第一の刺客(3)


 慎ましやかな忘年会の翌日、身辺に気を付けろという高遠の忠告通り、唯真は自宅マンションから一歩も出ずに受験勉強に励んでいた。

 

自宅での唯真は素面だ。実は視力に問題はない。普段かけている黒縁眼鏡は、度の入っていない伊達メガネだった。


 ふと我に返り顔を上げると、デスク上の置き時計は十二時を指そうとしていた。



(しまった。お風呂に入らないと……)



 二晩続けて夜更し決定である。


過ぎた時間は仕方ないと諦め、入浴の前にお茶を飲もうと凝った首を動かしながらキッチンへ向かう。


 唯真の住むマンションは五階建てのオートロック付き物件で、防犯カメラや常駐の管理人も居る、セキュリティに重点を置かれた独身女性向けの物件だった。


 唯真の住まいは三階。今月で、住み始めて丁度一年が経ったところだ。


 ケトルがお湯を沸騰させるのを待ちながら、唯真は対面式のキッチンからリビングをぼんやり眺める。


 暗いリビングは、きちんと閉まっていなかったカーテンの隙間から青白い光が差し込んでいた。月明かりだった。


 フローリングを照らす月の光は、深夜の寒さのせいか、より青みを増して冷たそうに見える。


 このマンションに住んで過ごした一年を思い返しながら、唯真はカーテンからこぼれる月の光を見ていた。


 正直、自分の年齢では浪人はできない。後の無い現状からか、最近はもやもやとした不安感が、いくら勉強しても払しょくできずにいた。


 そこに立て続けに起こった、命に関わるような事故とのニアミスである。正直昨日の飲み会までは、かなり気分が落ち込んでいたのだ。


 だから昨日は、本当に良い気分転換だった。唯真に気を配って会話を盛り上げてくれた二人に心から感謝していた。


 「何かあったらすぐ連絡しろ」と高遠がかけてくれた言葉が、とても心強く、有難かった。



(あの変なナンパ男さえいなきゃね)



 井上のイケメン好きを非難するつもりはないが、唯真は男性の容姿に興味が無い。中身の方が重要だと思っている。


 まるで遠足に来た子供の様に楽しげだった青年の笑顔を思い出し、それに紐付いて高遠の忠告を思い出す。


 唯真は、少し開いていたリビングのカーテンを、隙間無く閉めようと窓に向かった。


 ベランダへのサッシまであと数歩、一メートルの所まで来た時だった。


 壁の大半を占める二枚合わせのサッシから、体に響くような恐ろしい音がした。唯真は体を震わせてその場で固まる。


 立ち止まったまま硬直した唯真へ、布が引き裂かれる音と共に、さっと青白い光がまだらに降り注いだ。


 流れ込んできた冷気に震えるより、見える景色に呆然とする。


 無数のガラス片が、カーテンを引き裂き唯真の前にずらりと『浮いていた』。

 

 

 背後でケトルの湯が沸いた音がした。それは日常だ。


 しかし今目の前では、穴だらけのカーテンが夜風に揺れ、空中にガラスの破片が浮いている。


 繋がった部屋なのに、リビングとキッチンで、まるで世界が違ってしまっていた。


 

 目の前の現象の理由を探ろうと目を凝らすが、何も分からない。ガラスの破片が宙に浮く理由が、まるで分からない。


 宙に浮くガラスの破片が、ズタズタになったカーテンから洩れる月光にきらめいた。


 唯真は動けなかった。距離が近すぎて、自分に向かってきた鋭利なガラス片から身をかわすことができなかった。

 

 けれどガラス片は、唯真の身体三〇センチ程の空中でピタリと止まった。その様子は、まるで見えない壁に刺さったかのようだった。

 

 ガラスが削れる音がする。甲高い、耳障りな、固いガラスが少しずつ擦れ削れる音がする。


 ガラスは、さえぎられなお震えながら唯真に向かってこようとしていた。見えない『何か』を突破しようと、最大限の力で前に進む力が加わり続けていた。


 唯真は身動きができない。声も、上げることができない。氷点下に近い気温の中、こめかみを汗が流れている。 

 

 激しい破裂音に、唯真はとうとう悲鳴をあげた。反射的に両手で頭をかばう。


 唯真に向かってきていたガラス片は唯真を傷つけることは叶わず、微細なくずとなってフローリングの床に撒かれた。


 状況に理解が追い付かず、混乱したまま何とか呼吸を整えようとしていると、また背後で奇妙な音がした。


 それは、軽い爆発音だった。


 髪を振ってオーバーアクションで振り返ると、点火していなかったはずのガスコンロから、見上げる様な炎が立ち上がっていた。


 それはガスの青い炎ではなく、焚き火のような赤い炎だった。



「嘘……」



 思わず呟くほど、見えている光景は現実味がなかった。


 炎は暗い室内を赤く照らしながら、みるみるうちにその丈を伸ばしていく。

 

 炎は大蛇となった。胴回りは電柱ほどもあり、見る間に伸びた炎の体を空中でくねらせる。


 リビングの天井は、大蛇の炎の胴体で埋め尽くされていった。緩慢な動きで、しかし炎の大蛇は確実に唯真に向かってきていた。


 頭となる場所に、赤い炎よりもさらに赤い光が二つ灯った。


 燃えて揺らめく深紅の双眸が、唯真をひたと見据えた。


 本能的に逃げようとする唯真に、炎の大蛇は鞭の様に襲い掛かり一瞬で巻き込んだ。部屋はあちこち炎が燃え移り始めていた。


 しかし唯真の衣服は燃えなかった。


 大蛇の炎の身体はそこまで迫っているのに、三〇センチ程の隙間を空けて炎が到達しないのだ。唯真は炎の熱さも感じない。


 大蛇の体のしならせ具合から、渾身の力で締め上げてきているのが分かる。しかし見えない『何か』が、唯真を護っているようだった。


 けれど、少しずつ、炎が近づいてきていた。


 音もしない、目にも見えない、唯真を護る『何か』は、少しずつ、僅かずつ、押されているようだった。


 それにつれて、身体に熱さを感じ始めた。状況を察して、唯真は震えるような恐怖を感じる。


 『何か』が押し切られたらなら唯真は、生きたまま炎に焼かれるのだ。


 理解不能の状況にどうすることもできず、唯真は徐々に迫って来る炎の大蛇をただ目を見開いて見ていた。見ているしかできなかった。


 体のあちこちに感じ始めた刺すような痛みが何なのか、考えることもできなかった。



「!」



 突如、室内を強い風が吹いた。そして床を踏み込む、鋭い足音がした。部屋に燃え広がる赤い炎が突風に煽られ一瞬消えかける。


 大蛇の首が飛んだ。正確には、胴体から離れて首が床に落ちた。巨大な首は形を失い、ただの炎となってフローリングの床に広がった。


 唯真を取り巻いていた炎の大蛇は、崩れ赤い炎となって床に散った。キッチンもリビングも、嘘のように赤く燃え上がっていた。


 その時唯真の顔の前で、何かが揺れた。赤い火に照らされて宙を舞った物は、紙幣ほどの大きさの、長方形の紙だった。


 何かが書き付けられた白い紙は、端々が黒く焦げていた。煽られながら床に落ちる寸前、それは何故か、茶色に白い模様の入った中型の鳥に見えた。


 鳥は体中が焼け焦げ羽は毟れて、無残な姿だった。まるで何かと戦い、力尽きた様子に見えた。


 けれどその姿は一瞬で消えて、また焦げた紙に戻った。


 そして端々が焦げた紙は床に落ちる前に燃え上がり、灰になって跡形もなく消えてしまった。


 何故か今になって、押し寄せる様に熱波を感じた。


 喉が焼ける様な高温の空気に、唯真は激しくせき込む。うまく呼吸ができず床に膝を付き、何とか呼吸を整えようとする。


 咳き込む合間に、人影が目に入った。片手を体に水平に伸ばし、その手には赤い炎を照り返す、日本刀を持っていた。


 その人物は、手に持つ日本刀を体の前に構えた。次の瞬間、部屋の中はなぎ倒されるような風が吹き抜け、燃える炎を吹き飛ばした。


 唯真の部屋は、数分前までの面影もなく無残に焼け焦げていた。


 先程までの炎の赤い光と入れ替わり、青い月明かりだけが差し込む中、座り込んだ唯真は目の前に立つ青年を、ぜいぜいと喉を鳴らしながら見上げていた。


 何も考えられずただその人物を見ていたら、不意に景色が回った。何が何だか分からなくなった。

 

 体中の刺すような痛み。頭は割れるように痛む。胸の奥が苦しく、気管支自体が締まっていくようだった。


 何重もの唸るような苦しさを感じながら、力の入らない身体はふわふわと宙を浮いているように感じた。


 苦しくて苦しくて、顔に当たっているしっかりとした温かいものに、額を擦り付け紛らわせていた。


 そうしていると少し楽になった。何故か、安心できるような気がした。

 

 濁った鈍重な意識は、そのうちに何も分からなくなった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る