泡沫(3)



 一日休日を挟んで、織哉は出勤していった。今回は、九州は熊本県での仕事だそうだ。


「くまモンと会ってくるよ」と明を羨ましがらせてから、織哉は出かけて行った。



 一通りの家事を終えてから、唯真は明を膝に乗せて、絵本の読み聞かせを始める。情操教育の一環として、毎日の日課にしていた。


 唯真の膝の上で、明は静かに読み聞かせを聞いている。


 明は絵本が大好きだ。もっとも、遊ぶ相手がいないので、消去法で絵本を読むだけかもしれないが。


 できれば、同じ年頃の遊び相手がいてくれればと思っている。しかし今の生活ではそれは難しい。


 御乙神家から逃亡後、半年ほどで転居を繰り返していた。外出は織哉が同伴できる時だけで、それもできるだけ回数を押さえている。呪術による捜索を避けるための対策だった。


 この現状では、小学校への入学どころか公園デビューもとても無理だろう。


 それでもできる限りの事をして子供を健全な人間に育てると、明を出産すると決めた時誓ったのだ。



 織哉の恋人になり、十分気を付けていたのに子供を授かった。


 一生子供を持たないつもりでいた唯真は、悩んだ。


 この子を産んでもいいのか。まともな育ちをしているとは思えない自分が、健全に子供を育てられるのか。


 何よりこの子を巡って、御乙神家は正に内紛が起こってしまった。本当に予言の通り、この子はたくさんの人を殺してしまう虐殺者になるのか。


 悩む唯真に、織哉は「一緒に子供を育てよう」と、プロポーズしてくれた。


 「子供も唯真も、必ず俺が守るから」と。


 「未来は、変えることができる。占術で視えた未来であっても、変えようと思って努力すれば変わることがある。

 だから俺達の子供も、虐殺なんてさせない。絶対に、俺がこの子の未来を変えてみせる」と。


御乙神家を出た直後から再三結婚を申し込まれていたが、唯真は首を縦に振れなかった。


 家庭に恵まれなかった唯真は、結婚に良い印象が無かったのだ。



 そんな唯真に、織哉は抜刀した建速に『妻子を守る』と誓ってくれた。


 正確な意味は分からなかったが、命を預ける刀に誓うという行為は、古今東西、大変に重みのある儀式のはずだ。


 真っ直ぐに見つめてくる織哉の目に、嘘は付けなかった。


 唯真の本心は、子供を産みたかった。理屈ではない。自分の中に宿った命が愛おしかった。


 織哉が協力してくれるなら、独りではないのなら、子供を育てられるかもしれない。


 人の痛みの分かる、虐殺など起こさない人間に育てられるかもしれない。そう思えた。



「唯真との子供なら、俺は絶対愛せる。絶対可愛いから。すごく会いたい。いっぱい可愛がって優しい子に育てて、御乙神の連中に予言が外れたことを見せつけてやろう」


唯真を抱き締めながら、織哉は何度も「愛してる」と、歯の浮くような台詞を浴びせてくれた。



 行きずりの街の写真館で、フォトウエディングをした。


 織哉と唯真を見た写真館の夫婦は、店に置いてあるものはなく、わざわざ大きな結婚式場まで衣装を借りに行ってくれた。


 その時、指輪をもらった。「必ず幸せにするから」と、改めてプロポーズされた。


 写真館の夫婦が笑顔で祝福してくれる中の、心温まる結婚式だった。


 

 生まれた子は予言の通り男の子で、『あきら』と名付けた。


 以前、美鈴から聞いた話を唯真は覚えていた。『生まれた子供には上から順に一文字ずつ、輝明の名前をもらう』と。


 出産間近の頃、織哉にその話を聞かせた。本当にそれでいいのかと聞く織哉に、唯真は答えた。



「私もあなたも、本当にお世話になった人だから。あなたの事を、本当に大事に思っている、あなたの肉親だから」



それは本音であったが、織哉には伝えていないもう一つの理由があった。


 万が一、明が輝明に捕まった時の事を考えた。


 あなたの名の一文字をもらった子だから、我が子同然だと思ってどうか情けをかけて欲しい、命だけは助けて欲しいとのメッセージのつもりだった。


 明の名に、輝明への命乞いを込めたのだ。



 あれから五年。各地を転々としながら、織哉と共に明を育ててきた。


 特に危険な目には合わず、唯真にとっては幸せな日々だった。不思議なほど満たされていた。


 織哉は言葉でも行動でも、いつも溢れんばかりの愛情を示してくれた。


 働いて生活を支え、安全で居心地良い住まいを用意し、何より御乙神家の追手から守ってくれる。


 明は、口数は少ないが心の優しい子に育ってくれた。


 自分が一体何が欲しかったのか、今の生活でやっと分かった。


 唯真が本当に欲しかったものは、信じられる、傷つけられることのない、ごく当たり前の家族の愛情だった。


 本当に欲しかったものが得られたからこそ、こんなに心が満たされているのだと気が付いた。


 頑なに自分が拒んでいたものの先に、自分の欲しかったものがあった。


 今なら分かる。昔の自分は生まれ育った家庭に傷つき過ぎて絶望し過ぎて、愛情を望めなくなっていたのだ。


 でもそれを、織哉が解きほぐしてくれた。明が癒してくれた。そして二人が与えてくれた。


 私は幸せだ、と、膝に乗せた明のぬくもりを感じながら思う。


 唯真の胸辺りにある明の頭は、また少し高くなった気がする。日々、成長しているのだ。



(この幸せは、いつまで続くのだろう)



幸せを享受する裏側で、いつも思うのだ。心が、無意識に怯えている。


 失ってしまった時の落胆を最小限にしようと、不安を爪繰り最悪を想定しようとする。


 実は織哉を送り出す時が、一番不安だった。このまま帰ってこなくなったらと、考えてしまう。


 織哉はまだ若い。二〇台も後半になり、出会った頃より年なりの風格が付き、更に男前になった気がする。


 本来なら、世間から隠匿いんとくされた世界とはいえ伝統ある一族で高い地位にあり、唸るほどの財産もあり、力も容姿も持ち合わせる、正に王者の地位にある男だった。


 こんなつましい生活が嫌にならないのか。手放した数々のものを、悔やむことはないだろうか。


 織哉の能力なら、人生をやり直そうと思えばいくらでもやり直せるはずだ。


 他の女性が気になる事もあるだろう。子供がいると分かっても、織哉に懸想する女性はいくらでいるはずだ。心変わりは、止められない。


 帰ってこないかもしれない―――織哉を見送る時、内心いつも思うことだった。



(万が一の時は、明の安全を最優先にして、一人でしっかり育てよう。幸い体は丈夫だし、警察官時代の経験もあるから、警備関係の仕事ならありつけるはず。


 今より転居の間隔を短くすれば追跡もかわせるかもしれないし、あと五年もすれば明も色々な事が理解できる年頃になる。一人でも生きていける様、生きる術を教えていかないと……)



「おかあさん」



自らの思考に入り込んでいた唯真は、膝の上からの呼び声に我に返る。


 見上げてくる明は、膝の上で母親に向き直り、小さな手を伸ばしてくる。



「なかないで」



我知らず、頬を流れていた涙をぬぐってくれる。織哉に良く似た顔は、父親と違ってあまり表情が変わらない。


 けれど唯真には分かる。今、明は、とても心配してくれていた。


 泣く母親を心配そうに見上げて、小さな手で涙に濡れた頬をなぜる。



「おとうさんはおかあさんがだいすきだよ。だいすきでだいすきで、ぼくのことよりおかあさんのことがすきだよ。


 おとうさんがいないときはおまえがおかあさんをまもれっていわれてるんだよ。おかあさんがすきなどうしの、おとこどうしのやくそくなんだ」



ないしょだよ、と真面目な顔で伝えてくる息子に、唯真は言葉が出ない。


 明は真っ直ぐに唯真を見上げてくる。幼いながらもその眼差しは、織哉が唯真を見つめるものに似ているような気がした。



「ぼくもおかあさんがだいすきだよ。だからなかないで」



言葉も無く、唯真は明を抱きしめた。いつからこんなに弱くなってしまったんだろうと、とめどなくあふれる涙を止められず、唯真は自嘲する。


 嗚咽を押さえ、ようやく声を絞り出す。腕の中の明へ、精一杯笑いかけた。



「ありがとう。お母さんも、明のこと大好きよ。愛してる」



息子の小さな額に、優しく口づける。そしてまたきゅっと抱きしめて、頬ずりをする。



「お父さんの事も、愛してるの。本当に、愛してるの」



こんなにも愛してしまったことが怖かった。もっと傷つかない距離で愛せたら楽だったのに、見境なく心のままに愛してしまった。


 自分の心ひとつ上手く取り扱えない不器用さが恨めしかった。



 こんな自分を、愛してくれる夫がいる。愛してくれる子供がいる。



 慈しみ合う家族の輪の中に、今度こそ自分が組み込まれていることが嬉しかった。



 今この時が幸せで幸せで、唯真は涙が止まらなかった。

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