滅亡の幕開け
滅亡の幕開け(1)
春が感じられたと思った途端、また数日の間、寒の戻りがあり、山荘の外はちらちらと小さな雪が舞っていた。
その寒さに当てられたのだろうか。明日織哉が帰って来るという日、急に明が体調を崩してしまった。
昼過ぎから出始めた熱は見る間に上がっていき、夕方には体温計の表示は四十度を超え、下がる気配はなかった。
夜一〇時を過ぎ、熱は下がらないのに赤かった顔が青ざめてきた明を見て、唯真は迷った挙句、明を背負って山荘を出た。
山荘の立つ土地は、古くからの避暑地として知られる高原だった。
現在では観光地としても整備されていて、山荘から一キロほどカラマツ林を歩けば、小さいながらも洒落たメインストリートに出る。そこに診療所があった。
外出は、本当は織哉が帰る明日まで待たなければいけなかったが、急激に悪化する明の病状に、唯真はこれ以上待つことができなかった。
往診を頼めれば良かったが、どこから情報が洩れるか分からないので、住まいを知られることは避けたかった。
「明。寒いけど少しだけ我慢してね。お母さん急ぐから」
今夜は月が出ておらず、街灯の無いカラマツ林は闇に沈んでいた。唯真は懐中電灯で足元を照らしながら、できる限り急いで歩く。
明は返事をする元気も無い様子で、ぐったりと唯真に背負われている。
背中に感じる明の身体は、異常に熱い。万が一明に何かあったらと、唯真は半ば恐怖にかられながら小雪の舞う真っ暗な夜道を必死に歩く。
診療所にたどり着いたのは、夜中の十一時過ぎだった。
唯真が連絡を入れたからだろう、暗闇に沈んだメインストリートの中で診療所だけ煌々と明るかった。
インターホンを押すとガラス扉向こうのカーテンが開き、年配の医師が出迎えてくれた。
診察の結果は風邪をこじらせた肺炎の初期段階との事で、処置が終わった頃には、もう午前一時を過ぎていた。
丁寧にお礼を伝えて診療所を出る。コートの下に背負った明は薬が効いてきたようで、来る時よりずっと楽そうな呼吸で眠り込んでいた。
点々と街頭の灯るメインストリートに、唯真の足音だけが響く。
冷え切った真夜中の空気は、小さな物音も曇りなく響いた。来る時舞っていた小雪はいつの間にか止み、全てが凍り付いたのかのように辺りは静かだった。
明の病気に目途が付いた安堵で、唯真の心に少し余裕が戻る。緊張が解けたのだろう、急に疲れを感じ始め、歩む足が重くなった。
ふと、冷え冷えとした石畳に、影が映っているのに気が付いた。
目線を上げると、森の向こうに見える山脈の黒い影から、赤く丸い月が昇っていた。それは滅多に見ないほどの、暗い赤に染まった月だった。
(早く帰ろう……)
明の体調もまだ心配だったし、緊急事態とはいえ織哉の言いつけを破ってしまった。
不気味な月に煽られたように、唯真は急に心細くなり、背中の明をしっかりと背負い直す。その時だった。
おかあさん、と、背中からか細い声がした。深く眠り込んでいた筈の明が、身を固くしているのが背中から感じられた。
「おかあさん、おかあさん……!」
ぎゅっと、唯真の服を強く握ってくる。その手は、細かく震え始めた。
明の異常に気が付くと同時に、唯真はどこか、自分の周囲の空気が変わったような気がした。
何も見えないのに、何かに囲まれているような気がした。周囲から妙な圧迫感を感じ、まるで自分が水槽に入れられた魚になった様な気がした。
立ち止まり、緊張して暗い周囲を見回す。腹の底から湧き上る冷たい不安が、唯真の脳裏に最悪の事態を想像させる。
(まさか……)
唯真の足元から湧き上がるように、三頭の白い虎が姿を現した。
唯真は一度だけ見たことがある虎達は、織哉が守護の為付けてくれた式神だった。
白虎達はそれぞれ俊敏に飛び、唯真には見えない何かに激しく体当たりして獰猛に爪を立て、太い咆哮を上げる。
まるで壁を壊すように白虎達はその場で爪を立て続ける。そしてとうとう何かを破壊したかのように、その先へと進んだ。
周囲の景色に空けた穴を、白虎達は素早く潜り抜けていった。
周囲の景色は溶ける様に消えた。そして現れたのは、三頭の白虎と日本刀を振るい格闘する、五人の男達の姿だった。
白虎達が敷く防衛線の中に居る唯真は、真実を知り愕然とする。自分の気付かぬ間に、最悪の事態に陥っていた事を知った。
戦闘の喧騒の中、迷うことなく唯真は左手の指輪を口元に近づけ、叫んだ。
「織哉!早く来て!追手に囲まれているの!」
指輪を渡された時、織哉から説明を受けた。指輪には術が掛かっていて、唯真が呼びかければその声は自分に届くからと。
万が一の時には、この指輪を座標に次元渡りをして駆けつけるからと。
「織哉早く来て!明も具合が悪いの!お願い早く来て!」
織哉を呼ぶ唯真に、男達の中の一人が目を向ける。
頭髪はほぼ白髪の、知的な雰囲気を持つ壮年の男だった。
しかし白虎に襲い掛かられ、日本刀で牙を受け止め応戦する。
白虎達は奮闘しているが、数の上で不利な上、男達は唯真から見ても選りすぐりの精鋭達だった。
このままでは、白虎達の防衛線が突破されるのは時間の問題だった。
織哉の現れる気配はまだ無い。唯真は、状況を読み込み判断を下す。
「明。お母さんにしっかり捕まって!」
息子が身を縮こませ背中に縋りつくのを確認すると、唯真は明から右手を離し、胸元のペンダントを引きちぎった。
水晶のペンダントトップを握り、叫んで放り投げる。
「お願い、力を貸して!」
放り投げられた空中で楕円形の水晶は砕ける。入れ替わるように、虚空に一振りの刀が出現した。
刀身は三〇センチを少し超えるほどで、切っ先は左に湾曲している。
柄には滑り止めを兼ねる細かな蔓草模様が浮き彫りされていて、どこか女性的な優美さがあった。
それは古代中東の刀剣である、ペルシャ・ダガ―だった。
ダガ―は空中を舞い、御乙神の術師達に切っ先を向ける。永く使われ使用者の想いが宿ったダガ―は、日本で言う付喪神、剣の精霊となっていた。
織哉が万が一の備えに、唯真を守るようダガ―の精霊と盟約をかわし、ペンダントに宿らせていたのだ。
閃くように空を舞い、ダガ―は白虎達と戦う術師達に斬りかかった。
惑わす様な剣筋の読めない動きに、術師達は白虎達に応戦する傍ら、翻弄される。
ダガ―の助力もあり、男達の唯真への囲みが僅かに崩れる。その隙を見逃さず、唯真は追手の包囲網をすり抜け走り出す。
気づいた術師が後を追おうとするが、白虎とダガ―が立ちはだかってくれる。
逃げる目的は、織哉が来るまでの時間稼ぎ。何らかの理由で今すぐは来られない様子だから、できるだけ逃げ回り、織哉の到着を待つつもりだった。
石畳のメインストリートを横切り、土産物店の間の狭い路地を走っていく。
すぐにアスファルトの舗装は無くなり、土産物店裏に広がる、カラマツ林に突入する。
街灯の明かりはなく、けむるような薄い月明かりだけを頼りに、唯真はカラマツ林を走っていく。
少しでも、追手から離れるために。織哉の到着まで時間を稼ぐために。
「織哉!お願い早く来て!織哉!」
見える景色は、どことも分からない、次元と次元の狭間だった。周囲は四方八方、何色ともつかない暗い色がうごめき合い渦を巻いていた。
建速の力そのものである風に守られながら、織哉は次々と次元の狭間を渡っていく。
唯真の元へと。唯真の指輪を座標に移動していく。
しかし、何の前触れもなく赤い炎が織哉の周囲に燃え上がった。暗色の世界に鮮烈なほどの赤い炎は、織哉を守る建速の風を燃やし尽くすように燃え上がる。
赤い炎に移動を遮られ、どことも知れない次元の狭間に、織哉は半ば墜落する様に降り立った。
次元渡りを邪魔した、自分を待ち受けていた相手に、織哉は声を張り上げる。
この六年で、輝明も以前は使えなかった次元渡りの術を習得したことを知った。
「輝明ここを通してくれ!指示が届くなら唯真を襲っている連中を止めてくれ!頼む!」
六年ぶりに再会した兄は、年齢よりもずっと年を取ったように見えた。
変わっていない短髪は白髪が混じり、眼鏡の奥には皺が見える。正にこの六年間の苦労が、輝明の容姿に刻まれていた。
火雷の炎は輝明の気分と連動する。兄の容赦ない怒りを感じながら、織哉も
「今の僕には、それほどの権限はない。身内から裏切者を出した、一族を滅亡させる存在を生み出した家の人間だからな」
返しようのない事を言われて、織哉は苦しく顔を歪める。
自分達だけが幸せな間、どれだけ兄を、御乙神宗家の人間を苦しめたか。考えない日はなかった。
それでもその罪を自分が全て背負って、唯真と明を幸せにすると決めたのだ。
『織哉!お願い早く来て!織哉!』
唯真の悲痛な叫びが空間に響いた。
なぜ自分の意識に同調させた指輪の術がこの空間に反映されるのか、術を施した織哉にも分からない。
けれどそれは織哉に建速を振らせるには十分だった。切り結んだ二人は、六年前の夜と同じく、風と炎がぶつかり合い、暗色の世界が赤く染まった。
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