしたよ」



「そりゃまた……なかなか無い経験だな。俺達が出動しなくてすんで良かったよ。相変わらず良い運動神経だな」



「え、昨日もそんなことあったんですか?つい最近も何か事故に遭いかけたって言ってませんでしたっけ唯真先輩」



 唯真が警察を辞めた今でも「先輩」が抜けない井ノ上に、唯真は手元のゆずサワーのグラスを揺らしてうなづく。



「五日前は、ランニングしてたら道のマンホールの蓋がそこだけ無かったの。たまたま足元見てたから寸前で気が付いて飛び越えたけど、もし落ちていたらただじゃ済まなかったと思う。

 

 三日前は駅のホームで電車待ってたら、後ろから思いっきり押されて。

 何とか体制立て直してバランス取ったからホームから落ちなくてすんだけど、ちょうど電車が侵入してきた時だったから本当に危なかった」



 どの出来事も、一歩間違えれば命が無くなるものだった。


 自らの運動神経に助けられ辛うじて大事にはならなかったが、度重なる危険な偶然は、在職中、愛想が悪いを通り越して『鉄面皮』と揶揄されていた唯真の表情を、重くくもらせていた。


 ため息混じりに話す元部下に、お湯割りの焼酎を飲む手を止めて高遠は言う。


 今年五〇を迎える冴えない容貌の男だが、確実な仕事ぶりで周囲から一目置かれている警部補だ。



「マンホールはともかく、ホームの件はもうツキの問題じゃなくて犯罪だぞ。犯人は見つかったのか?」



 シミと皺が目立ち始めた顔は武骨だが、表情は唯真を心配していた。


 高遠は、腹芸もできるが向けてくる感情は真っ直ぐな人間だ。純粋に自分を心配してくれる元上司に、唯真は努めて表情を柔らかくする。


 

「犯人は分かりませんでした。帰宅ラッシュの時間帯でしたから、人が多すぎて。


 でも大丈夫です。ついてないことが続いてちょっと滅入ってたけど、話聞いてもらって元気出ました。明日からまた勉強頑張ります」



 唯真が黒縁メガネの向こうから見せる微笑に、二人は揃って微妙な顔をする。


 難しい顔をして口を閉じた高遠が、トイレに行くと言って席を外した。

 

 やはり浮かない顔に戻ってゆずサワーを飲む唯真に、並んで座る井ノ上が真剣な表情で顔をのぞき込んでくる。



「先輩、誰かに恨みを買ったとか、ないですよね?」



 目立たない程度に明るく染色した髪を揺らし、井ノ上は心配げに言ってくる。


 仕事中はベースメイクのみの井ノ上も、オフの時間帯は二十一歳の若者らしく華やかなメイクを楽しんでいた。


 仕事中より明らかにまつげが増殖している井ノ上に、唯真はストレートグラスから口を離して答える。



「……身に覚えはないわね。予備校には特に知り合いもいないし、マンションでも勉強ばっかりしてるから騒音出してるはずないし、外に行くにも食料品の買い出しに行くくらいだし、ここ一年、ほとんど人と関わってないはずだけど」



「でも、駅で飛び込み自殺させられそうになるとか、あれだけ頑丈に留めてある信号機が外れて落ちてきたりとか、そんな滅多にない事が重なるなんておかしくないですか?

 マンホールの蓋だってあれ結構重いですから、そうそう動かせるものじゃありませんし。

 二度までは偶然もあるけど、三度は何か変ですよ。唯真先輩言ってたじゃないですか『二度目は疑え三度目は確定だ』って」



 以前自分が教えた事をそらんじてくる元後輩に、唯真も渋い顔をする。



「でも、本当に心当たりが何にもないのよ。新しい知り合いもできてないし。本当に勉強ばっかりしてるのよ」



「本当に心当たりないんですか?よく思い出してください先輩。誰か、ちょっとしたことで口論になった相手とかいませんか?」



 指導していた後輩に事情聴取されて、唯真は一応それらしい出来事がなかったか考えてみる。しかし思いつかない。


 眉根を寄せて記憶を爪繰つまぐる唯真へ、井ノ上が更に言い募る。



「予備校で、特定の男子浪人生と妙に目が合うとか無いですか?行きつけのコンビニの男性店員がやけにおまけをくれるとか無いですか?マンションの出入り口で妙にかち合う男とかいませんか?」



「……何で男限定なのよ」



 苦い顔で返答した唯真を、井ノ上はじいっと上目使いで見つめる。目が真剣だった。



「唯真先輩、本っ当に男関係、何もないですか?」



 井ノ上の真剣な口調に、唯真は思わず言いかけた言葉を飲み込んだ。


 二人の間は沈黙が流れ、居酒屋店内のにぎやかな喧騒だけが際立つ。


 顔を突き合わせてにらめっこ状態になっていた二人は、通路側からかけられた声に顔を向ける。途端井ノ上が、口と目を丸く開けて固まった。

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