咎人が見た月 -7-
それから、さらに一週間が経った。
深夜の館。狭苦しい居室。オルサは薄い寝具にくるまりながら、冷たい床に横たわっていた。
かつてない疲労感。人一倍の腕力があっても、自分はどこまでも無力な存在だという事実が、なによりも重い荷として心を圧し潰そうとしていた。アマと会うことを禁じられてはじめて、彼女の存在がどれほど救いになっていたか、まざまざと思い知った。
いつまでも眠りに落ちることができない。
五年前にいた先住の三人のうち、ひとりは病気で死に、ひとりは怪我で働けなくなったあと、どこかへ売り飛ばされた。人が抜けたあとは速やかに別の奴隷が補充され、なにごともなかったかのように、日々が続いた。
いずれは自分も身体か心を壊し、役割を果たせなくなって、砂漠のどこかへ捨てられるのだろう。そしてきっと、腹を空かせた
なんとも虚しい話だ、とオルサは自嘲した。わざわざ蘇生されたのは、奴隷として働くためだけだったとは。
そのとき、館のどこかで、駱駝のいななくような声が聞こえた。
オルサは身を起こし、暗がりの中で耳を澄ませる。
館の中に駱駝はいない。いまのは人族の悲鳴だ。
どこかで怒号が聞こえた。さきほどよりも近い。
オルサはなにが起こっているのか確かめようと、立ちあがって部屋の外へ出た。同室の人足たちも目を覚ましていたが、彼らの緩慢な仕草からは、余計なことに関わりあいたくない、という思いが透けていた。
ルーンフォークは夜目が利く。オルサは暗闇に包まれた廊下を歩き、騒ぎが起こっているらしい場所へ足を向けた。壺の割れる音。扉を叩き壊すような音。女性の悲鳴。
途中、通用口から中庭に出ると、こちらへ逃げてくる男の影が見えた。ひどく慌てている。どうやら怪我もしているようだ。
「ガーニム! ガーニムはどこだ!」
サップ・ティンだった。彼は肌着姿のまま、必死に用心棒の名を呼ばわっていた。
「どうした? なにがあった?」
「お前……お前は誰だ?」
ぜいぜいと荒い息を吐き、膝をつきながら、サップ・ティンはオルサを見あげた。
「人足のオルサだ」
「賊だ。館に賊が入った。私の命と、財産を狙っている!」
サップ・ティンの声は興奮していたが、同時に弱々しくもあった。よく見れば、彼の肩には手斧が食い込んだままとなっている。逃走の際、賊にうしろから投げつけられたのだろう。すぐさま命に関わるものではないが、重傷だ。
「オルサ、賊を追い払え。賊を追い払って、私の財産を守れ」
「賊は何人いる?」
「分からん。突然襲ってきたんだ。見張りはガーニムに任せていたのに、あの役立たずめ!」
賊が夜目の利かない種族ばかりなら、闇に紛れて不意打ちすることも可能だろう。しかし相手は当然武装しているだろうし、魔術師だっているかもしれない。そもそもの話、ラージャハで有数の財産を持つサップ・ティンの館を襲おうというのだ。三人や四人といった小集団ではあり得ない。
オルサが答えずにいると、サップ・ティンは焦れたように言った。
「そうだ……借金。もし賊を追い払えば、お前の借金を半分にしてやる」
「借金?」
「ああ、約束する」
「俺の借金は、あといくらあるんだ?」
「二万ガメルか、そこらだろう。いいから、早く行くんだ。館のものを盗まれたら、何百万ガメルもの損失なんだぞ!」
五年間休むことなく労働に従事し、やっと返済できたのが一万ガメル。サップ・ティンはそれと同じだけの金額を、たったひと晩の働きで減らしてやると言う。
――なんというまやかし。
その瞬間、オルサは、いままで自分を縛ってきたものが、なんの実態もない、虚構であることを直観した。三万ガメルという借金も、アマに会えないことも、すべてはこの男の口から出た、他愛もない作り事だ。
オルサは手を伸ばし、サップ・ティンの肩に刺さったままの手斧を、乱暴に引き抜いた。傷口から血が噴き出る。彼は苦悶の声をあげ、ぐったりとその場に倒れ込んだが、財産に対する執着は失っていなかった。
「早く、賊を追い払いにいけ! お前の主人は、私だぞ……」
「いや、違う」
「なに……?」
手斧の刃、血に濡れた鋼の表面に、自分の顔が映るのを見た。
オルサはゆっくりと手斧を振りかぶり――その刃先を、かつて主人だと思い込んでいた男の脳天に叩きつけた。
サップ・ティンはかっと目を見開き、数秒の間激しく四肢を震わせた。しかし、それもすぐに途絶え、ぴくりとも動かなくなった。
怒りはなかった。後悔もなかった。硬い頭蓋を割った手応えとともに、靄の晴れたような感覚だけがあった。
どこか別の場所へ行こう。賊による混乱が続き、夜が自分を守っているうちに、この館を離れるのだ。
オルサはサップ・ティンの頭から手斧を抜き、足音を忍ばせながら繋ぎ場に向かった。そこで駱駝を一頭盗み出し、敷地を囲う門まで引いていった。
屋内での騒ぎはまだ続いている。賊たちは武器を持たない使用人や奴隷たちまで、見境なく襲っているようだった。私兵も何人か館に詰めているはずだが、すっかり制圧されてしまったらしい。
門は開け放たれていて、周囲には誰もいなかった。オルサは私兵たちに阻まれることなく、駱駝に乗り、サップ・ティンの館を離れることができた。
気にかかるのはアマのことだ。できることなら、彼女も奴隷の境遇から解放してやりたかった。しかし、いまや自分は咎人となってしまった。押しかけたところで、迷惑がかかるだけだ。悪くすれば、彼女もサップ・ティン殺しの共犯者になってしまう。
あの本は、〈アルフレイム千夜〉の第六巻は、彼女の手に届いただろうか。もし自分が、物語に出てくるような王になったとしたら、アマを迎えにこよう。そうすれば、ガーニムだろうと、ティップ・ティンだろうと、たとえラージャハの皇帝だろうと、文句は言えないはずだ。何年かかるかは分からないが、必ず迎えにこよう。
オルサは――いや、この名前も捨ててしまおう。せっかく自分で自分の主になったのだ。洒落たものでなくてもいい。新しい名前をつけて、新しい人生を送ろう。
南の空を見あげると、そこには月が輝いていた。
血に濡れた斧の刃にも似た、見事な緋色の三日月だった。
*
壁の透かし彫りから木漏れ日が差し込む広間。冷たい石の床に倒れ伏したムーンは、疲弊と失血と、傷が持つ熱で朦朧としながら、眼前を巡る過去の情景に身を浸していた。
これが昏睡に伴う夢なのか、
敵からは逃れることができた。しかし、もう身体が動かない。自分はあと半日もせず、力尽きるだろう。
わずかに首をもたげると、広間の奥、少し高くなった場所に設えられた玉座が見える。そこまでの十数歩が、いまはあまりに遠い。
あのときの選択は、間違いだったのだろうか。サップ・ティンの命令通り賊と戦い、次の五年を耐え忍ぶことにすればよかったのだろうか。奴隷として生き、アルジェやバナフサージュにも会わず……。
あのふたりはいま、どうしているだろうか。
気のいい仲間たちだった。自分が永遠にいなくなったと知ったら、悲しんでくれるだろうか。よくしてくれてありがとうと、せめてひと言でも伝えたかった。
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