咎人が見た月 -6-
いつ終わるとも知れない奴隷生活。しかし、その中にも確かに安らぎはあった。
サップ・ティンの館で蘇生してから一年が経ったころ、オルサはひとりの女性と知りあった。彼女もまた奴隷だったが、主人はサップ・ティンでなく、近くに別の館を構えるティップ・ティンだった。
サップ・ティンとティップ・ティンの兄弟は、同じような商売をしながらも、それぞれ仕入先や販路を異にしていた。それが利益を食いあわないように結託しているからなのか、険悪さの表れなのかは、一見して明らかでなかった。
しかし少なくとも、余剰の在庫を融通するくらいの関係があったことは確かだった。オルサにはときおり、荷車に商品を積んで、ティップ・ティンの館を訪れる機会があった。
ハーヴェスから運ばれてきたオリーブを、ティップ・ティンの倉庫に搬入した帰り、オルサはひとりの女性を見かけた。彼女は山のような食料品が入った籠を持ちながら、館の勝手口を開けようとしているところだった。
籠が揺れているのを見かねたオルサが、走り寄って扉を開けてやると、女性はわざわざ籠を足元に置き、笑顔で礼を言った。
「あら、あなたもルーンフォーク? 私もなの!」
「近くで同族が働いてるとは知らなかった」
「使い走りで方々動き回ってるから。周りはみんな意地悪で、嫌になっちゃう」
「俺のところも似たようなものだ。慣れるしかないのかもしれないが……」
このときは、ほんの短い間言葉を交わしただけで、すぐ互いの仕事に戻った。しかし彼女とは、その後もたびたび顔を合わせた。
女性はアマと名乗った。しかしそれは本当の名前ではないのだ、とも言った。よくよく聞いてみれば、彼女もオルサと同時期に蘇生し、過去の記憶をすっかり失ったまま、ティップ・ティンの館で奴隷として働きはじめたらしかった。
アマの容貌には、オルサと似た部分があった。黒い髪と褐色の肌。普通にしていると、やや表情が硬く見えるところ。
ルーンフォークに血縁の概念はないが、同じジェネレーターから生まれたとすれば、共通の特徴を持っていることもあるだろう。その話をするとアマは喜び、もしかすると私たちは兄妹だったのかもしれない、と言った。ふたりして死ぬなんて、ちょっと間抜けだけれど、とも付け加えた。
アマは本が好きだった。〈アルフレイム千夜〉という説話集のうち何冊かを持っていて、擦り切れるまで繰り返し読んでいる、と話していた。
彼女はあるとき、厚意でその一冊を貸してくれた。オルサは月明りの下でそれを読んだが、めくるめく物語の世界から現実に帰ったとき、自らのままならない身上がまざまざと思い起こされ、強い虚しさを感じずにはいられなかった。
しばらくあとで本を返しに行ったとき、オルサは運よくアマと顔を合わせた。
「面白かった?」
「最後の話が途中で切れていた」
「そうなのよね。続きも貸してあげたいんだけど、なかなか見つからなくて。〈アルフレイム千夜〉の第六巻。たまに売ってても、大抵、高くて買えないんだ」
「俺も探してみる。運よく手に入ったら、君にあげよう」
ぱっと顔をほころばせた直後、アマの双眸からはぼろぼろと涙が零れはじめた。
「どうした?」
「ごめんね。ごめん。本の話、できる人いなくて。優しくしてくれるのも嬉しくて」
「大したことじゃない」
「それでも、嬉しいから。ありがとう」
アマは泣き笑いの表情で、何度も礼を言った。
〈アルフレイム千夜〉には、
数奇な運命を経て別離し、また出逢う王子と王女。妖精の力を借りて巨万の富を成した商人。呪いを受けて生まれながらも逞しく育ち、やがて王の養子となった孤児。
中には罰を受ける悪役も、欲によって破滅する者もいたが、大抵の登場人物には、『すべての悦楽が絶えるときまで、幸福に暮らしました』というお決まりの結末が用意されていた。
では、それを読む者はどうか。アマの目には、ほんの小さな親切さえ、黄金のように映る。彼女の人生には、果たして幸福な結末が用意されているのだろうか?
本を返したあと、オルサは彼女が落ち着くまで傍にいたいと思ったが、誰かが自分を探して声をあげていたので、長く留まることはできなかった。
辛いことも多いが、なんとかやっていこう。オルサはそう言うのがせいぜいだった。そしてふたりはまたお互いの仕事に、労苦と理不尽に塗れた日々に戻った。
サップ・ティンの館で蘇生してから、五年が過ぎた。
オルサはまだ、奴隷として人足の仕事を続けていた。ルーンフォークの肉体には成熟も老いもないが、環境に適応するための変化は生じる。早朝から晩まで続く過酷な労働は、オルサの頑健な骨格に付く筋肉を、縄のように締まったものにした。その気になれば、暴れる駱駝を力づくで引っ張ることもできたし、ワインで満杯になった樽を担いで運ぶこともできた。
一方、館での立場は変わらなかった。使用人や私兵たちは、人形や木偶という言葉を使って陰口をたたいた。しかしオルサもオルサで、尊敬や立身には興味がなかった。借金の残額を確認することも、随分と昔にやめていた。奴隷であるという境遇に、すっかり慣れてしまっていた。
それでもやがて、運命の転回するときがやってきた。
以前にアマと話してから、オルサはずっと本のことを気にかけていた。本屋が開いている間は身体が自由にならなかったし、代わりに買ってきてくれるような者もいなかった。
しかしある日、使い走りの途中に通りがかった雑貨屋の軒先で、紐で結わえられた古書の束を目にした。その一番上、表紙は破れ、全体もひどく汚れていたが、間違いなく、アマが探していると言っていた本だった。
オルサは店主に声をかけ、本を譲ってもらえないかと頼み込んだ。山羊のように白く長い髭を生やした老齢の店主は、大して関心もなさそうに、欲しければ持っていけばいい、と言った。もう売り物にはならないから、孤児院にでも寄付しようと思っていたところだ、と。
孤児院の子供たちに内心で詫びつつ、オルサは本を持ち帰った。そして次にティップ・ティンの館へ行くときのため、大切に保管しておいた。何年も前、本を探してみると言ったとき、アマが浮かべた泣き笑いの表情が、何度も思い起こされた。
それからほどなくして、人足たちにティップ・ティンの館へ使いに行くよう指示が出た。
倉庫から余剰の商品を運び出し、荷車に積んで出発しようとしたところで、オルサは人足のまとめ役に呼びとめられた。
「お前は行くな」
ようやくアマに本を渡せる、と思っていたところに横槍を入れられ、オルサは不機嫌な声で尋ねた。
「なぜだ?」
まとめ役の老ドワーフはわずかにたじろいだが、すぐになけなしの威厳を掲揚するかのように、胸をそっくり返らせて答えた。
「お前、あの館にいるルーンフォークの女と、ねんごろになってるだろう」
「アマのことか? たまに話しているだけだ。誰にも迷惑はかけてない」
「迷惑がどうのって話じゃねえ。よその奴隷に色目を使うこと自体が、規律を乱すんだよ」
「それは誰の考えだ?」
「サップ・ティンさまだよ! お前のご主人さまさ!」
老ドワーフは伝家の宝刀を抜くかのように、その名前を持ち出した。
「おれはちゃんと言ったぜ。文句があるなら、勝手にしな。お前は拳骨だって鞭だって平気だろうからな。けど、向こうの女だって、きっと困ったことになるぜ」
その言葉は、オルサをなによりも強烈に打ち据えた。自分のせいで彼女が罰されたり、傷つけられたりすることは、耐えがたかった。
「……分かった」
奴隷は主人の意向に逆らえない。オルサは振り絞るように言った。そして荷車に積んだ商品の隙間から、〈アルフレイム千夜〉の第六巻を取り出し、老ドワーフに渡した。
「ならせめて、これをアマに返しておいてくれ。彼女に借りていたものだ」
本がアマに届きさえすれば、自分の気持ちも少しは伝わるはずだ。たとえ会うことができなくとも、君を大事に思っていると。
老ドワーフは本を胡散臭げに眺めたあとで、ふんと鼻を鳴らした。オルサを屈服させたことへの満足感が、顔全体から滲み出していた。
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