剣なき者たちの詩

黒崎江治

大舞台の演者

炎の色は -1-

 三本の剣から生まれた世界があった。

 誰が剣を創ったのか、誰が剣を投げ入れたのか、それを知る者はいない。

 剣は持ち手を求めた。そして持ち手は現れた。


 ある持ち手は人々を導き、文明を興した。

 ある持ち手は秩序に抗い、文明に戦いを挑んだ。


 幾度かの繁栄があり、幾度かの滅亡があった。

 多くの偉大なものが地中に埋もれ、数多くの素晴らしい物語が忘れ去られた。

 それらはいまも、ふたたび見いだされるのを待っている。

 忌まわしき遺物も、封じられた恐怖も、同じく見いだされるのを待っている。


〈大破局〉ディアボリック・トライアンフから三百年が経った。


 第一の剣ルミエルに連なる人族は、ゆっくりと復興の道を歩んでいる。

 第二の剣イグニスに連なる蛮族は、虎視眈々と覇権を狙っている。

 第三の剣カルディアはすでに壊れ、マナとなって遍在している。


 現代より先にわだかまるのは、神々さえも見通せない無明の霧。

 進む者の行く手を照らすことができるのは、折れることのない勇気だけ。



       ◇ ◇ ◇



 アルジェは痛む脚をさすってから、しばらく俯けていた顔をあげた。


 ディガット山脈の麓にある故郷を発ってから三日。ひとつ目の街を通り過ぎ、そろそろふたつ目の街に辿り着こうかというところだ。あたりに広がる田園の先には、石造りの建物群が見える。


「げほっ、げほっ」


 アルジェは身体を深く折り曲げ、激しく咳込んだ。そろそろ疲労が限界を迎えつつある。これほど遠くまでやってきたのは、生まれてはじめてのことだった。おまけに気持ちが急いているせいで、ここ三日でろくな休息を取っていない。幼少のころからひ弱な体質で、無理をすると咳が出る。それでもここ数年は、かなりましになってきたのだが。


 もちろん、アルジェも好きで無理をしているわけではない。しかし、いまは理由を思い返している暇も惜しかった。時間が経てば経つだけ、捜し人は遠ざかってしまう。


 アルジェがふたたび顔をあげてあたりを見回したとき、少し離れた場所にある一軒の建物が目を引いた。酒場であることを示す小さな看板が、軒先で風に揺れている。


 まだ午前の早い時間だから、客はあまり入っていないだろう。しかし亭主ぐらいはいるはずだ。捜し人がここを訪れたかもしれないし、なにか心当たりを教えてくれるかもしれない。手持ちの食料が底を尽きつつあるので、可能ならば補給もしよう。


 アルジェはふらふらと歩いていって、酒場の扉を叩こうとし、それも妙かと思い直してから、扉に手をかけた。


 煮えた豆のにおいが漂ってくる。質素な店内にはカウンターのほか、テーブルが五つばかりあった。地元民も旅人も使う、酒場兼食堂といったところか。


「いらっしゃい」


 禿げた年嵩の亭主が低い声で言った。彼のほかには、客がふたりだけだ。


「どうしたね。そんなに慌てて」


「人を捜しているんです」


 カウンターに歩み寄りながら、アルジェは言った。


「どんな人だい」


「エルフの女性です。赤い髪をしてて、目はちょっと眠たげで。コロロという名前です。ここに来ていませんか」


「少なくともここ何日かは見てないね。エルフはここじゃ珍しいから、見たら忘れないよ。しかし、リカントがエルフを捜してるなんて、なにかワケありかい」


 店主はアルジェの種族に言及しながら、目を好奇心で光らせた。


 リカントはアルフレイム大陸に古くから住んでいる種族の呼び名だ。多数派である人間との差異は、毛の生えた耳と長い尻尾。もっとも顕著な個性は、必要に応じて上半身を獣の姿に変化させられる、というものだ。かつてはそれが原因で蛮族と混同され、迫害された歴史もある。


 とはいえ、現代では差別されているということもないし、少数派というわけでもない。昨日訪れた街も、住民の半分近くがリカントだった。このあたりの地域まで来ると、また少し事情が違うようだが。


 エルフもまた種族のひとつだ。先端の尖った耳と優美な容貌を持ち、人間やリカントに比べるとやや華奢な体格をしている。もっとも、アルジェが知っているエルフはひとりだけなので、これは聞きかじった知識に過ぎない。


「訳はあるんですが、説明してる時間はありません。本当に知らないんですか」


 アルジェは言った。


「知らないよ。あんた、よく見りゃまだ若いじゃないか。それに相当疲れてる。少し休んでいっちゃどうだね。スープもあるよ」


「急いでいるんです。なにか食料を売ってくれませんか。歩きながら食べられるものを」


「朝焼いたパンならあるがね。それでもいいかい?」


「充分です。ありがとう」


 アルジェはふっかりと大きなパン三つを受け取り、布袋に詰め込んでから、店内にいる客のひとりに目をつけた。大柄な男で、何日か旅をしてきた人間のように見える。少々ガラが悪そうで、普段のアルジェなら、間違っても話しかけたりはしない。それでも、いまは事情が事情だ。


「すみません。あなたはどこから来たんですか。ラージャハですか。エルフの女性とすれ違いませんでしたか」


 アルジェは男に近づきながら言った。


 コロロらしき人物が北方のラージャハに向かったのならば、途上に広がる大きな砂漠を越えなければならない。しかしたとえ蛮族領を通過する必要があったとしても、アルジェに捜索を諦めるつもりはなかった。


「俺がどこから来たか、お前には関係ない。話すつもりもない」


 大柄な男は凄みのある声で言った。その態度と、嗅ぎ慣れない彼の体臭に、アルジェはたじろいだ。よく見れば男は食事している風でもない。なにか不自然だ。


「用が済んだらどこかへ行け」


 幸い、男はアルジェに危害を加えるつもりはないようだった。少なくとも、いまのところは。


 ここでやめておくか、それとも食いさがってみるか。葛藤するアルジェが口をぱくぱくさせていると、背後から肩に触れられた。


 はっとして振り返ってみれば、もうひとりの方の客だった。地元住民らしい、野良着姿の老人だ。


「君が捜しているのは、もしかしたら私の知っている人かもしれないよ」


「本当ですか!」


 アルジェは老人に食いついた。彼からもまた嗅ぎ慣れないにおいを感じたが、そんなことはどうでもよかった。


「コロロ先生はどこに?」


「急ぐことはない。彼女にも事情があるようだった。少し込み入った話になるから、私の家で茶でも飲んでいきなさい」


 老人は親切そうな笑みを浮かべて言った。


 村を出てから三日ではじめて掴んだ手がかり。安堵のあまり目に涙を浮かべながら、アルジェは老人に従って酒場を出た。


「君はどこから来たのかね」


「サフラ村です。ここから東に三日ぐらい……。ディガットの麓あたりです」


「そこにご両親が?」


「はい。実は僕、村からほとんど出たことがなくて。こんなに遠くまで来たのははじめてです」


「街に知りあいはいるかね?」


「いいえ。だからすごく不安で。あの……親切にどうもありがとうございます」


 歩きながら、老人はさまざまな質問をした。口調は柔和で、いかにも好々爺といった風だったので、あまり社交的でない性格のアルジェも、ほとんど臆せずに話すことができた。しかしコロロについて尋ねようとするたび、老人は話をはぐらかし、家についたら教えるから、と繰り返した。


 気づけば、ふたりは街の外れにある森の入口までやってきていた。


「もしかして、狩人をしているんですか? 家はもっと奥なのかな」


「いや、もうこのあたりだね」


 老人は言った。しかし、周囲に家らしきものはない。


 もしかすると、木の上に小屋でも造っているのだろうか。そう思ったアルジェがあたりを見回していると、視界の端で、老人がさっと動いたのが分かった。


 直後、後頭部に激しい痛みと衝撃を受け、アルジェはよろめく。


「あっ、ぐっ……」


 目の中で光が明滅し、前後不覚に陥る。地面に膝をついたところで、さらに顎への衝撃。麻痺に似た感覚が全身を這いまわり、顔面から倒れ込む。


 攻撃されたのだ、ということは分かった。しかし、それ以上考えることはできなかった。アルジェは舌に土と血の味を感じながら、深い闇の中に墜落していった。


       *


 ひどく不安定な姿勢のまま、全身が揺さぶられているのを感じる。


 多分、肩に担がれているのだろう。丸太か穀物袋にでもなったような気分だ。


 後頭部と顎が痛い。そういえば、さっき殴られたんだっけ。


 誰に? どうして?


 考えるうち、意識が徐々にはっきりしてきた。重いまぶたをゆっくりと開けて、状況を把握しようと試みる。


 まず目に飛び込んできたのは、赤色をした筋骨隆々の背中。


「おや、気がついたかね?」


 アルジェの尻のあたりで、老人の声が言った。しかし同じ口から次に出てきたのは、二メートルはあろうかという体格に見あった、野太い笑い声だった。


 ことここに至り、アルジェはいま置かれている状況を悟った。


 蛮族だ。自分は蛮族に捕まっている。


 あの老人が手引きした? いや、あの老人が蛮族に化けていたのだ。捜し人に心当たりがあるなどというのは、まったくの嘘だった。辺境の村からのこのこ出てきた若者を騙し、連れ去り、喰らうために声をかけてきたのだ。


 人に化ける蛮族といえば――


 アルジェは全身の毛が逆立ち、尻尾が強張るのを感じた。


 オーガだ。オーガに違いない。人族の心臓を口にすることで、その姿を奪う悪鬼。


「おとなしくしてろよ」


 オーガは言った。


「そうすりゃ、少しは長く生きられる」


 たとえ暴れたところで、オーガの太い腕が胴体に巻かれている現状、貧弱なアルジェではどうしようもない。


 思い切って、魔法を使ってみるべきか。


 捜し人のコロロは魔術師だ。アルジェも彼女の手ほどきをうけて、基本的な魔法を習得している。稲妻ライトニング火球ファイアーボールは無理としても、逃げ出す隙を作ることぐらいは……。


 いや、不可能だ、とアルジェは思い直した。魔法を行使するためには、空中に魔法文字を書かなければならない。呪文の詠唱も必要だ。そんなことをすれば、オーガはすぐアルジェの意図に気づくだろう。腕を折られるか、喉を潰されるのに、おそらく二秒もかからない。


 では、どうすれば? 


 アルジェが考えあぐねているうち、オーガは薄暗い森の中をどんどん進んでいく。


 自分がどれほど気絶していたのかは分からない。オーガがどこへ向かっているのかも分からない。しかし、街から遠ざかっているのは確実だ。たとえ殺される覚悟で声をあげたとして、きっと誰にも気づいてはもらえないだろう。


 間近に迫った死が、徐々に具体的な輪郭を結びはじめる。


 ふと、オーガが歩みを緩めた。あたりがさっと暗くなり、冷えた空気が肌を撫でる。わずかに湿った苔のにおいもした。洞窟に入ったのだ。


 直後、オーガが乱暴な手つきでアルジェを放り出す。


 仰向けの状態で地面に叩きつけられ、掠れた呻き声をあげたアルジェの胸に、オーガはどすんと足を落とした。抵抗する意志ごと押し潰すように、ぐいぐいと踏みつけられる。


 理不尽な苦痛に呻きつつ、アルジェはオーガの顔を見あげた。その面相はかつて本の挿絵で目にしたものと同じく、獰猛で、悪辣で、いかにも無慈悲だった。嗜虐に吊りあげられた口角からは、歯垢まみれの長い牙が覗いていた。


 そしてもっと悪いことに、アルジェを運んできたのとは別のオーガが二体、洞窟の闇からのっそりと姿を現した。合流した三体は耳慣れない言葉で短くやりとりし、揃って下品な笑い声をあげた。誰がアルジェの心臓を食べるか、殺す前にどうやって愉しむか、そういったことを話したのかもしれない。


 アルジェの胸から足がおろされ、多少は身体の自由が利くようになった。しかし、それがいまさらなんだというのだろう? 三体のオーガを相手にして、いったいどれほどの抵抗ができるというのか?


 怯えた表情をじっくり味わおうとするかのように、三体のオーガはアルジェを覗き込んだ。一体の口からぼたりと涎が垂れる。涎を腹で受けたアルジェは、その生温さに身震いした。


 ああ、いよいよ自分は喰われるのだ――


 そのとき、洞窟の入口に背を向けていたオーガがいきなり前につんのめり、仲間の腹に頭から突っ込んだ。


「立て! こっちに来い!」


 洞窟の外から、誰かの力強い声がした。オーガの言葉ではなかった。


 すべてを諦めつつあったアルジェの身体の中を、熱いものが駆け巡った。旅の疲労も、オーガから受けた傷の痛みも忘れた。アルジェは自分でも驚くほど敏捷に身を起こし、狼のように四つ足で駆け出して、オーガたちの間をすり抜けた。


 洞窟の外にいた誰かは、なんらかの手段でオーガたちに不意打ちを喰らわせたのだ。でなければ、すぐに太い腕がアルジェの襟首に伸びて、逃走を阻止しただろう。


 アルジェは走った。そして洞窟の入口で四つ足をやめ、よろめきながら顔をあげた。目の前には、自分を窮地から救ってくれた人物が立っていた。


 それは、酒場にいたあの大柄で不愛想な男だった。黒い髪。褐色の肌。表情は硬質だが、敵意は感じられない。


「蛮族どもは何匹いる?」


 男は尋ねた。


「さ、さ、三匹」


「分が悪いな。逃げるぞ」


 言うが早いが、男は踵を返して走り出した。彼の左手には、黒い刃を持つ簡素な手斧ハンドアックスが握られていた。


 ここで置いてけぼりにされてはたまらない。アルジェは男の背中を追って、ふたたび走りはじめた。


       *


 洞窟から逃れた直後、アルジェは興奮状態にあった。このまま何キロでも走って、オーガたちを撒くことができる気になっていた。しかし実際は、少し走っただけで脚がもつれはじめた。


 アルジェは平均的なリカントよりも貧弱だ。いまは蓄積した疲労やダメージもある。脚がもつれはじめると、走りは目に見えて遅くなり、怒声をあげながら追いすがるオーガたちに、みるみる距離を詰められた。


 手斧を持った男は、いまやアルジェよりずっと先にいた。それでも、本気で走っているわけではないようだった。彼は途中で二、三度アルジェを振り返り、そのたびに煩わしそうな顔をしながら、少しばかりスピードを緩めた。


 それなりの距離を走ったあとでも、男は大して疲労していないように見えたが、あるところで突然立ちどまった。アルジェは彼に追いついて、ぜいぜいと喉を鳴らしながら、オーガがもうすぐそこまで来ている、と警告した。


「まずいな」


 男は言った。


「方角を間違えた」


「えっ?」


「こっちだ。来い」


 来い、と言われた方角が正しいのかどうかは分からない。とはいえ、まとまっていた方が生き残りやすいのは確かだ。どうしてそんなに冷静なんだ、と心の中で愚痴りつつ、アルジェは男に先導されるまま、残りわずかな体力を振り絞った。


 方角を変えてまた数百メートル走ったとき、アルジェは前方から流れてくる空気に、水のにおいが混じっていることに気がついた。


 池か、それとも小川か。もし急流や滝だったら、引き返す前に追い詰められてしまうだろう。オーガたちが揃ってカナヅチならいいが、そんな幸運は期待すべきでない。


 アルジェがあれこれ考えているうちに、先の景色がぱっと開けた。


 そこは予期された通り水場だった。透明な水が滾々と湧き出る、小さな泉だった。


 幸いにして、迂回することは難しくなさそうだ。しかしアルジェはそこで、思いがけないものを目にした。

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