第三の刺客(3)



 何が起こったのか良く分からない二人の前で、無表情の三奈は荷物を放ったままキッチンへと向かう。


 慣れた手つきで引き出しを開け、このキッチンにある中で一番刃渡りの大きい肉切り包丁を手に取った。そして振り返る。


 鋭く、床を割らんばかりの音がした。


 一瞬で、ひと飛びで唯真の目前へと到達し、着地と同時に踏み込み唯真の腹部目掛けて肉切り包丁を繰り出す。


 その踏み込みで、床板が三奈の足型に割れて沈む。踏み込んだ力が前への推進力へと変わり、凄まじい勢いの一撃だった。


 もう本能で、反射のみで身をひるがえした唯真は、けれど脇腹がかすっていた。


 指すような痛みに、唯真は顔をしかめる。



「み、三奈!どうしたのっ?何をっ!」



 我に返った美鈴が叫ぶが、唯真は声を上げる余裕はない。


 次々に繰り出される肉切り包丁の攻撃をかわすので精一杯だった。ベルトに差している特殊警棒を抜く余裕さえない。


 攻撃は早く正確で、何のためらいもなく的確に唯真の急所を狙っていた。


 先ほど見せた跳躍力も、動きも、素早さも、全てが凄まじく三奈のものとは思えないのに、今、唯真を襲っているのは、間違いなくあの純朴で少し気弱な、心優しい三奈だった。


 決して慣れてはいないが、唯真は本物の刃物を持った犯人と対峙した経験もある。


 そのような相手の制圧訓練も受けている。刃物を持った相手の制圧はできるはずだった。



 しかし今の三奈は、動きが異常だった。速過ぎて力が強すぎて、もう、人間の域を超えていた。


 三奈の間合いに入る余裕さえない。攻撃に伸びてきた腕を掴もうとしてもかき消える。こんなスピードの相手など、唯真は見たことがなかった。


 追い詰められ、四人掛けのダイニングテーブルに背中がぶつかる。


 振り下ろされる包丁をかわす為、唯真はテーブルの上を転がり向こう側へと逃げる。


 唯真を狙って突き立てられた肉切り包丁は、厚さ3センチはあるウォールナット製のテーブルトップを貫通した。人として有り得ない力だった。



 床に着地し体勢を立て直すと、三奈の姿が消えていた。


 次の瞬間、気配を感じて顔を上げると、頭上に三奈が飛んでいた。


 仕立ての良い水色のワンピースが、それだけは優雅に空中に舞っていた。



 全体重をかけて打ち下ろされた肉切り包丁を床を転がってかわす。着地した三奈は、肉切り包丁で次々に床に穴を開けながら、転がる唯真を追って行く。


 立ち上がり逃げようとした唯真の足を、低い回し蹴りが掬った。三奈の動きが早過ぎて、攻撃の予測が間に合わなかった。


 足を掬われて体勢を崩した唯真へ、有り得ない速さで肉薄した三奈が肉切り包丁を振り下ろした。



「!」



 肉切り包丁が、唯真の顔三〇センチほど前で止まる。何もないはずの虚空に、薄く光る金色の壁が見えた。


 織哉が施してくれた術が、唯真を護っていた。


 空中でぎりぎりと震えて押し合い、しかしすぐに腕を引き、凄まじい勢いで何度も何度も肉切り包丁の切っ先を唯真の目の前に叩き付ける。


 火花が散りそうな勢いで金色の壁に叩き付けられる肉切り包丁は、柄を握る手から赤い血が飛び、飛沫となって動けない唯真の顔に降ってきた。


 避ける様に金色の壁に亀裂が入ったのを見て、唯真の顔が強張る。体勢を立て直し、逃げようとする。


 美鈴の鋭い声がして、三奈の動きが止まった。


 震える様に体が動いているのは、何かの力に自由を奪われているのを、強く抵抗しているからだろう。 


 美鈴に目をやると、険しい形相で合掌していた。


 唯真には何をしているのか分からないが、その様子から、術で三奈の動きを止めているのだろうと察した。


 しかし三奈の動きが大きくなっていく。何かを振りほどくように、身体が動いていく。


 美鈴の顔に汗が流れ始める。歯を食いしばり、そして叫ぶ。



「唯真さん逃げて!もう止められないっ!」



 叫んだと同時に美鈴が突き飛ばされるように後ろへと飛ぶ。


 何かを振り切ったらしい三奈が、身体を振って、立ち上がり距離を取った唯真へと向き直る。



「み、な、さん……」



 相変わらず無表情の三奈の右肩は、包丁を握ったまま脱臼していた。


 その有り得ない形にだらりと下がった肩を、空いた左手で無造作に押し上げる。


 ごきゅり、と怖気が立つ様な音がして、右肩は取り合えず元の形に戻った。しかしやはり三奈の表情は動かない。


脱臼を元に戻すのがどれだけ痛いか知っている唯真には、それは見ているだけで身震いがするような光景だった。



(痛みを感じてない……!)



 閃くように、三奈の状況を察した。


 今の三奈は、何者かに操られ、自分の意志はなく痛みも感じず、使い捨ての凶器となって唯真を襲っているのだ。


 見える三奈の右足首は、体の外側、右方向へ九〇度を超え曲がっていた。


 人体の構造上、有り得ない曲がり方だった。


 恐らく先ほど超人的な跳躍を見せた時、足首が耐え切れなかったのだろう。


 けれど三奈は歩行に関して、何の痛みも感じていない様子だ。


 人間の身体は、肉体を酷使し過ぎて傷つけない様、無意識の領域で出力に制限がかかる様になっている。


 しかし今の三奈は、そのリミッターが完全に外れている。


 誰かが何らかの方法で三奈の無意識のリミッターを全て外し、三奈の身体が壊れることなどお構いなく搾り取れるだけ力を出させているのだ。


 悪魔のような何者かの思考に震えがくる。


 こんなむごい方法を考え実行するなど、人間のすることではないと思った。


 唯真が逃げれば逃げるだけ三奈の身体は壊れていき、捕まれば唯真は殺される。


 じりじりと距離を詰めてくる三奈を前に、唯真は八方塞がりの現状の突破口を必死で考える。



「!」



 黒い大きなものが視界を塞いだ。言葉にならない叫びを上げる三奈は、黒く長い何かに、何重にも巻き付かれ拘束されている。



『唯真さん大丈夫?』



 織哉の声だった。少し早口な、彼にしては珍しく余裕なさげな声音だった。



 激しく暴れる三奈に巻き付き取り押さえているのは、黒い、龍だった。


 黒光りする鱗は一つ一つが緩やかに凹凸があり、蛇の様な滑らかさは無い。


 長い髭は空中に浮き、僅かに上下している。頭の大きさは大人が一抱え程の、まごう事なき龍だった。



 龍がしゃべってそれはあの織哉の声とは、もう、何が起こっても驚かないと思っている唯真も、さすがに言葉が出ない。


 織哉さん、と声がして、吹き飛ばされた美鈴が唯真の元に来る。そして黒い龍、もとい織哉に言う。



「お願い力を貸して!これは呪詛や憑き物じゃない、探っても何も感じないのよ。あなたの結界にも引っかからなかった。


 多分、強力な催眠暗示だと思う。解除に失敗すれば三奈の精神が壊れてしまう。でもこの強度は私では無理!」



『こっちも取り込み中なんだ。今はそっちに行けない』



 織哉の余裕のない様子に、美鈴が苦し気な顔をする。その間にも、三奈の暴れっぷりはエスカレートしていく。


 三奈の身体が、痛んでいくのが目に見えて分かった。激しすぎる抵抗が、三奈の身体を目に見えて壊していく。


 暴れるたびに体が鈍い音を立てていた。見える部分の素肌が、赤黒く変色していた。


 美鈴が両手を打ち鳴らし合掌し、精神集中に入る。女性らしいたおやかな容貌に、怯まず挑む強さが見えた。


 一か八かの、勝負に出るようだ。



 固く目をつぶり、無言で念じる。暴れる三奈は、特に様子は変わらない。


 唯真は、呼吸を忘れて二人を凝視する。唯真には何も分からないが、美鈴が見えない世界で激しく戦っているのを感じた。



「ゆ……ま……さ……ん……」



 野獣のごとく暴れる様からかけ離れた、ごく細い、途切れ途切れの声がする。


 相変わらず表情の無い三奈の口から、絞り出すようにたどたどしい言葉が漏れ、その不気味とも言える三奈の様子に、唯真の目は釘付けになる。


 無表情で暴れる三奈が、細い細い声で、一言ずつ言葉をこぼす。



「に……げ……て……」



 視点の合わない三奈の目から、一筋、涙が流れた。しかしその涙は、激しい動きに飛び散って、跡形もなく消えてしまった。


 美鈴も必死で術を施しているようだった。しかし三奈は変わらず激しく暴れ、また何か、聞くのも恐ろしい音がする。



 美鈴の尽力もむなしく壊れていく三奈を前に、見開いた唯真の目から涙があふれた。


 こんな時でも唯真の身を案じる健気な心に、もう唯真の方が、心が折れそうだった。


 何の罪もないこの優しい少女に、唯真は何もしてあげられない。


 例え身を差し出して目的を達成させても、後で正気に戻った三奈が死ぬほど傷つくだけだろう。



 唯真は叫んだ。泣きながら叫んだ。もうそれは、悲鳴だった。



「織哉!早く来てお願い!お願いだから早く来て!三奈さんをどうにかして――」



 三奈は容赦なく暴れている。黒龍の太い胴体を拳で殴り、足で蹴り上げ、肘で討つ。何とか拘束を抜け出そうと激しく身をよじる。


 美鈴は濡れたように汗をかいて、瞑目したまま一心に念じている。


 風が巻いた。床に着地する重い音がして、白い装束がリビングに現れた。



「織哉……!」



 空中から突如現れたことに驚いたのではない。織哉の白い装束は、右肩が派手に裂け、半ば右上半身が露わになっていた。


 そして背中には、幾筋かの大きな傷が走っていた。赤い筋から血が流れ、裂けた装束に赤い染みを作り始めていた。


 傷を負って現れた織哉は、普段は見せない厳しい表情をしていた。


 感情を剥き出しにした織哉は、全身から逆巻くような闘志を発しながら、目には強靭で冷静な理性が見えた。


 その姿は、修羅場を己が身一つで戦い抜いてきた、歴戦の戦士のものだった。



 涙を流したまま立ちすくむ唯真を一瞥し、そして三奈に目をやる。


 右手に握る建速を体の前に真っ直ぐに立て、目を開いた美鈴に声をかける。



「美鈴さん、俺が暗示を解くから、美鈴さんは三奈ちゃんの意識を導いて。多分暗示が解けたら混乱して手が付けられなくなる」



 分かった、と美鈴が相槌を打つのを聞いて、織哉は相変わらず暴れる三奈の前に立ち、瞑目する。


 その様子は、右上半身の傷など無いような、凛としたゆるぎない様子だった。



神刀建速しんとうたけはやよ。折小野三奈の魂を縛る悪しき言霊を切り裂くため、穢れなき風の刃を貸したまえ」



 織哉を中心に、リビングに緩やかな風が巻き始めた。その風は爽やかで涼やかな、清冽な風だった。


 床を鳴らして踏み込み、中断に構えた建速を上段から切り下した。


 それは心技体揃った、完璧な一刀だった。


 建速が振り下ろされたと同時に風が、四方へ強く吹く。



 黒龍に束縛されたまま、三奈の身体が糸が切れたように動かなくなった。ぐったりと弛緩した三奈を黒龍は静かに床に降ろす。そして、消えた。



 床にうつ伏せる三奈を、唯真が仰向けにして抱き起す。


 閉じていた瞼は、すぐに開いた。そして唯真を見て、その目はみるみるうちに涙が溢れてくる。



「ごめん……なさい、唯真……さん、ごめんなさい……本当に、本当に……ごめんな……さい……体が……言う事を……聞かなくて、どう……しても止められ……なくて……止められ……なくて」



 話していくうちに耐えきれなくなったようで、身をよじらせて自分の感情と戦っている。


 けれどその体も思うように動かず、体の痛みと心の痛みに、三奈は唯一自由になる声を上げる。声で苦しみを発散する。



「いやぁ……こんなの嘘……!ごめんなさい、ごめんなさい、私なんてことを……!許して下さい、ごめんなさいごめんなさいっ……!」



「大丈夫、大丈夫だから、私は何も怪我していないから大丈夫だから。三奈さん今は動いちゃだめ」



 痛み切った体で泣き叫ぶ三奈は、すぐに引き込まれるように目を閉じた。横で美鈴が合掌し瞑目していた。何かしらの術を施したのだろう。


 唯真は、弛緩した三奈の身体を優しく支え、そっと抱き締めた。


 ワンピースの端から見えている細いふくらはぎは、目に見えて凹凸が現れ変色していた。


 手術が必要なほどの、重度の筋断裂だった。


 肉体が、はるか限界を超えて無理矢理酷使された証拠だった。



「ごめんなさい、私のせいでこんな目に遭って、ごめんなさい……」



 満身創痍の三奈を抱いて、唯真は身を震わせ泣いていた。自責の念に潰されるように、床にへたり込み三奈を胸に抱き込み、泣いていた。



「ごめんね、止めてあげられなくて……全然、役に立てなくて……」



 普段は凛と前を向く唯真の、萎れたように泣く姿を、美鈴は痛々しげに見ていた。


 そして我に返ったように織哉へと振り向く。



「織哉さん、傷の手当てを……」



 織哉は、破れた白い装束の腰の辺りが真っ赤に染まっていた。思ったよりも傷が深かったことに美鈴はぎょっとする。



「織哉さん、何があったの」



 明らかに顔色が悪くなってきた織哉をゆっくり床に座らせ、手近に落ちていたフェイスタオルで止血を始める。



「ちょっと……決着を焦ったんだ。片は付けてきたけど、いきなり消えたから依頼人が驚いていると思う。後で連絡入れてフォローしてくれない?」



「それは任せて。ただでさえ命懸けの退魔行なのに、頼ってしまってごめんなさい。おかげで三奈は命が助かったわ。本当にありがとう」



「いや……これは俺の仕事だからね」



 織哉の目は、泣く唯真の震える背中を見ていた。


 血の気の引いた顔は、普段の彼からは想像できないほど、感情が一切消えていた。



 感情が見えないのに底知れぬ迫力が、整った容貌から醸し出されていた。


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