泡沫(5)


 仮眠室の固いベットから起き上がり、高遠は今見たばかりの夢を思い返していた。


 毛布を握っていた両手を顔の前に持ってきて、じっと見る。


 まだ手に残る、幼子の高い体温を思い出していた。



(幸せそうで、良かった)



ただの夢でないと、高遠は確信していた。それは理論的には説明できない、直感だった。


 「あなたは自分の勘を信じた方がいいですよ」と言ったのは、若い頃飲み会帰りに冷やかし半分で寄った、駅前の手相見だった。


 何でも滅多にない、直感の優れた人間にだけある相があるとかだったが、酔っていた高遠は詳しくは覚えていない。


 高遠は基本的に自分の見たもの説明の付くものしか信じないが、世の中には、理論で説明できないこともあるのだと、長年の警察官生活で感じていた。



 先ほど見た夢は、ただの夢ではない。佐藤唯真が家族を連れて会いに来たのだと感じた。


 愛し愛され、幸せそうな家族であったことが、高遠は本当に嬉しかった。



(幸せならそれでいいんだ。お前が幸せなら、佐藤)



本当にくだらない理由で栄転も消え退職に追い込まれ、それでも上部に逆らえず、最後は自分が庇われる形で佐藤唯真は警察を辞めてしまった。


 そんな目に遭っても、へこたれず新しい人生を歩もうと努力していたのに、今度は失踪してしまった。


 上司として守ってやれなかった事に、高遠は深い負い目を感じていた。


 だから今度こそは力になろうと、キナ臭い案件であるのは承知で捜査を続けていた。


 その途中、佐藤唯真の過去を知る事になった。




 実家の事は、不仲であるとだけ聞いていた。だから失踪直後の捜査では、母親に電話で話を聞いただけだった。


 けれど捜査に行き詰まり、佐藤唯真の生い立ちを一から丁寧に当たり直そうと考え、両親に会いに行った。今から四年ほど前の事だ。



 昭和半ばに建てられただろう、風が吹けば飛びそうな木造アパートで、体の不自由な義父と、年齢以上に老け込んだ実母が暮らしていた。


 若い頃は美男だった事が分かる義父は、高遠が警察の人間であると分かると、酷く怯えた様子で顔を背けた。


 一目見て、ろくな人間でないことが高遠には分かった。人間は年を取るにつれ、美醜に関係なく本当に顔に人生が出てくる。


 母親も、何の努力もしたことが無いだろう、子供の様な人間だった。


 元は旧華族の先祖を持つ資産家の一人娘だったらしいが、夫に財産を使い込まれ、受け継いだ屋敷まで借金のカタに取られたらしい。


 母親は、自分達の生活で精一杯で娘の事など何も知らないと言う。一〇年以上、一度も会っていないと。


 義父の障害の理由を聞くと、二人とも貝のように黙り込んだ。


 障害年金の上乗せなど金銭に関わる話をエサに誘導すると、母親がようやく口を開いた。「暴漢に襲われた」と。


 しかし被害届は提出されていなかった。二人の様子を見ながら、高遠はピンときた。


 これは『身に覚えのある暴漢』だと。すなわち、恨みを買って報復を受けたのだと。


 「被害届を出して犯人が逮捕されれば年金額上がるかもしれませんよ」と適当な事を言ってカマをかけると、義父は青褪めた顔をして指を横に振った。


 自分の勘が当たったことを、高遠は確信した。


 義父の障害は、生存には影響はないが生活には多大に支障のあるものだった。高遠は、その事に違和感を感じた。


 いくら正体を隠しても脅して口止めをしても、相手が生きている限り報復者の正体が漏らされる可能性はゼロではない。


 だから大抵、こういう事件は殺人事件となる。


 高遠は、報復者がわざと障害者にするために暴行を加えたように感じた。苦痛が死によって終わらない様、生きている限り、苦しみ続けるようにと。


 報復者が、身の危険を冒してまで苦しめたいと願うほど非道な事をしでかしたのだなと、擦り切れた寝間着姿の男を、高遠は軽蔑の眼差しで眺めた。


 そして、報復者は武道格闘の達人だと予想した。狙った障害状態にできるのは、人体に関する知識、そして負わせるダメージを正確に調整できる技量が必要だからだ。



 それ以後佐藤唯真の両親には関わっていないが、たった今、あの時の違和感が、高遠の頭の中で一本の線に繋がった。


 捜査の途中、佐藤唯真の高校時代の写真を見た。


 その道では有名な新体操の選手だったそうだが、その事は本人の口から聞いたことはなかった。


 写真の中で華麗なポーズを決めている高校生の佐藤唯真は、正直、並みのアイドルよりも余程魅力的な少女だった。


 日本人とは思えないバランスの良い肢体と白い肌、彫りが深めに整った顔は、少女ならではの透明感と瑞々しさがあり、正に妖精の様だと言っても大袈裟ではなかった。


 けれどその美少女は、何故か極度の男嫌いになり、肌を出さない地味な服装をするようになる。


 伊達メガネで顔も隠し、綺麗な金茶色の髪も真っ黒に染め、男の様に短くしていた。そして鬼のように武道の修練に励み仕事に打ち込み、自分を鍛えていた。


 まるで、自分の『女』を消し去るように。



 あのろくでもない義父との再婚は、佐藤唯真が高校生になった頃だという。


 高遠は、何があったか見当が付いた。だから佐藤唯真は、くそ真面目で面白味の無い岩石の様な自分にしか関われなかったのだろうと。


 高遠は、自分もあの義父をボコボコにしてくればよかったと思った。


 世の中には、矯正不可能なほど心根の腐った奴がいるものだ。



 写真に写る佐藤唯真は、退職の発端となってしまった忘年会での仮装姿に繋がるものだった。


 普通なら浮いてしまうだろう白いドレスにプラチナブロンドのカツラは、佐藤唯真には嘘のように似合っていた。


 真っ赤な口紅が引かれた唇は、目が離せなくなる様な色香を漂わせていて、高遠ですら妙な気分になりそうだった。


 他愛ないアイドルグループのダンスも、佐藤唯真が踊ると、まるで格調高い舞踊の様に見えた。ブランクがあっても、さすが新体操のトップ選手の動きだった。


 佐藤唯真を退職に追いやった、警視の行動は絶対に許されるものではないが、あの時の姿は、おかしくなる男がいても納得してしまう程のものだった。



 幾つもの輝く才能を持ちながら、度重なる苦難に翻弄されてきた元部下は、今夜、美しい人妻となって高遠に会いに来た。


 彼女の心の傷を癒し、女性として花開かせるほど潤沢な愛情を注いでいる夫は……機動隊員に稽古をつける自分の後ろを取る、武術家だ。



(愛されてるな、佐藤。でもちょっと、度が過ぎてるかな)



佐藤唯真は、何も知らされていないだろう。それが正解だと高遠も思う。


 逆鱗に触れると大変な旦那の様だが、力任せに横暴を働く人間でないのは高遠にも分かる。


 昔、井ノ上が言った『イケメンセンサー』とやらは、あながち外れてもいないようだ。



 御乙神家自体、関わらない方がよい存在の様だが、それに輪をかけて今の佐藤唯真は関わってはならない立場にいるのだろう。


 またお前に助けられたなと、高遠は思う。「危険だから探さないでくれ」と、言外に伝えに来たことを感じ取っていた。



(お前が幸せなら、それでいいんだ。どんな場所でどんな風に生きていても、お前が幸せであるなら、それでいいんだ)



本人は自覚していなかっただろうが、佐藤唯真が自分に『父親』を求めていたのを気づいていた。


 既婚者の自分が必要以上に応えてやることはできなかったが、代わりに、溢れんばかりの愛情を注いでくれる男に出会い、本来の自分を取り戻していた。



 良かったと、高遠は一人微笑んだ。人一倍苦しい思いをして、人一倍努力して生きてきた彼女が、今幸せに微笑んでいて、本当に良かったと思った。



(明君と、もう少し遊びたかったな)



顔はイマイチ気に入らないが、性格は佐藤唯真に似ていて、とても可愛かった。



(きっとまた、会えるな)



何故だろう、明とは、また会えるような気がした。いつの事かは分からないが、明とはまた会える気がしていた。



 何の根拠も無いのに、高遠は、そう確信していた。


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る