咎人が見た月 -8-
はじめに感じたのは、全身を包むぬるま湯の肌触りだった。
突然のことに、訳も分からず四肢をばたつかせていると、足先が硬い床に触れた。踏ん張ろうとして滑ったところに、細い腕が伸びてきて、アルジェを引きあげる。
「大丈夫ですか? ほら、落ち着いて。水深は浅いですよ」
手を貸してくれたのは、バナフサージュだった。彼女もまた全身ぐしょ濡れで、髪からぼたぼたと水を滴らせていた。
アルジェは髪の毛や顔を拭いながら、あたりを見回す。ここはどうやら浴室のようだ。かなり広々としているが、公衆浴場というよりは、貴人用の施設に見える。
白い石造りの壁と天井。そこに描かれた
「僕たち、
「多分、ここがその
「そうなんだ。僕、てっきり――」
「言いたいことは分かります。私も、もっとおどろおどろしい場所かと」
バナフサージュは浴槽からあがり、濡れた
「一説によると
「つまり、ここはムーンの心の中ってこと?」
「心の中とは違いますが……まあ、似たようなものでしょう」
「どうすればムーンを見つけられるかな」
「分かりません。ここになにがあるのか、どれぐらいの広さなのかも。もしかすると小さな城ぐらいかもしれませんし。都市をすっぽり覆うくらいかもしれません。外から見た感じ、そこまで大きく育ってはいないと思いますが」
「ムーンは怪我をしてるはずなんだ。急がないと」
「分かってますとも。ですが、用心していきましょう……」
焦燥に駆られながら、アルジェはこの不確かな空間の探索を開始する。
浴室の隅にあった開口部から外へ出てみると、そこは暗く、細く、長い廊下だった。湿った足跡を残しながら慎重に歩いていくと、先には分厚い木の扉があった。戸枠の隙間からは、大勢の気配と食べ物のにおいが漏れてきている。
なにか危険な感じがする。それでも、進む以外の選択肢は存在しない。
アルジェはゆっくりと扉を押し開け、次なる空間に足を踏み入れた。
そこはさきほどの浴室にもまして広かった。内部には人の背丈ほどもある燭台が等間隔に置かれていて、壁際に並べられた数十ものテーブルと、豪勢な料理と、それに没頭する客たちの姿を照らしていた。壁の装飾や敷物の意匠は、幾何学的な図形と有機的な曲線が入り混じった、奇抜で独特なものだった。
「ここはもしかすると、魔法王の宮殿なのかもしれないですね」
それらの様式を見て取ったバナフサージュが、囁くように言った。
「三千年前に滅びた
「とにかく、ここにムーンはいないみたいだ」
「……そのようですね。進みましょうか」
肉や魚を咀嚼する音や食器の触れあう音が響く中、ふたりは会食の間を横切る。客たちは一心不乱に料理を貪っているが、アルジェは彼らの姿に違和感を抱いた。
鮮やかに染め抜かれた布であつらえた豪華な衣装。一方で、それに見合わない下品な振舞い。サフラ村の子供だって、あんな風に食べ散らかしたりはしなかった。
ある客は、左の目が頬の中ほどにあった。別の客は、どう見ても耳が二対あった。また別の客は、豚そっくりの鼻を持っていた。食器やパンや肉を掴む彼らの手にも、部位の多寡や、位置の不具合や、なにかしら人ならざる特徴を持っていた。
アルジェは彼らの異常に気を取られるあまり、前方に充分な注意を払わなかった。そして宴会場の中ほどまでやってきたとき、うっかり燭台に足を引っかけて、床に転がしてしまった。
周囲の喧騒に比べれば、燭台が立てた音は決して大きくなかった。しかし客たちは一斉に食事の手を止め、アルジェたちに目を向けた。数は百人か、もしかするとそれ以上。
「これは、まずいんじゃないですか……?」
「行こう!」
アルジェは宴会場の残り半分を一気に駆け抜け、浴室の出入口とは反対方向にある、大きな両開きの扉に取りついた。それを押し開ける間にも、異形たちがこちらに迫ってくるのを感じる。尻尾の付け根が強張り、うなじの毛が激しく逆立った。
わずかに空いた隙間から、バナフサージュとともに滑り出ると、そこにはまた別の広間があった。左右には彫像や絵画、黄金や宝石で飾られた全身鎧などがずらりと陳列されていた。
しかしアルジェにもバナフサージュにも、
広間の正面奥に扉が見える。あそこに逃げ込むしかない。
「アルジェ、あれは多分、魔神ですよ」
収集品の横を駆けながら、バナフサージュが言った。
「あんな生き物がいるの? 幻じゃなくて?」
「幻かどうか、試してみたいですか? 私は逃げますが……」
無論、アルジェも異形たちに立ち向かうつもりはなかった。一体や二体はなんとかなっても、すぐに物量で圧し潰されるだろう。そうなれば食べかすや脂のこびりついた歯と爪に、全身の肉をむしり取られることになる。
アルジェは走った。次の間へと続く扉は、さきほどのものに比べると小さい。これならば、一度に大勢が通り抜けるのを防ぐことができる。
ふたりは危険の有無を確かめもせず、扉の向こうへ踊り込んだ。
入った先はごく狭く、暗い空間だったが、すぐ脇に階段があった。階段は半径の小さいらせんを描きながら、上に向かって伸びていた。
幸い、扉は丈夫そうな閂を備えていた。アルジェはそれを使って扉を封鎖し、ダメ押しで
「ここはおそらく、塔の基部でしょう」
そう言いながら、バナフサージュが身震いした。浴室を出てからまだ数分。髪や衣服は濡れたままだ。
寒いのか、とアルジェが尋ねると、彼女は首を横に振った。
「いえ、実は高いところが苦手で……。高いところというか、高い建物というか。木とか山とかは平気なんですが」
なるほど意外と弱みだ……と感心している余裕はない。アルジェは彼女を励ましつつ、先んじて階段をのぼりはじめた。
バナフサージュが言う通り、この場所は確かに塔であるらしい。住居や牢獄として使われているわけではなく、所有者の権威を示すためだけに建てられた、細く高い塔のようだ。
圧迫感のある階段をのぼること数分。終着にあったのは、鋳鉄でできた簡素な梯子と、木製の跳ね上げ戸だった。バナフサージュに支えてもらいながら、戸板を押しあげ、外に這い出す。
アルジェの濡れた身体に、強い風が吹きつけた。
いくつもの
アルジェはバナフサージュに手を貸してから、恐る恐る広間の縁まで歩いていき、
眼下にあるのは、複雑な構造をした建物群だ。緑豊かな庭園や優美な曲線の丸屋根が、太陽のもとできらきらと輝いている。しかしじっとよくよく見ていると、影の移ろいがどうにも普通でない。
アルジェが目線をあげると、太陽が常軌を逸した速さで天球を駆けていた。それはまるで墜落するかのように、不可解な霧で覆い隠された地平線に没し、またたくまに冷たい夜を呼び寄せた。そして動かぬ星々の間、煌々と光る月が狂おしく巡る。
こんな場所に長く滞在していれば、頭がどうにかなってしまう。早いところムーンを助け出し、元の世界へ戻らなくては。しかし眼下の建物をひとつひとつ探すのは、相当に骨が折れるだろう。
「アルジェ!」
緊張を孕んだ声に思わず振り返ると、バナフサージュが跳ね上げ戸を塞ぎながら、下階の気配に耳を澄ませているところだった。
「魔神が来ます」
「えっ、ど、どうしよう」
この場所は塔の最上部だ。逃げ場はない。
「魔法で宙に浮いたり、壁を歩いたりできないんですか?」
「僕にはまだ無理だよ。コロロ先生ならできると思うけど」
「ひとまずこの馬を重石にして、魔神たちが諦めるのを期待するしか……」
アルジェは改めて黒檀の馬に注意を向けた。ただの装飾品にしては、あまりにも意味ありげだ。置物に触れ、構造を確かめる。
「この馬、ゴーレムだ」
ゴーレムの作製と使役は操霊術の基礎。術者の力量で大いに差が出る分野ではあるが、命令を与えるだけならば、そう難しくない。
「それで魔神を蹴散らすということですね」
「いや、戦闘用じゃない。こんなところに置いてあるくらいだ。多分、空を飛ぶためのものなんじゃないかと思う」
「空? 冗談でしょう!」
「空を飛べるゴーレムは珍しくないよ」
「そういうことではなくて――」
ガコン、と音を立てて跳ね上げ戸が動いた。異形たちはもうすぐそこまで来ている。
アルジェは黒檀の馬によじのぼり、戸惑うバナフサージュを急かした。
「ああ、神よ……」
強張る彼女の身体を背に感じながら、アルジェは魔法文明語で命令を発した。しかし黒檀の馬は片方の前脚を浮かせたまま、うんともすんとも言わない。
跳ね上げ戸が開き、隙間から異形の上半身が覗く。
すでに誰かの支配下にあるのか、あるいは現代のゴーレムとは仕組みが違うのか。アルジェは思いつく限りのさまざまな命令を与えてみたが、結果は変わらなかった。
その間にも、下階から次々と這い出してきた異形が、ゆっくりと迫ってくる。
「やっぱり、戦った方が……」
「待って、揺すらないで、いま――」
馬の身体をまさぐっていたアルジェの指先に、なにかが触れた。右の首元、小さなねじまきのようなものが突き出ている。
異形たちが揃って身をしならせた。一斉に飛びかかるつもりだ。
躊躇している時間はない。アルジェ運を天に任せるつもりで、目一杯にねじまきをひねった。
すると黒檀の馬は本物のようないななきを発し、勢いよく動き出した。そして制止を試みる間もなく、円形広間の縁を蹴り、空中に身を躍らせた。
背後のバナフサージュが甲高い悲鳴をあげ、アルジェにしがみつく。
黒檀の馬はほんの一瞬、重力に任せて落下するように思えたが、すぐに体勢を立て直し、ぐんぐんと高度をあげていった。
アルジェは振り落とされないよう必死に均衡を保ちながら、もう一度ねじまきを操作した。しかし黒檀の馬は落ち着くどころか、さらに上昇の勢いを増した。
雲に突入し、ひと息でそれを抜ける。ディガット山脈の頂よりも高い場所。吹き荒ぶ風はまるで氷の刃だ。高速で運行する月と太陽が、パニックに拍車をかける。
それでもアルジェは、なんとか別のねじまきを探し当てた。上昇のときに使ったもののちょうど反対側。かじかむ指でそれをひねると、上昇の速度が目に見えて落ちた。さらにひねると、黒檀の馬はその場で静止し、今度はゆっくりと下降をはじめる。
「ナフィ、大丈夫?」
「大丈夫ではありません」
「怒ってる?」
「怒ってはいませんよ。これくらいで怒ったりはしません。ただ空飛ぶゴーレムに乗るのは、今後百年ぐらい遠慮願いたいですね……」
操縦の要領を掴んできたアルジェは、左右のねじまきをうまく調節しながら、元いた高さまでおりていった。当初の目的を思い出し、着地する場所を探す。
「あの一番大きな建物、玉座の間だと思うんですが」
「行ってみようか」
宮殿の要所は、きっと
中央にある人工池が
黒檀の馬からおりたアルジェは、正面にある建物を見遣った。巨大な扉に至るための短い階段には、内部に逃げ込んだ誰かのものと思しき、乾いた血痕が付着していた。
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