泡沫(2)
唯真は、ふと顔を上げ空を見上げた。
誰かに呼ばれたような気がして、冬枯れの枝が交錯する頭上の青空を見上げる。
暦は春が訪れているが、今の住まいの周囲は、まだ木々は冬枯れてその根元には雪が残っていた。
カラマツ林の中にくり抜かれたように立つ山荘は、簡素な外観で余計なものが削ぎ落された美がある。
内部も飾り気はないが細かな気配りのされた上質な造りで、由来を調べると、五〇年ほど前に建てられた、高名な建築家が自らの為に設計した別荘だった。
「おかあさん」
今度こそ本当に呼ばれて、走ってきた息子を膝を折って抱きとめる。ブランコにはもう飽きたようだ。
「つかれた。ねむい」
唯真の胸元にぐりぐりと額を擦り付けてくる。
眠い時や甘える時、いつもこの仕草をする。クセなんだろうなと思いながら、唯真は優しく髪に頬ずりをする。
「じゃあお昼寝する?」
うん、と見上げてくる顔は、驚く程夫に似ている。
溢れんばかりの愛情が映る、優しい微笑みだった。
「お家に入ろうか。
明を抱き上げ山荘の中に入ろうとした時、しがみついていた明が急に動き出す。
今年五歳になる明を、唯真はさすがに支えきれない。
母の腕から抜け出して、明は山荘の庭から続く小道へと駆け出す。
それを見て唯真は慌てて明の後を追う。
自分が不在の時、山荘の庭までは出ていいが小道から向こうへは行かない様にと、夫から厳重に注意されているのだ。
焦って明の後を追う唯真は、カラマツ林の向こうから、誰かが近づいて来るのを見留める。
小道の始まりまで到達していた明は、駆け寄ってきた父親に大ジャンプをしてへばりつく。
体全体で腰の辺りにしがみつく息子に、黒のマウンテンパーカーを羽織った織哉は、満面の笑みで抱き上げながらお説教する。
「こら。どこの悪い子だ?お父さんの言いつけを守らないのは」
「いまおとうさんがいるからいいの」
「口数少ない割に、本当に返しが上手いねお前は」
誰に似たんだか、と織哉は笑いながら明に頬ずりする。
感情表現はあまり豊かではない明だが、今はとても喜んでいるのが唯真には分かる。父親にしがみつく全身がウキウキしている。
二人の様子を傍らで見守っていた唯真に、織哉が笑顔を向ける。
「ただいま、唯真」
左手を差し出され、唯真はその手を取る。
織哉の左手薬指には、細かいカッティングで表情を付けた、シンプルだが美しいデザインの金色の指輪がはまっていた。
それは唯真の左手薬指にはまる指輪と同じデザインのものである。
夫の大きな手に自分の手を絡めながら、唯真は微笑む。
明に負けず劣らず嬉しそうな、きらめいた笑顔だった。
「おかえりなさい。織哉」
織哉の帰宅は二日ぶりだった。
霊能関係の仕事は必ず御乙神家の目に付くので、その方面は避けて探偵事務所の実働調査を請け負って生計を立てている。
徹夜仕事になる事も多く調査の場所も全国津々浦々で、とても毎日は帰宅できなかった。
二日ぶりに再会した父親に甘えて、明は風呂まで一緒に入ってしまった。
ほかほかになって織哉の膝に座る明は、もう半分夢の中である。またぐりぐりと額を父親の胸に擦り付け始めた。
食事を取る織哉に片腕で抱かれたまま、緩慢な動きで額を擦り付ける明を唯真は覗き込む。
「明は甘えたさんな時とか眠い時とか、必ずこれをやるのよね」
変わったクセよねと呟く妻に、織哉は一瞬真顔になり、そしておかしげに破顔する。
「唯真、気づいてないの?」
え?と怪訝な顔をする唯真へ、味噌汁に口を付けた後、言ってやる。
「このクセ唯真に似たんだよ。唯真も眠い時とか甘える時、同じことやるよ。覚えてない?俺が初めて唯真を助けた時の事とか」
言われて、唯真が黙り込む。記憶を回想している様子で、そして次第に顔が赤らんでくる。
唯真は色が白いので、このような変化は大変分かり易い。
「半分眠りに入ってうとうとしている時とか、甘えん坊な気分の時とか、よく俺の胸にぐりぐりしてく……」
「もういい、もういいから!分かったから!それ以上言わないで!」
白い顔が朱色に染まった唯真が、叫ぶように話を遮る。
その様子をくつくつとおかし気に笑う織哉は、箸を置き本格的に寝に入った息子の髪を優しく撫でる。
「ご馳走様。俺、明と少し寝るけど、唯真も一緒にお昼寝しない?」
昼寝のお誘いに、唯真は赤くなった顔でこくりとうなづく。
先に寝室に行ってもらって、唯真は食事の後片付けに取り掛かった。
カーテンが引かれ暗い寝室に入ると、織哉と明はベットに眠っていた。
明がしがみつく反対側に唯真は滑り込む。
仕事時間が不規則な織哉は、帰宅すると仮眠をとる事が多い。そんな時、会えない時間を埋める様に、よく家族三人で昼寝をする。
織哉はまだ起きていたようで、脇に滑り込んできた唯真の頭に手を回す。
優しく髪を撫で、そして自分の胸元へ導く。
されるがまま、唯真は夫の胸元に顔を埋める。すると柔らかい口づけが髪に降りてきて、顔を上げると、額に、鼻先に、そして唇に、優しくキスされる。
胸に顔を埋めた唯真の髪に、しばらくの間指を絡めていたが、すぐに指の動きは止まり、織哉も眠りに就いたことを知る。
織哉のぬくもりと鼓動を感じながら、明の幼い寝息を聞く。
こうしていると、もう立派な大人なのに、まるで子供に戻ったような気分になる。
いつも一人で眠っていた幼少時。誰かに抱き付いて、抱き締められて眠りたいと夢見ていた。大きな腕に抱き締められて眠りたいと願っていた。
唯真は、愛してくれる父親を知らない。多分母親も知らない。その渇望を埋める様に、織哉はこうやってただ抱きしめ共に眠り、甘やかしてくれる。
自分の中の幼い自分が、織哉に抱き締められているような気がする。
子供を育てられない大人だった両親の代わりに、織哉が遠い昔に置いてきぼりにされていた幼い唯真を、育ててくれているような気がした。
手放せない、と、織哉のぬくもりを感じながら、明の寝息を聞きながら、思う。
これまでの事情が脳裏を巡り、どれだけの人に追われているだろう恨まれているだろうと考えながらも、織哉と明は絶対に手放せないと思った。
閉じた目に涙がにじむ。誤魔化すように、すり、と織哉の胸に額を擦り付ける。
織哉が薄く目を開けたのを、胸に顔を埋める唯真は知らない。
そのまま身動きをせず、唯真のダークブロンドが揺れるのをこの上なく優しい目で見守り、その動きが止まるとまた静かに目を閉じた。
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