第三の刺客(6)
仕切り扉をノックする音がする。扉の向こうに誰がいるのか分かっている織哉は、返事をする。
「どうぞ、唯真さん」
扉を引いて姿を見せた唯真は、座椅子に座ってA4サイズのタブレットを見ている織哉へ、声をかける。
「ちょっといい?」
「構わないよ。どうぞ」
タブレットを向かっていた黒い和机に置き、唯真へ笑顔を見せる。
画面を消していないタブレットは、流麗な墨書きの崩し字が写っている。内容は、唯真にはさっぱり分からなかった。
唯真の視線に気づいた織哉が、自分もタブレットに視線をやる。
「呪術に関する文献を、研究を専門にする部門で紙媒体から電子媒体に移し替えているんだ。紙媒体は劣化しやすいから、読めなくなる前にね」
「……こういう世界って超アナログだと思ってたけど、意外と柔軟なのね」
「使えると判断したものは取り入れていくよ。電子媒体だとタブレットでどこでも読めるから便利だよ」
穏やかに笑う織哉に「勉強熱心なのね」と言って、一通の封筒を差し出す。
タータンチェックのラインの入った封筒には「三奈さんへ」と宛名が書かれている。
「三奈さんのお見舞いに行く時に、持って行ってもらえない?美鈴さんよりあなたの方がよくお見舞いに行っているみたいだから」
差し出された封筒を見て、織哉は「いいよ」と受け取る。手紙を渡しながら、唯真は思い切って口を開いた。
「もう随分前の話だけど、怪我をしているあなたを、投げたりしてごめんなさい。さすがにあれはやり過ぎだった。
あれ、わざと言ったんでしょ?私があんまり落ち込んでいたから、わざと言わなくていい自分の事情を出したんでしょう?気を使わせてごめんなさい」
手紙を受け取った姿勢のまま、織哉は真顔で唯真の顔を見る。驚いている感情が、そのまま顔に出ている。織哉にしては珍しいことだった。
「三奈さんのお見舞い、頻繁に行ってくれてありがとう。おかげで三奈さん、入院生活楽しく過ごせているみたい。あなたの気づかいのお陰だわ。ありがとう」
出来るだけ柔らかい表情で伝える。三奈からもらった手紙の中で、織哉が自分の時間を削って三奈の為に動いているのは十分伝わってきた。
自分が見舞いに行けない中、それはとてもありがたいと思ったのだ。
それと、と、呆けたままの織哉へ、もう一つ言いたかったことを伝える。自然と、顔が笑みを作る。
「三奈さんが催眠暗示にかかった時、助けに来てくれてありがとう。あの時、別の大変な仕事をしていたって聞いたわ。
私が無理を言ったから、怪我をしてしまったのよね。無茶を言ってごめんなさい。でもお陰で三奈さんは命が助かった。本当にありがとう」
伝えていなかった事、伝えたかった事を一気に言ってしまって、ここ二ヶ月の胸のつかえが氷解した気がした。
三奈からの手紙を読みながら、あの時の織哉の真意に気が付いた。
三奈の事で混乱していた自分は、言わなくていい事をわざわざ口にした織哉の不自然さに気が付けなかった。
男女の仲は、曖昧で複雑だ。なのに自分の価値観だけでジャッジしてしまった。
あの時何故あそこまで怒ってしまったのか、改めて考えると良く分からないのだが、とにかく自分はやり過ぎたのだと、唯真は胸のつかえの理由を悟ったのだ。
ふ、と、織哉が噴き出した。手紙を握ったまま、肩を震わせて笑いだす。心底、おかしそうに。おかしくてたまらないと言った様子で。
すぐに声を上げて笑い出した織哉に、唯真が声を上げる。
「ちょっと、何もそんなに笑わなくても……」
唯真の戸惑いなど気にならない様子で、織哉はまだ笑っている。
開いた手で目元を覆い、体を震わせて笑い続ける。
織哉は目元を手で覆ったまま、ずっと笑い続けていた。何だかその様子が不可解で、唯真は訳が分からず戸惑う。
目元を隠して笑い続けるその様子は、いつも飄々として掴みどころのない、織哉らしくない様子だった。
笑いながら目元を隠しながら、織哉は零す。独り言のように。
「……深刻な顔して何を言うかと思えばそんな事。もう二ヶ月も前じゃない。ずっと気にしてたの?二ヶ月も?唯真さんどんだけカワイイ性格してるの?想像以上だよ本当に」
「な、何を……」
言いたい放題の織哉に、唯真は真意がつかめず返す言葉に詰まっている。
ようやく笑いが収まってきた様子の織哉は、まだ目元を手で覆ったまま軽く笑っていた。
そのまましばらく笑って、ふう、とため息のように息を吐く。そして目元から手を外した。閉じられた目を開く。その目は、笑ってはいなかった。
顔を上げ唯真に向けてきた眼差しは、普段と変わらない、本音の見えないものだった。にっこりイイ笑顔で口を開く。
「あれは唯真さんが怒って当たり前だから気にしないで。俺がいい加減なのが悪いんだからさっ。
唯真さん本当に真面目だよね~だからカレシできないんだよ~。もっといい加減に生きたほうがいいよ俺見習ってさ?でなきゃ眉間だけじゃなくて目元にもシワができちゃうよ?」
もうアラサーだしぃ、と軽口をたたき始めた織哉に、唯真は一歩踏み出し手を伸ばしてデコピンしてやる。
「いでっ。謝った先からさっそく暴力?唯真さん身持ちは堅いのに手は早いよね」
「人が下手に出た途端にセクハラ発言してるんじゃないわよ。それより前から言おうと思っていたけど、三奈さんはまだ一般社会では未成年の高校生よ。
ここのろくでもないお家事情は聞いたけど、絶っ、対っ、に、何があっても、妙な気を起こさないようにね。もちろん他の未成年のお嬢さんにもよ」
「それはない大丈夫。俺ロリコンじゃないし、乗り気じゃない相手に無理強いなんかしないよ。第一結婚もしていないのに子供だけとか、俺は嫌だよ。俺はそういうので母親と生き別れになったからね」
あっけらかんと自分の事情を口にした織哉に、唯真は思わず黙り込む。
硬い表情で沈黙した唯真に、織哉は穏やかな眼差しを向け、話を続ける。
「俺と輝明、母親が違うんだよ。名前の系列が全然違うでしょ?俺は特に霊能力が高く生まれたから、母親は悩んだ末俺のために御乙神家に引き渡したんだ。
でも本家に入ると俺の事気に入らない連中に殺されそうになるし、母さんは死ぬまで独身だったし、いい目を見たのは父親ばかりで、俺達母子は振り回されただけだったよ」
どこかの昔話を語る様な顔で織哉は話して聞かせる。
しかしその流れるような語りに、実はどれだけの感情が込められているのか。唯真にはとても測れなかった。
「俺は父親が嫌いだよ。結婚できないのが分かってて母さんに俺を産ませたんだから。もう五年前に死んだけど、いくら宗主だ神刀の使い手だって崇め奉られていても、俺は一ミリグラムも尊敬できないよ。でも」
沈黙する唯真を見上げて、織哉は微笑む。本心は見えないが、それでも、きちんと笑った笑顔だった。
「輝明は、ある日突然湧いて出てきた俺を、家族として受け入れてくれたんだよ。闇討ちされた時、駆けつけて守ってくれた。
輝明だって次期宗主とはいえ、あの時まだ一三歳だった。振るうにはまだ大変な火雷を抜刀して、大人の術師達に立ち向かってくれた。俺はその頃まだ霊能の術を習得していなかったから、何にもできなくて。
輝明だけが頼りだった。輝明は、半ば俺の父親みたいなもんなんだよ」
つまらない話だったね、と苦笑する織哉を、唯真は複雑な気持ちで見つめる。
織哉の顔には、今は素直な感情があった。照れたような懐かしがっているような、深く兄を慕う、親愛の情だった。
「ある意味人からはみ出た御乙神一族の中でも、更にはみ出た神刀の使い手の俺達は、お互いしか対等な相手がいないんだ。でもその腐れ縁の様な相手が輝明で、俺は本当に良かったと思うよ」
「……輝明さんは、一族の力に物を言わせて命を軽んじる空気を変えたいのね。だから私の件も一族の反対を押し切ってまで頑張っているのね」
自分の身体を抱きしめる様に腕を組む唯真に、織哉はうなずく。
「ま、そういう事。人間、強い力を持つと、すぐに我を忘れていい気になっちゃうからね。人を超える力を持つ御乙神一族は、もうそれだけで傍若無人になりやすい。
だから輝明は、安易に力に頼らない解決の前例を示したいんだ。でもなかなかうまくいかなくて、唯真さんには迷惑かけて申し訳ないと思っているよ」
すまなそうに弱く笑うその顔は、やはり素直なものだった。申し訳ない、と思う心が、表情から滲み出ている。
それは造形の美醜に関係のないもので、とても真摯なものだった。
その淡い笑みを、なぜか直視できなくて唯真は目をそらす。黒塗りの和机を見ながら、言う。
「こっちこそ、助けてもらって本当に感謝してる。ここに連れて来てもらわなかったら、とっくの昔に命がなかった。感謝してもしきれない。本当にありがとう。
……ところで話変わるけど」
最後、調子の変わった唯真は、ジロリと強い視線を織哉に戻す。織哉は、睨まれてその整った顔を強張らせる。
「え?何?唯真さん?」
「三奈さんから聞いたわよ。あなたの奥さんになりたくてたまらない女性達が女の闘い繰り広げてるって。あなたその立場利用して、やりたい放題やってるんじゃないでしょうね?」
「それは単に神刀の使い手の妻に、御乙神宗家の嫁になりたいだけだよ。本気で俺の事を好いている訳じゃない。正にただの種馬扱いだよ」
「その種馬扱いに便乗しているのは否定しないのね」
「……あ、いや、それは、その別にやましいコトは何もその、俺、輝明みたいな聖人君子じゃないしぃ……」
「あらそう。正に女の敵ね。あなた輝明さんに頭上がらないみたいだから、今度おかしな話聞いたら輝明さんにお伝えすればいいわね」
「え、それはちょっと……」
「いいこと聞いた。うん、そうしよう。私がお説教するよりずっと効果的ね」
「ちょっと待って、輝明の説教は火雷が出てくるから面倒くさいんだよっ……」
全開に開け広げられた仕切り扉の向こうで、喧々囂々、以前の様な言葉のキャッチボールが続いていた。
夕食の食器回収も終わり、三奈が在室している五階フロアは静まり返っていた。
病室の窓の下に置かれたソファで本を読んでいた三奈の横に、歯磨きを終えた同室の少女が座ってきた。足を骨折して入院していた彼女も、明日退院する。
「ねぇ、最後にさ、ホントのところ教えて欲しいんだけど」
「ダメだよ。個人情報って言うんだよそういうの」
「そう言わずにお願い~。どうしても気になるの。絶対誰にも言わないから!」
両手を合わせて三奈を拝む少女は、もう回数を忘れるほど口にしたお願いを、再度三奈に頼み込む。
「織哉さんの彼女目指すのは諦めるから、その代わり、織哉さんの本命がどんな人なのか教えて!お願い!」
ほぼ毎日のように病室に顔を出す織哉に恋してしまった彼女は、三奈に再三織哉のプライベートな情報を尋ねた。
三奈としては織哉の正体は到底話すことはできなくて、何とか彼女を諦めさせるために思わず口走ってしまったのだ。
「織哉さんには、ぞっこんの本命がいる」と。
ね~お願い~、と三奈を拝んでくる彼女の顔は、実はかなり真剣だった。
あの顔であの能力でしかも優しいなんて、もう罪を通り越して凶悪犯罪だ、と訳の分からないことを思いながら、三奈は読んでいた本をぱたんと閉じた。はぁ、とため息をつく。
淡いピンクの壁紙をぼんやり眺めながら、ぽつぽつと、思い浮かんだことを口にしていく。
「……親切で、弱い立場の相手も見下すようなことはしない人。悲しい思いをしてきているのに、それを他人への優しさに変えられる人。愛情深くて、子供を持ったらすごく良いお母さんになりそうな人。いや、なりそうじゃなくて、なるよ、絶対」
「何その現実味の無いレベルでかわいらしい、少女漫画の主人公みたいな性格。いるのそんな人?」
「あと、綺麗な人。スタイルも良くて本当に美人。普段は着飾らないけど、その気になれば男はみんな二度見するレベルだと思う。
あまり笑わないけど、気を許した相手には素敵な笑顔を見せてくれる、あったかくて優しい、きれいな笑顔の人」
「性格美人の上に顔美人なんて、もう全然敵わないじゃん。卑怯、ずるい、神様のバカ~!」
ソファの上で両手を上げて小さく叫んでいるのを見て、三奈はまた小さくため息を吐く。そして振り返って、まだカーテンを引かれていない窓から外を見る。
黒い夜空に、月が浮かんでいた。今夜は十三夜の月で、窓から見える総合病院の広い庭園は、独特の蒼い光が照らしていた。
月の蒼い光は、静やかで怜悧でけれどどこか、たおやかで、何故か大人の女性を連想させる。
それは太陽の光のように輝いてはいないけれど、秘められた静やかな色香が、男を捕らえる、淑女の……魔性。
降り注ぐコバルト色の光を眺めながら、三奈は思った。
―――ああ、あの人みたいだな、と。
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