滅亡の幕開け(5)



 視点の定まらぬ目で、消え入りそうな途切れ途切れの声で、もう触れれば崩れてしまいそうな危うい様子で、輝明はようやっと言葉を紡いでいく。

 


『織哉は最後の最後、僕の目を狙った。初めに狙った絶対的な急所の頭ではなく、動きを封じるための視野を奪う一撃に、寸前で切り替えたんだ。


 でも僕は、絶命の急所を狙った。織哉の動きに気が付いても、そのまま心臓を狙った。狙った場所の差が、ほんの一瞬の迷いが、勝負を決した。


 織哉は、全てを捨てるほど大切な家族の命がかかった場面でも……僕の命を奪えなかったんだ』



暗色の渦の中を、赤い炎に包まれた織哉は墜ちていった。火雷で心臓を貫かれ、体の内からも外からも炎に焼かれながら、織哉は次元の狭間に墜ちていった。


 輝明の目からはもう、涙も零れることはなかった。自分の中で何かの糸が切れたように、意志の感じられない視線は虚空をさ迷い、零される言葉に覇気は無く、輝明は抜け殻になっていた。


 美鈴は強く目をつぶった。現実の、あまりの悲惨さに言葉が出なかった。輝明に重ねた手に力を込めたけれど、何の慰めにもならないのは分かっていた。



 どれほどまでに追い詰められても、自分を慕う事を辞めなかった弟を手に掛けてしまった夫に、一体何をすれば支えられるのか。


 自分の一部の様に慈しんできた弟を手にかけ、その家族まで葬り去り、殺した弟は最後まで自分を殺すことができなかった事実に、輝明はもう心が折れてしまっていた。


 輝明は優しすぎた。他人の生死を左右できる力を持つ御乙神一族をまとめ上げるには、輝明は繊細過ぎた。


 けれどその繊細さ優しさを、美鈴は何より愛していた。


 輝明の力や地位など、実は美鈴はどうでも良かった。むしろ共に生きるためには障害であるとさえ思っていた。


 他人の命を尊重し弟を心から慈しむ輝明こそが、美鈴が愛した輝明だった。


 身内にだけ見せる輝明の笑顔は、繊細な優しい心が映る、澄んだものだった。


 その笑顔が、美鈴は好きだった。輝明の力や地位ではない。この澄んだ笑顔を、美鈴は愛したのだ。


 このままでは輝明は立ち直れなくなる。気がふれてしまう。愛する相手だからこそ、美鈴には輝明の精神状態が分かった。


 輝明を救いたかった。己が心を殺し続け宗主の責務を遂行し、とうとう心が砕けた夫を救いたかった。涙を拭いて、美鈴は横たわる二人の遺骸を見る。


 美鈴は禁呪きんじゅである、反魂はんごんの術をり行うために『落日』に来た。遺骸が朽ち果てないうちに、黄泉の国から唯真親子の魂を連れ戻すつもりだった。


 とんでもなく愚かなことだと分かっている。一族の者達に知られれば、美鈴も御乙神家から追放されるだろう。禁呪を使う代償も、美鈴が負わなければならない。


 けれど輝明の心を救うには、この方法しか思いつかなかった。


 織哉達親子を抹殺することは、御乙神一族にとっては正しくとも、輝明にとっては間違いだったのだ。今の輝明を見て、美鈴はそれをようやくはっきりと悟った。


 輝明が織哉の心が分からなかったように、美鈴も夫婦であるのに、夫の心が分からなかったのだ。


 もっと早くに止めて上げられれば、せめて助言をしてあげられればと今更思ってももう遅い。でも、だからこそ、今成せることはやらなければならない。


 ここに遺体の無い織哉はどうしても無理だが、唯真と子供なら、今ならまだ取り戻せる。間違いを、ほんの一部でも正すことができる。


 御乙神一族と輝明を天秤にかけたなら、美鈴は輝明を取る。今の状況では、両方はどうあっても選べない。


 ならば美鈴は輝明を取る。自分は御乙神宗家の奥である前に、輝明の妻であるから。輝明の家族であるから。

 


 二人の遺体の前に正座し、美鈴は手を打ち鳴らし合掌する。古代から伝わる呪を霊力を込めうたい上げていく。


 流れる呪が、美鈴の前に黄泉の国への道を開いていく。


 現世と黄泉よみ、重なり合うはずの無い二つの次元を強引に霊能力で繋ぎ、鍵となる呪で黄泉の国の門を開く。独特の寒々しく重い気配が、『落日』に流れ込んできた。


 美鈴は己が肉体から離れ、魂だけとなり黄泉の国の入り口、黄泉平坂よもつひらさかへと向かった。





 そこは冷たく寒々しく静まりかえった、暗く深い藍色の世界だった。光無く、重い霊気が満ちるこの場所は、人が生きる世界とはまるで違っていた。


 死者の世界と生者の世界の境目、黄泉平坂を、美鈴は歩いていた。重く冷たい空気は、歩くたびに、美鈴の身体から力を奪っていく。


 ゆるい上り坂の途中に、人が立っていた。それは、明を抱いた唯真だった。


 もう青白い顔色の、黄泉の国の人となっている唯真は、坂を上ってきた美鈴に穏やかな微笑みを見せた。


 その表情はいでいて、様々な思いが過ぎ去ったものだった。


 近づいてきた美鈴に、ゆっくりと頭を下げた。顔を上げると、腕に抱く息子の顔をのぞき込み、笑いかける。可愛くてたまらないと、表情が物語っていた。


 そして美鈴に向き直り、無言で腕の中の明を渡す。


 明を渡された時に一瞬触れた唯真の手は、凍ったように冷たかった。明の身体も、まるで氷を抱いているようだった。


 美鈴は、苦し気に目を閉じ、唯真に頭を下げる。



「唯真さん、ごめんなさい。本当にごめんなさい。私の力では、一人連れ帰るのが精一杯なの」



美鈴の苦しい言葉に、唯真は優しく微笑んだ。謝らないで、と、表情が語っていた。


 禁呪である反魂の術は、美鈴の手には余る術だった。無理をして術を発動させたが、悟ったのは、連れ帰るのは一人が限界だということだった。


 青白い顔色の、それでも温かみを感じる唯真の優しい微笑みに、美鈴は胸が引き裂かれる思いがした。 


 美鈴の腕に抱かれる明は、何かを感じ取ったのだろう、見る間にぐずりだす。


 母の腕に帰ろうとする息子に、唯真は自分に伸ばされた右手を優しく握り、あやす。



『明。愛してる。傍に居られなくて、ごめんね』



前髪をかき上げ、額に優しくキスを落とす。


 幼くとも、今生の別れだと察したのだろう。明は大声を上げて泣く。何とか母の腕に戻ろうとする。



『やだおかあさん、おかあさんといっしょにいる!おかあさんといっしょがいい!』



泣き叫ぶ明の姿に、美鈴も我が子を重ね、涙が浮かぶ。同じ母だから分かる唯真の気持ちを察して、心を鬼にして、もがく明を抱きしめる。



「明君、おばちゃんと一緒に行こう。これからはおばちゃんが一緒にいるから」



『いやだおかあさんがいい!おかあさんといっしょがいい!』



明をなだめる美鈴の背中を、唯真の氷のような手が優しく押した。


 涙を流して美鈴に笑いかける唯真は、昔、先視の術で視た、胸に染みる様な愛情深い微笑みを浮かべていた。



『美鈴さん、来てくれてありがとう。どうか明を、お願いします』



『やだ!おかあさん、おうちにかえろう!いっしょにおうちにかえろうよ!』



暴れて泣く明の小さな頭を、唯真は抱き抱える。何かを、小さく呟いた。


 そして今度こそ美鈴の身体を押す。いくら熟練の霊能者とはいえ、まだ生者である美鈴には、この世界は居るだけで命を削られる場所だった。


 美鈴はもう振り返らず、泣きわめく明を連れ黄泉平坂を引き返していく。


 歩くたび、一歩一歩、足が重くなっていく。体から何かが毟り取られる感覚がする。まもりの呪を呟きながら急激に重くなっていく足を、死に物狂いで前へと進めていく。


 しかし足が、どうしても上がらなくなっていく。余裕の無い美鈴には視ることができなかったが、黄泉平坂で迷う多数の亡者達が、命の輝きに引かれ美鈴へと群がっていた。


 護りの呪に、骨と皮ばかりの手を焼かれながら、美鈴の命を次々と毟り取っていた。


 それでも美鈴は全力を振り絞って前へと進んでいく。正に命を削りながら、美鈴は絶対に離すまいと明を抱きしめかばい、生者の世界を目指す。



 自分が歩いているのかさえも分からなくなった時、目の前が明るく白くなった。水中から出てきたように呼吸が楽になり、帰ってきたと分かった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る