咎人が見た月 -3-
毛布の中で身じろぎしたアルジェは、打撲と筋肉痛が随分とよくなっていることに気がついた。
バナフサージュに近接戦の稽古をつけられ、フラフラになったのが三日前のこと。彼女はつい調子に乗りすぎたと謝り、治療を申し出たが、アルジェにもアルジェなりの意地があった。少し寝ていれば平気だと嘯き、のちにそれを後悔しつつも、今日まで自然の治癒力に任せていたのだった。
バナフサージュは呆れているかもしれないが、若気の至りということで許してもらおう。若干の反省とともに、アルジェは起きあがる。
隣のベッドを見ると、すでに空だった。
ここ二、三日の間、ムーンはいつになく早起きだ。ジハーグ派の密偵を気にしているせいか、昼間もピリピリしているように見える。そのせいで、アルジェもなんとなく居心地が悪い。
アルジェは、ムーンに辛い気持ちでいて欲しくないと思っている。かつて奴隷の境遇にあったという彼は、もう充分に辛いことを経験してきたはずだ。村を出たアルジェの生活が一変したように、ムーンの生活もよい方向に変わって欲しい。その助けとなるならば、どんな協力も惜しむつもりはない。
さしあたり、なにか楽しいことにでも誘ってみようか。評判の料理店であるとか、観劇であるとか。手ごろな依頼があるならば、それでもいい。
アルジェは今日の予定に思いを巡らせながら、酒場へとおりていった。朝の掃除をしているレッチェンと挨拶を交わし、お茶を飲んでいるバナフサージュと合流する。ムーンの姿はない。
「私が起きたときには、もういませんでしたよ」
「そんなに早くから?」
「遊び回る方でもないですし、昼時には帰ってくるでしょう。なにか用でも?」
「いや、ここしばらくむっつりしているから、一緒に気分転換でもと思って……」
最近のムーンについてふたりで話していたとき、酒場の扉が勢いよく開き、ひどく怯えた様子の少女が駆け込んできた。
「どうかしましたか?」
バナフサージュが席を立ち、落ち着いた声音で問いかけると、少女は目から涙を零し、激しくしゃくりあげながら、手に持った小袋を差し出した。
「ごめんなさい、わたし――」
アルジェとバナフサージュはひとまず少女を落ち着かせ、カウンターの前に座らせる。レッチェンが温かい飲み物を用意する間、事情を聞いてみることにした。
少女はカルナと名乗った。数年前に両親を亡くしてからは身寄りもなく、普段は〈砂漠の真珠亭〉から少し離れた場所にある倉庫街で働き、日々のパン代を稼いでいた。
きっかけは一週間ほど前のことだ。カルナがいつものように雑用をこなしていたとき、ラージャハからやってきたという商人に声をかけられた。より正確には、商人の用心棒に。彼は人間でありながら、リルドラケンにも劣らない筋骨隆々の巨漢で、剃りあげた禿頭と腰に帯びた曲刀が、いかにも恐ろしげだった。
巨漢はカルナに対して、〈砂漠の真珠亭〉でムーンと名乗るルーンフォークを、うまく倉庫街の近くまで連れてきて欲しい、と言った。そのルーンフォークは主人を裏切った悪者で、ぜひとも懲らしめてやる必要があるから、と。
巨漢はカルナの雇い主と懇意のようだったし、なにをするか分からないような雰囲気があったので、首を横に振ることはできなかった。
カルナは何日か、〈砂漠の真珠亭〉近くで様子を窺っていた。そして今日の早朝、巨漢に命じられて偵察をしていたところ、裏手で鍛錬をしているムーンらしき人物を見かけた。どうしようかと考えあぐねているうち、相手に気づかれたので、カルナは咄嗟に倉庫街の方向へ逃げ出した。
ムーンはすぐに追いついてきたが、同じ場所には巨漢と手下たちが待ち構えていた。カルナの目の前で、ひどい暴力沙汰が起こった。それを目にしたとき、カルナは震えあがると同時に、本当の悪者はどちらだったのかを直感した。
「追いかけられてるときは怖かったけど、ムーンって人は、私を慰めようとしてくれたの。でも、あの男は……」
「なんてこと」
バナフサージュは眉をひそめ、それでも努めて冷静な声音で、カルナに尋ねた。
「カルナ、カルナ。その男について、知っていることを教えてください。どんな些細なことでも構いませんから。ムーンは私たちの友人なのです」
カルナ曰く、巨漢の名前はガーニム。彼が所属する隊商の大部分は、昨日すでにマカジャハットを離れ、ラージャハへと発った。わざわざムーンを捕らえるために残ったガーニムたちは、急ぎ本隊へと合流すべく、旅の準備を済ませたという。カルナはその手伝いをさせられていたために、〈砂漠の真珠亭〉に来るのが遅れてしまったのだ。
「すぐに追わないと……!」
アルジェは矢も楯もたまらず、椅子から立ちあがった。ラージャハから来た禿頭の巨漢、ガーニム。これだけ分かれば充分だ。早くしなければ、ムーンが連れ去られてしまう!
「アルジェ、待ちなさい!」
バナフサージュの制止も聞かず、アルジェは〈砂漠の真珠亭〉を飛び出した。石畳の通りを駆け、ラージャハへ向かう者が必ずくぐるであろう、東の大門を目指す。道行く人々は、朝から必死の形相で走るリカントの少年に奇異の目を向けたが、いまのアルジェに体裁を繕う余裕などなかった。
門前の広場は、郊外から荷を運んできた農夫たちや、これから目的地への移動をはじめようという商人たち、彼らを相手に品物を売る者たちで、大層混雑していた。アルジェは群衆の中にガーニムやムーンの姿がないかと探しながら、門を守る兵士のひとりに歩み寄り、咳と苦しい呼吸の合間に、捜し人たちの特徴を説明した。
「ガーニム? ああ……」
尋ねられた兵士は、訳知り顔で同僚と目配せをしてから、開け放たれた門の外側、伸びる街道の先を見遣る。
「ついさっき、ここを通ったよ」
「その男に、僕の友達が攫われたんです!」
アルジェは切実な調子で訴えたが、兵士たちの反応は芳しくなかった。
「門から出られちゃ、俺らではどうしようもないね。それに、君……悪いことは言わないから、あいつらにつっかかるのは辞めておいた方がいい」
彼らはガーニムとその雇い主を恐れているか、あるいは賄賂を受け取って、犯罪行為にお目こぼしをしたのだろう。そのことに思い至ったアルジェは怒りに駆られたが、兵士たちと諍いを起こしたところで、ムーンに追いつくのが難しくなるだけだと、辛うじて自分を抑え込んだ。
「なら、もういいです。あなたたちには、頼りません」
とぼけたような顔の兵士たちを捨て置き、大門から出ようとしたところで、アルジェは後ろから手首を掴まれた。名前を呼ばれ、振り返る。
「どこへ行くつもりです?」
バナフサージュだった。彼女もまた走ってきたのか、ぜいぜいと息を切らせている。
「ガーニムを追いかけるんだ。ついさっき、門を出たみたいだから」
「旅の用意も、馬もなしで? いったん落ち着きなさい、アルジェ。無闇に行動しても、結果はついてきませんよ」
「でも――」
「走って追いついて、武装した三人を相手に立ち回って、重傷のムーンを連れながら、徒歩で逃げおおせるつもりですか? ダメです。あなたまで捕まるか、悪くすれば死ぬことになりますよ。いま、レッチェンに頼んで、装備と物資と移動手段を用意してもらっています。冷静になって、一時間だけ待ちなさい。いいですね。それくらいの遅れなら、次の宿場までに充分取り戻せます」
意志力のこもった瞳で見据えられ、アルジェは多少の理性を取り戻した。同時に、恥ずかしさと情けなさが込みあげてくる。
「ごめんよ、ナフィ。僕……」
「いいんです、いいんです。こんなことになったら、慌てるのは仕方ありません。しっかりと準備をしてから、私たちの友人を奪い返しにいきましょう」
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