滅亡の幕開け(2)



 辛うじて足元が見える明るさのカラマツ林を、唯真は明を背負って走っていく。


 ぎゅっと身を縮めて母の背中に縋りつく明は、上下に揺さぶられながら、声を上げる。



「おかあさん、いっぱい、いっぱい、ついてきてる!」



明は、容姿だけでなく霊能力も織哉から色濃く受け継いでいた。唯真には見えないものが、明には見えていた。


 追手の術師達が黙って逃がしてくれる訳がないのは重々承知で、それでも唯真にできることは走って逃げる事だけだった。



「おおきなとりとか、へびとか、いっぱい、いっぱいぼくたちをつかまえようとしてる!」



走り詰めの唯真は、もう息が上がって明に返事を返すこともできない。足も止まりそうだった。


 それでも無理矢理息を吸い、足を動かし前に進む。あがくように、前へと逃げる。



(織哉、早く来てっ……!)



背負う明も、必死に見える状況を伝えてくれるが、普段に比べてろれつが回らず、無理をして声を上げているのが良く分かった。


 まだ熱が高いのに、こんなに揺さぶって、寒い中連れ回して、怖い思いをさせて、明の事を思うと唯真は涙が出そうだった。



「おかあさん、だめっ!」



ひときわ高く叫ばれたが、何が駄目なのか唯真には分からない。


 しかしすぐに唯真は何かにぶつかった。土道は暗いながらも前へと続いているのに、その先に進めない。行こうとしても、見えない壁にぶつかる。


 背後から、物音が聞こえてくる。複数の人の、走る音だった。


 白虎達が突破されたことを知り、寒気どころではない震えが足元から這い上がってきて、唯真は土道を逸れて林へと入ろうとするがそちらへも進めない。


 明らかに具合の悪い声で、明が告げてくる。



「おかあさん、はこのなかにとじこめられたの。はこのまわりもいっぱいいるの」



半ば酸欠状態で言葉を発するのも辛かったが、唯真は吐き出すように声を絞り出す。



「どう、すればいい?箱を出るには、どうすれば、いいの?」



母の問いに、明は、もうべそをかいて返す。



「わかんない。はこがすごくつよいの。おとうさんじゃないとわかんない。ごめんなさい」



危機が訪れていることが分かっていて、怯えながらもいじらしく謝って来る息子に、唯真は背中に回した手で小さい背中をさすってやる。


 身を守る呪具は、先程のダガーを入れたペンダントのみだった。他にもいくつかもらっていたのだが、明の事で頭が一杯で、水晶のペンダントだけを身に付けて出掛けてしまったのだ。


 激しい後悔の中、成す術もなく近づいてくる足音を聞いていた。赤い月の、ぼんやりとした光の中、土道の向こうに男達の姿が見え始めた。


 諦めたらいけない、絶対に諦めたらいけない。自分を鼓舞し、思いを込めて、夫を呼ぶ。



「織哉、早く、早く来て。お願いだから……!」






 禍々しい色が渦巻く次元の狭間で、二人の神刀の使い手はせめぎ合っていた。



 織哉のマウンテンパーカーは、あちこちが斬られ焦げていた。左袖は肩を切られ燃え上がり、自分で引きちぎった。剥き出しになった左腕は、腕全体が赤く染まるほど流血している。


 輝明のテーラードコートも、織哉と同じくあちこちが切り裂かれていた。右側の裾は斜めにすっぱりと斬られ、無くなっている。


 致命傷だけは負っていない二人は、神刀を構え間合いを取り、睨み合う。


 美しいほどの隙の無い構えは、どんなに疲労しても双方崩れることはなかった。


 また、唯真の叫びが空間に響く。自分を呼ぶ悲痛な叫びに、焦れて織哉が怒鳴る。



「邪魔をするな輝明!どけぇっ!」



目をぎらつかせ吠える弟は、六年前とは別人だった。


 飄々と風の様に掴みどころの無かった弟ではない。失えないものに出会い地に足を付け生きている、ごく普通の男の姿だった。


 輝明は、柄を鳴らし、火雷を構え直す。ゆるぎない眼差しで、鬼の様な形相の弟へ返す。



「僕にも譲れないものがある。美鈴も、輝も、一族の者達を、僕は守らなければならない。それを脅かす者は、排除するしかない」



「だから違う!明は虐殺なんかしない!とても優しい子だ!あの子がそんなことをするはずがない!」



疾風の様に輝明の間合いに入り織哉は一刀を狙う。しかし燃える火雷は建速を受け止め、風と炎がぶつかり合い、爆発だか竜巻だか分からないものが空間に巻き上がる。


 正に地獄の様な情景の中、輝明がつばぜり合いをする弟へ、怒鳴る。



「お前は自分に都合が良い妄想に溺れて現実が何も見えていない!今のお前は女の色香に惑わされて道を踏み外した、正に魔物だ!」



「違う!明は本当に虐殺なんかするような性格じゃない!穏やかで心の優しい、絵本の好きな普通の子供だ!


 俺の事をどう言おうと勝手だが、唯真の事は悪く言うな!俺が勝手に唯真に惚れて勝手に屋敷から連れ出したんだ!唯真は何も悪くない!」



「いい加減に目を覚ませ!先視は六年前から寸分違わずお前の息子が僕の息子を殺す未来を示す!お前も視ているんだろう!六年かかってもお前は未来を変えられなかった!それが現実だ!認めろそして諦めろ!」



耳障りな、刀が削り合う音が上がる。力任せに火雷を弾き飛ばした織哉が、間髪入れず輝明の間合いに踏み込んだ。


 建速が、風の力を纏いながら、輝明の頭を狙っていた。


 今までと違う、本気で絶命を狙った一刀を体で感じ、輝明の本能も相手の急所を狙う。手加減なく、もうためらいも迷いもなく。


 幼い頃、互いの手を引き合ったその手で、互いの身体に神刀を突き立て合う。


 六年前まで誰よりも信頼し頼りにし合ったお互いに、その命を奪おうと神刀の使い手達字は斬りつけ合った。



 交わした笑顔も、労わり合った言葉も、今ではただの空しい過去の遺物だった。






 明を胸に抱き込んで激しく睨んでくる唯真に、中年の男性術師が言う。



「子供を渡してくれ。我々の目的は滅亡の子の抹殺だ。今はもうあなたではない」



全身から戦いの気配をみなぎらせながらも粗暴さのない物言いは、相手が芯から暴力的な人間ではないのが分かる。むしろ、良識ある人物なのだろう。


 それでも、明を葬り去ろうとしている人間など唯真にとっては敵だった。


 どんなに高潔な人物であっても万民から慕われるような人格者であっても、明を殺そうとしている人間など敵でしかなかった。


凍るような空気の中、うっすらとしか見えない相手へ、唯真は吠える。



「あなた達本当に占術なんて信じてるんですか?そんな本当に起こるかどうか分からないようなもの信じて人を殺すんですか?こんな子供を?


 どうかしてる!あなた達どうかしてる!未来なんて分からないのに!やってみなければ分からないのに!」



織哉が来ない。救援が来ない。病気の幼子を抱え、複数の手練れを前にした唯真に出来ることは、何でもいいから時間稼ぎをして、織哉が来るまで持ちこたえる事だった。



「どうして未来を変える努力をしようとしてくれないんですか!自分達のために他人の命を奪おうとするんですか!


 自分達だけ助かればそれでいいんですか?何の罪もないこんな小さな子供を手にかけて、それで後悔しないんですか?自分に子供は居ないんですか!」



激しく言い募る唯真に、別の術師が数歩前に進み出る。


 近づいてきて初めて、三〇代始め辺りの男性の顔が、苦し気に歪んでいるのが見えた。



「子供を渡してくれ。我々も好き好んでこんな真似をする訳ではない。せめて一人でも犠牲者を減らしたいんだ。ならばもう滅亡の子を産んだあなただけでも生かしてあげたい。だから子供を、滅亡の子を渡してくれ」



唯真は笑った。ふ、と笑う息が漏れた。鍛えた体で巌の様に立つ男達を睨む。



「――絶対に嫌。そんなの有難迷惑よ。子供を見殺しにして自分が生き残って、それのどこに生きる希望があるのよ。ただの生き地獄じゃない。人を馬鹿にするのもいい加減にして」



唯真の腕の中で、明は震えていた。


 細かい事情は分からないだろう。けれど大人たちの出す感情が、殺伐とした恐ろしいものであることは感じ取っているのだ。まだ発熱を感じる小さな体を、細かく震わせていた。


 小さな命を守るように、慈しむ様に、唯真は更に抱き締める。怖いものは見なくて済む様に、自分の胸に顔を埋めさせた。



「この子は絶対に渡さない。死んでも渡さない。やるなら先に私を殺しなさい」



織哉早く来て、と願いながら男達を睨む。毅然と構えていたが、体は明と同じく、細かく震えていた。


 別の男性が、一歩前に出る。五人の中で最も年長に見える、白髪の術師だった。


 メインストリートで唯真に視線を向けていた、その術師だった。


 唯真の身体がびく、と硬直する。その怯えを、腕の中の明は敏感に感じ取った。


 母親の胸から、顔を上げた。発熱と恐怖で潤んだ目を、敵に向けた。恐ろしさをこらえるように、母の服を握りしめた。


 どこか煙ったような月明かりの空から、黒い体が舞い降りてくる。術師達が一気に飛び退すさり間合いを取り、戦闘態勢に入る。


 長い体をくねらせ強い威嚇を術師達に向けるのは、黒龍だった。


 織哉が山荘の警護を命じていた。しかし今、黒龍は命じられた持ち場を離れ唯真の元へと来た。


 黒龍をこの場に呼んだのは、明だった。万が一の時の為に、織哉は明にも黒龍との縁を結ばせていた。最たる主は織哉であり、明は次席の主だった。


 母を守りたい明の必死の思いが、格上の主である織哉の命令を超えて黒龍をこの場に呼んだのだ。

 

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