滅亡の幕開け(4)



 広大な御乙神宗家の屋敷内に、廊下の奥、目立たぬ場所にひっそりと入り口のある部屋がある。


 家政婦達は、その畳敷きの和室を『落日らくじつ』と呼んでいた。仕事の際、不幸にも死亡者が出た場合、遺体を一時安置するための部屋だった。



 『落日』に安置された唯真と滅亡の子の遺体を前に、美鈴は一人無言で座っていた。

 

 昨夜、というより今朝方三時を回っていただろうか。父からの緊急の式に、美鈴は文字通り飛び起きた。


 それからの事は、宗主の代理として務めは果たしたつもりだが、実はあまり良く覚えていない。


 医師の処置が終わり夫が屋敷に運び込まれたのは、もう日が暮れた頃だった。輝の世話をちとせに頼み、先程まで美鈴は夫に付き添っていた。


 夜も更け、様子を伺いに来ていた分家の者達も帰り、屋敷も静まった。


 輝明の付き添いを他の者に代わってもらい、美鈴はようやく一人、唯真と六年ぶりの再会を果たしていた。


 清められ、装束しょうぞくを着せられた唯真は、記憶よりもずっと綺麗だった。幸せだったのだろうと、六年間の生活が想像できる姿だった。


 隣に寝かされた、一目で織哉の子と分かる幼子も、素直な子供らしい顔付きをしていた。物質面でも愛情面でも、大切に育てられていたのが分かった。


 けれど、二人はもう抜け殻だった。普通に見ても、美鈴の霊能力を以てしても、二人は中身の無い、抜け殻だった。


 暖色の柔らかい照明に照らされながら、美鈴はただ無言で、二人の遺体を見下ろしていた。


 その目は、悲哀でも怨恨でもない、複雑な、重い感情のこもった眼差しだった。




 輝明の左目は、眼球を切り裂かれ、完全に失明したとのことだった。


 頭から顎まで達した刀傷も、一部筋肉が切断されていて、傷はもちろん残り、表情を作る事にも支障があるだろうと聞いている。


 上半身の傷も深く、元の身体に戻るのは難しいかもしれないとの見立てだった。


 神刀の使い手の妻として、夫の身の危険は承知で嫁いできた。覚悟はできているつもりだったが、やはり実際起こってみると、衝撃は想像以上だった。


 風の力を持つ建速たけはやに斬られ、頭部が吹き飛ばなかっただけでも良かった方だと、父の武志たけしが慰めてくれた。


 けれど、どうしても相槌あいづちを返せない娘を、普段は厳しい父が抱きしめてくれた。父の様子も、どこか普通ではなかった。



(みんな、傷ついている……)



家族のために。愛する者のために。課せられた責務のために。決して自堕落な欲望で動いている訳ではないのに、大切だと思うものを守ろうとすれば、誰かとぶつかる。誰かが傷つく。


 それが世間を生きていくことだと、現実の世なのだと、言ってしまえばそこまでだが、それでも一時は親しく言葉を交わしていた相手が、身内の手に掛かり死体になってしまうなど、あまりにも辛すぎた。


 六年前、唯真の護衛に就き、年の近い気安さから、一族の者には絶対に話せない愚痴をこぼしてしまったことがあった。


 当時の美鈴は、子供ができない事をひどく悩んでいた。


 宗家の嫁は、次世代の神刀の使い手を産む事が何よりの務めとされていた。


 輝明は気にしなくていいと、子供は居ても居なくてもいいと本心から言ってくれていたが、だからこそ、輝明の立場が悪くなるような事態は避けたかった。


 どこで尾ひれがつくかも分からない愚痴は、一族に関わる者には絶対に話せなかった。だからつい、何のしがらみもない唯真にこぼしてしまったのだが、唯真は聞く義理もない美鈴の愚痴を丁寧に聞いてくれた。


 否定や意見をされず、ただ心にわだかまる思いを聞いてもらうだけで、本当に落ち着いた。気持ちが楽になった。


 後から考えれば、それは唯真が真剣に美鈴の話を聞こうとしてくれたから、気持ちよく話が出来たのだと気が付いた。唯真が、美鈴に対して誠実に心を向けてくれたからなのだ。


 唯真は、そんな心遣いのできる人だった。後に噂で唯真の過去を聞き、逃れようのない苦しい目に遭ったからこそ、他人の苦しさが分かる人なのだと思った。


 唯真の事を汚れた女だと、魔性の女だと罵る者達がいたが、美鈴はそうは思わなかった。


 初めて会った時、強い女性だと思ったけれど、やはり第一印象の通りの人だったと思った。苦しみを糧に強くなった人だったのだと。



(覚えていてくれたんですね。私の話を)



子供に関する愚痴をこぼす中で、話したのだ。『子供の名前は、上の子から順番に、輝明の名前を一文字ずつもらう』と。


 『滅亡の子』の名前を聞いた時、美鈴は、唯真の思いを理解した。


 自分の命を狙った、今でも命を狙う相手の名をもらってでも子供の命を守りたいと思っている。


 自分達が考える名を贈るより、子供の命乞いを優先した唯真は、心の底からこの子を望んで生んだのだと分かった。子供の幸せを、心底願っていると。


 この人の何が悪いんだろうと、美鈴は思った。思いながら美鈴の目から、涙が溢れ、頬を伝っていった。同じ女性として、唯真の行動は理解できることばかりだった。


 いくら考えても、誰も悪くない気がする。唯真も、織哉も、輝明も、一族の者達も。


 この六年、周囲から有り得ないほど責められた輝明も、悪いとは思えなかった。けれど輝明は、自分を責めていた。


 誰よりも理解していると思っていた弟の心を見抜けなかった事を、何より責めていた。


 この六年、自分を責め続けて、その責める気持ちを織哉達の追跡に向け、そしてとうとう本懐を遂げた。


 けれど夫は、ひとつも楽にはなっていなかった。表情が見えないほど厚く包帯を巻かれた夫は、うわごとの様に美鈴に零した。


 『自分は、誰よりも弱い人間だ』と。


 傷に障るからしゃべらないでと、美鈴が止めるのも聞かず、輝明は上手く動かない唇でごくゆっくりと、独り言のように語った。


 それは、宗主としての存在感ある声音ではなく、空に溶けていくような、頼りない言葉達だった。



『立派な宗主になりたくて唯真さんを殺さず、織哉を失いたくなくて皆に隠ぺいし主義を曲げ唯真さんを狙い、今度は一族内での立場を守るために織哉の命を奪った。


 どれもこれも、自分が可愛いばかりの、利己的な行動だ。周囲の評価ばかりを気にしてコロコロと方針を変え、自分の行動を客観視できてない。僕は心底、頭が悪い上に心の弱い人間なんだ』



包帯の隙間から除く右目は虚ろで、話す内容は子供の様に幼い自虐だった。


 平素の輝明らしさの欠片もない様子に、美鈴は何も言えず、ただ包帯の巻かれた夫の手に自分の手を重ねていた。


 夫が、肉体だけではなく、心にも多大なダメージを受けているのは間違いなかった。


 怪我の手当てはできるけれど、心の手当ては方法が分からない。美鈴はただ夫に付き添い手を握り、零される言葉を是でも否でもなく受け止めた。


 誰が夫を否定しても、輝明が輝明自身を否定しても、美鈴は輝明をありのまま受け止めたかった。


 けれど、重ねられた手のぬくもりにも、返す言葉にも、輝明は救われた様子は無かった。まるで抜け殻の様に虚空を見つめていた。


 若くして重責を担い、どんな時も背筋を伸ばし顔を上げ、この六年、誰に何を言われようとも言い訳せず前を向いていた輝明は、今初めて―――心が折れていた。



『織哉は、僕の命を奪えなかったんだ』



呟かれた言葉は、美鈴が傍に居たからこそ吐けたのかもしれない。美鈴のぬくもりに頼ったからこそ口に出せたのかもしれない。


 それは、輝明の強靭な精神を折った、真実の吐露とろだった。

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