咎人が見た月 -4-

 朝方の混雑はいくらか和らいだものの、門前の広場は相変わらず賑やかだ。これだけ多くの人がいたというのに、誰ひとりガーニムたちを見咎め、ムーンに手を貸すことはなかった。アルジェが焦燥と腹立たしさを抑えながら待っていると、やがて駱駝を三頭連れたレッチェンが姿を現した。


「カルナにまた少し話を聞きましたが、ガーニムの雇い主は、あのティップ・ティンだそうですね」


 彼女は駱駝を座らせながら、周囲に遠慮するかのように、声を低くして言った。


「サップ・ティンとティップ・ティンの兄弟といえば、ラージャハでも有数の豪商です。ただ評判は……到底よいとは言えないですね。彼らは奴隷の売買で財を築きましたが、そのやり方はかなり強引であくどいとか」


「ムーンが以前に奴隷だったというのは、その兄弟の……」


 バナフサージュが言った。


「多分、そうでしょう。厄介な相手ですよ」


「ラージャハでは堂々と人族を売り買いしてるの?」


 アルジェは尋ねた。サフラ村にも近隣の町にも、奴隷はいなかった。マカジャハットにもそのような制度はない。ムーンがかつて奴隷だったということは前々から聞いていたが、どのような経緯でそうなったか、生活の実態がどういうものであったかは、想像することしかできない。


「奴隷の身分を定める法律はだいぶ昔に廃止されたらしいですが、事実としては厳然と存在してます。天災で畑を失った農民とか、寡婦とか、孤児とかが、自分で身売りをすることが多いみたいですね。蛮族領から逃げてきたコボルドなんかは、ほとんどが奴隷として売買されて主人を見つけます。


 もちろんよいものではないんですが、悪いことばかりでもないんですよね。ラージャハってほかの国に比べて殺伐としたところがあって、どこにも所属していない弱者は、すぐ食い物にされちゃうんです。その点、奴隷であれば、主人の庇護を受けることができる。優しい主人なら、奴隷の健康とか、教育とかにも気を配るし、結婚の面倒を見ることもあるんですよ。ただ……」


「ティップ・ティンは違うだろう、と」


 バナフサージュが言葉を引き取ると、レッチェンは苦い表情で頷いた。


「ありがとう、レッチェン。僕たちはもう行くよ。できるだけ早く戻るから、心配しないで待ってて」


「いえ、私も行きます。ベイグルさんに許可は取りました。荒事は不向きですけど、昔はラージャハに住んでましたし、マカジャハットまでの往復も何度かやりましたから、案内ぐらいはできると思います」


「でも、危ないかもしれないよ」


「前にもちょこっと言いましたが……、みなさんが来る前って、〈砂漠の真珠亭〉に所属する冒険者はゼロだったんです。だからね、私、みなさんが冒険者になってくれたとき、本当に嬉しかったんですよ。それに、私は調理と給仕が専門ですけど、一応ギルドの職員なんです。冒険者が連れ去られたってなれば、そりゃあ、力にならなきゃいけないでしょう。ですからほら、ガッと行ってバッと済ませて、またみんなでご飯食べましょうよ。ね?」


「……そうだね。絶対にそうしよう」


 アルジェはレッチェンに頷いてみせると、小柄な彼女が騎乗するのを手伝った。そして自らも駱駝にまたがり、手綱を握って、声高く出発の号令をかけた。


       *


 マカジャハットからラージャハまでは、馬や駱駝でおよそ三日を要する。もっとも安全なのは、一日かけて東のジニアスタへ行き、進路を北に変えて二日進むという経路ルートだ。


 しかし今回はレッチェン案内のもと、ジニアスタを経由しない街道を選ぶことにした。ラージャハまでの行程で言えば、半日分の短縮になる。先発した本隊に追いつこうというガーニムも、同じ経路ルートを進んでいる可能性が高い。


 レッチェンが借りてきた駱駝は――多少においは気になったが――よく訓練されていて、騎乗の経験がほとんどないアルジェにも、問題なく御することができた。市街の周辺に広がる農業地帯を足早に通り抜け、丈の低い草が生える平原を進むこと半日あまり。風景は段々と寂しく、荒れたものになっていく。陽が傾くころまで駱駝を走らせると、あたりは赤茶けた岩や礫が転がる荒地となった。


「このあたりはもう、カスロットの辺縁ですねえ」


 レッチェンが遠く前方に目を凝らしながら説明する。


〈歪みの砂漠〉カスロット。ラージャハの周辺に広がるこの広大な領域は、昼の灼熱と夜の酷寒、頻発する蜃気楼、巨大な蛇や砂虫サンドウォームなどの脅威から、交易路上の難所とされている。しかしとりわけ危険で不吉とされているものは別にあり――


「あ! もう隊商宿サライが見えてきましたよ」


 アルジェが街道の先を見遣ると、乾いた大地の上、砦にも似た造りの建物が、斜陽に染まった輪郭を浮かびあがらせていた。


「ガーニムたちがあの場所で休んでいるなら都合がいいんですが……あまり期待すべきではないでしょうね。狭い隊商宿サライの中でムーンが見つかれば騒ぎになりますし、本隊と合流するつもりなら、野営覚悟で先を急ぐはず」


 バナフサージュが言った。


「なら、僕たちもそうしよう。進めるうちに、少しでも距離を稼がないと」


 慣れない騎乗で手も尻も内股も痛かったが、アルジェは弱音を吐く気になどなれなかった。ムーンはいまごろ、この何倍も苦しい思いをしているはずだ。


 とはいえ、さすがに休息と補給は必要だろうということになり、一行はほんの束の間、隊商宿サライを利用することにした。


 駱駝からおり、手綱を引いて拱門アーチをくぐると、そこは広い庭となっていた。宿といっても、大層な施設ではない。中央には大きな棕櫚が一本と、滑車つきの井戸。あとは敷地を囲む壁に沿って、いくつかの小部屋や繋ぎ場があるだけだ。


 棕櫚の根元では、白い頭巾ターバンを被った冒険者風の男が座り込み、革袋からぶどう酒かなにかを飲んでいた。一行が近づくと、彼は機嫌よく挨拶を寄越し、シャープールの隊商宿サライへようこそ、と言った。


「どうもご丁寧に。見たところ、ラージャハの方ですね」


 バナフサージュが如才なく応じる。


「ときに、ハゲ頭の大男を見ていませんか。手下をふたりと、負傷者をひとり連れているはずです」


「ついさっきまでここにいたよ。ありゃ、ティン兄弟のところのガーニムだろ。できれば関わりあいにならん方がいいぞ」


「そういうわけにもいきません。私たちの友人が攫われて……ムーンという名のルーンフォークなんですが」


「……その友人とやらも、追わない方がいいかもしれんね」


 少しの沈黙を挟んで、男は言った。


「なぜです? ティップ・ティンを敵に回すから?」


「いや、違う。俺も端で聞いてただけだが、ガーニムたちがあんたらのご友人を連れてたのは、確かなようだ。ただ、この隊商宿サライに着く直前で、そいつはうまいこと脱出したらしい。ガーニムたちはもちろんそれを追ったが、途中で諦めた。あんたらのご友人が、奈落の魔域シャロウアビスに逃げ込んだからだ」


奈落の魔域シャロウアビス!」


 バナフサージュが声をあげる。


 この地よりさらに北方、アルフレイム大陸の果てには、魔法文明デュランディルの末期に空いた異界への穴、奈落アビスと呼ばれる領域がある。


 奈落アビスが吐き出すおぞましい姿の魔神たちは、過去数千年に渡り、蛮族と並ぶ人族にとっての脅威であり続けた。古代の魔法王たちによって築かれた長大な壁や、そこに詰める強壮な守人たちをもってしても、奈落アビスへの備えは完璧でない。


 問題を厄介なものにしているのは、奈落アビスからの距離に関わらず出現する奈落の魔域シャロウアビスの存在だ。


 アルジェが育ったサフラ村の周辺でも、ほんのときおり、奈落の魔域シャロウアビスの出現が報告された。森の奥、あるいは山の斜面に姿を見せる暗黒の球体。可能な限り早く破壊しなければ、それは段々と大きく成長していってしまう。


 奈落の魔域シャロウアビスを破壊するのは、兵士や冒険者の役割だ。しかし、その任を負って内部へ入って行った者が、必ずしも帰ってこられるとは限らない。


「ここから二百メートルも離れちゃいない場所だ。たったいま、詰めてた兵士がマカジャハットへ報告に行った。二日もすれば冒険者が来る」


「そんなに待ってられない」


 アルジェは言った。


「ムーンは怪我をしてるんだ。奈落の魔域シャロウアビスのことはよく知らないけど、中には魔神が出るんでしょう?」


「出るかもしれないし、出ないかもしれない。奈落の魔域シャロウアビスはとにかく得体が知れない。俺は何年の前に、一度だけ仕事で入ったことがあるがね……」


 そこまで言ってから、男は口をつぐんでかぶりを振った。


「行こう、バナフサージュ」


奈落の魔域シャロウアビスへ入るんですね? アルジェ」


「もちろんだ」


「いいでしょう。私もはじめての経験ですが……。まあ、ティップ・ティンの隊商を襲うよりはましかもしれません。レッチェンは、この隊商宿サライで待っていてください」


「でも――」


 身体の前で両手を握りあわせ、ほんのわずかうつむくレッチェンに、バナフサージュは優しく声をかける。


「ここまでの案内、本当に助かりました。もし私たちがすぐに戻らなければ、マカジャハットからの冒険者に経緯を伝えてください。万が一のとき、見つけ出してもらえるように」


「……分かりました。どうかお気をつけて。私、待ってますから」


 レッチェンは顔をあげ、背すじを伸ばし、きっぱりとした口調で言った。


 男に奈落の魔域シャロウアビスがある方向を教えてもらい、門のすぐ外から確認してみる。


 すると隊商宿サライの西、闇を煮詰めたような色の真円が、地面にぽっかりと口を開けているのが見えた。地中の浅い場所で生じた奈落の魔域シャロウアビスが成長し、ここ数時間のうちに顔を出したのだろう。


 直径は三メートルほど。バナフサージュと近くに寄り、覗き込む。しかし盲目になったような気がするだけで、中になにがあるのか、推測することすらできない。


 こんな場所に飛び込まなければならないほど、ムーンは追い詰められていたのだ。彼の窮状に思いを馳せることで、アルジェは暗黒に吸い取られそうになる勇気を、辛うじて心に繋ぎとめた。


「行きましょうか」


「うん」


 そして傷ついた友を救うため、バナフサージュと手を取りあい、深さも広さも知れない魔域に、決然と身を躍らせた。

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