咎人が見た月 -5-
もっとも古い記憶は、殺風景な小部屋の寝台に横たわる自分と、その顔を覗き込むふたりの男。
ひとりは
もうひとりは、こけた頬を豊かな髭で隠した、中年の人間。こちらは、自分の半生に極めて大きな影響を及ぼした、因縁の相手だ。
「
髭面の男は言った。いやに掠れた、耳障りな声だった。
「死んだときのことを覚えているか?」
「いいや……」
口を開いてはじめて、喉がひどく渇いていることに気づいた。
「自分の名前はどうだ。故郷のことは?」
「なにも……。なにも思い出せない」
寝台から身を起こし、傍らの水差しから水を飲む。必死に記憶を手探りしても、指先に触れるのは色のない砂だけだった。会話の断片ひとつ、景色の切れ端ひとつ見つからない。
「お前は多分、ジェネレーターから出てきて間もないんだろう。ルーンフォークという種族は、死ぬと一定期間の記憶を失う。その分、人間やリカントやドワーフと違って、蘇生による穢れを心配しなくてもいい……」
「俺は死んだのか」
「さっきからそう言っている。蘇生されたのが気に食わないなら、首を切るためのナイフぐらいは貸してやる。だがその前に、費用を弁済しろ。
「いくらだ?」
「三万ガメルだ」
「そんな大金は払えない。どこかに仕事か財産があったとしても、なにぶん記憶が――」
「分かっている。いますぐ払えと言っているわけではない。三万ガメルの返済が終わるまでは、ここで暮らすがいい。仕事の面倒も見てやろう。暮らし方も、言葉遣いもな……」
髭面の男は、どこか満足気だった。彼は操霊術師を伴い、部屋を出ていこうとして、戸口で振り返った。
「お前は今日から、オルサと名乗れ」
「オルサ?」
「呼び名がないのは不便だろう。いいな、お前はオルサだ」
髭面の男と操霊術師が去ったあと、しばらく途方に暮れていると、部屋にひとりの老婆が入ってきた。彼女はある程度事情を承知しているようで、いまいる場所や今後の生活について説明してくれた。
ここはどうやら、ラージャハ市街の西にある、サップ・ティンという豪商の館らしい。老婆曰く、館にはさまざまな仕事があるものの、大抵の者――特に健康な男――は、まず人足として働くことになる、とのことだった。
老婆に部屋から連れ出され、広い館の中を案内される。白大理石や
案内の最後は、居室として割り当てられた狭い部屋。そこはすでに三人が使っており、壁一枚隔てた隣は駱駝の繋ぎ場だった。ここだお前の居室だ、と老婆は言った。
こうして、サップ・ティンの館での生活がはじまった。
もし、オルサが世間というものをよく知っていたなら、自分の待遇に疑問を持ち、もっと利口な立ち回りを思いついただろう。
しかし現状、オルサは内容のない本だった。かつて記されていた短い物語は、輪廻に逆らった代償として、黒く塗り潰されてしまった。そして今日、サップ・ティンが新しい文字を書き込んだ。以降の物語は、これに従わなければならなくなった。
館での生活は過酷だった。大抵の場合、オルサを含む住み込みの人足たちは未明に起こされ、隊商の駱駝に荷を積む作業に従事した。
ひと仕事を終えてからようやくありつける朝食は、到底疲労に見あうものではなかった。大麦の粥が椀に一杯。あとは付けあわせとして、
サップ・ティンの館に付随する大きな倉庫は、種々の商品で常に満杯だった。その場で取引されたり、あるいはどこかへ卸されたりするものの中には、決して少なくない割合で、人族や生きたコボルドも含まれていた。
それらの商品を必要な場所に移動させるのが、人足たちの日中の仕事だった。夕刻、ラージャハに到着した隊商の荷をおろし、倉庫まで運び終えるまで、ほとんど休憩らしい休憩もなかった。
そのような環境にあっても、オルサは不平を口にしなかった。いつも他の者より多くの荷を運び、病人や怪我人が出たときは、進んで仕事を代わってやった。
しかし勤勉と献身によって得られる賞賛や敬意は、同じ立場にある者から受ける、ほんのささやかなものに限られた。特別な技能を持たず、腰布だけの姿で働くことも多い人足は、より高級、あるいは専門的な仕事をこなす者たちから、侮りの目で見られることが多かった。
館でもっとも横暴に振舞っていたのは、サップ・ティンの私兵たちだ。彼らは隊商の護衛や館の警備、規律違反者の制裁などを担う、無慈悲な男たちだった。その中でも特に屈強で、残酷な性質のガーニムという巨漢は、誰からも恐れられていた。
オルサが館で働きはじめてから半年経ったころ、少年の人足が荷を破損してしまったことがあった。偶然近くにいたガーニムがそれを見つけ、平伏して謝り続ける彼を、素手で打擲しはじめた。
素手といっても、ガーニムの腕は丸太のように太く、拳は岩のように固い。ほんの一、二発で少年の唇が切れ、鼻から血が垂れた。ガーニムは手が汚れたと言って激昂し、さらに攻撃を加えようとした。
「やめろ!」
近くにいたオルサは、咄嗟にガーニムを制止した。ほかの人足たちは、少年が殴られるのに同情を示しつつも、うっかり怒りの矛先を向けられないよう、おとなしくしていた。
「彼は少し不注意だっただけだ。なぜそんなことをする? お前になんの権利がある?」
「権利だと……?」
ガーニムは一瞬、虚を突かれたような顔をしたが、すぐに腹を抱えて笑いはじめた。
「おめぇ、自分がナニモンか、分かってねえのか? 奴隷のくせに権利がどうだと言うのがどんなにおかしいことか、ちっとは考えてみたらどうだ? 奴隷ってのは主人の持ち物だ。商品を壊すような持ち物はいらねえし、生意気な口答えをする持ち物もいらねえ。この場で全員ぶっ殺されても文句は言えねえってのが、奴隷ってモンなのさ」
滅茶苦茶な言い分に反論しようと、詰め寄って口を開きかけたとき、ガーニムの鉄拳がオルサのみぞおちにめり込んだ。
「分かってねえなら、教えなきゃなあ」
背を丸め、地面に倒れ込んだオルサに、ガーニムは容赦なく攻撃を加えた。そこは館の敷地内で、市民や衛兵の目もなかったから、この狼藉を止めるような者はいなかった。そのうち、ガーニムは誰かに命じて、鞭を取ってこさせた。よくしなる木の枝で作られた、刑罰用の鞭だ。
「安心しろ、骨は折らねえでおいてやるからよ」
無理矢理うつ伏せにしたオルサの背中を、ガーニムは繰り返し打ち据えた。
常人が振るう鞭でも、打たれた者は悲鳴をあげてのたうち回る。それをガーニムの膂力で振りおろすのだから、生半可な刑罰よりもずっと悲惨だ。人間のそれと変わらないオルサの背中は、あっという間に血塗れとなった。
オルサは意地でも声をあげないようにしたが、一打ごとに意識が薄らいでいくのを感じた。二十回、三十回。やがて痛みすら曖昧となり、いよいよ気絶するかと思う直前で、鞭が折れた。
倒れたまま動かないオルサを見て満足したのか、ガーニムは去っていった。そのうちに誰かが来て、オルサと若者を居室へ運ぶよう指示した。
自分がどのような立場であるかについて、オルサはこれまで深く考えてこなかった。奴隷であれ自由民であれ、借金を負っていることに変わりはない。借金を返済すれば、過酷な労働ともおさらばできる。単純に、屈託なく、そう思っていた。
しかし、ガーニムとの諍いで疑問が生じた。鞭でさんざん打たれた翌日、オルサは痛みを押して仕事をこなしたあと、館の中で帳簿係を捉まえて、自分の借金はどうなっているのか、と尋ねた。
細身で神経質な帳簿係はオルサの話を関心なさげに聞いたあと、二、三日のうちに確認する、と請けあった。
それから一週間後の宵、館の廊下で帳簿係から声をかけられたオルサは、借金が五百ガメルしか減っていないことを知らされた。
「半年で、たったそれだけか? なにかの間違いじゃ?」
「生活費と利息に充当されてるからね。まあ、こういう種類の返済は、あとの方になってから元本が減るようになってる。根気よく励むことだ」
「もうひとつ確認したい」
「なにかな」
「俺は……奴隷なのか?」
「随分と間の抜けた質問だね」
帳簿係は鼻で笑った。
「書面上、人足は全員奴隷のはずだよ。君も例外じゃない。だからせいぜい分をわきまえて、おとなしく過ごすことだ。借金を返せば、腫れて自由の身になるから、そのあとは好きにするといいさ」
いまさらながら、オルサは自分が出し抜かれたことを認めないわけにいかなかった。サップ・ティン――あの抜け目ない商人は、はじめからオルサを搾取するつもりで死体を拾い、蘇生したのだ。
「一応、釘を刺しておくけれど……。旦那さまに食ってかかったり、脱走を企てたりすれば、今度は鞭打たれるぐらいじゃ済まないからね」
そこまで言うと、帳簿係はさっさとその場を離れていった。
オルサもやり切れない思いを抱えながら、埃っぽい居室に戻った。日中の仕事で疲労していたが、ほかの人足たちのように眠る気にはなれなかった。それから長い時間胡坐を組んだまま、埃っぽい石壁を見つめていた。
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