咎人が見た月 -9-
かつて塗り潰された物語が
混濁した意識の中で、ムーンはその光景を垣間見た。
――誰かと一緒に、砂漠を歩いている。自分と同じルーンフォーク。のちにアマと呼ばれることになる女性。その顔にはまだ悲哀も労苦も刻まれておらず、寛いだ笑みと、新天地への期待だけがある。
彼女とは兄妹のように育った。故郷で過ごしたのはわずかに半年余り。最低限の知識を身につけたあと、ラージャハで仕事を見つけようと旅に出た。
道中は決して楽でなかったが、それも今日の宵までの辛抱だ。もう二、三時間も歩けば、市街の辺縁に辿り着くだろう。
そう思って進んでいたとき、ふと街道から外れていることに気づいた。
駱駝にはそれぞれ、武装した男たちが乗っていた。
嫌な予感がする。しかし逃げるための馬も、隠れられるような場所もない。自分も妹も武器はナイフ程度しか持っておらず、技量も熟練には程遠い。
仕方なく、妹とともに相手を待ち受けた。男たちはまっすぐこちらに向かってきて、やがて目鼻が見えるまでの距離に近づいた。男たちのうち、ひとりは明らかに身なりがよく、別のひとりは際立って大柄だった。
「お前たちはどこから来た?」
身なりのよい男が言った。ひどく耳障りな声だった。
自分たちは近くにあるルーンフォークの集落からやってきた、害のない旅人だ。そう説明すると、身なりのよい男は満足そうに頷いた。しかしそれは互いの緊張を解くための仕草ではなかった。なんら後ろ盾のない、手頃な獲物を見つけた喜びを示すものだった。
傍に控える部下たちが弩を構えた。さらなる交渉の余地があるとは思えなかった。
弦が唸り、太矢が飛ぶ。そのうちの一本が、妹の脚を貫いた。
「兄さん、逃げて……」
地面に倒れた彼女は、振り絞るような声で言った。
そんなことはしない。安心しろ。傷ついた身体に覆い被さり、その死を少しでも引き延ばそうと試みる。
男たちが駱駝からおりてくる。部下のひとりが、旦那さまと呼びかけながら、身なりのよい男に短槍を手渡した。
「ふたりは離しておくのがよいだろうな……。力のなさそうな方を、弟にくれてやるか」
嗜虐の笑みとともに、短槍が振りおろされる。
鋭い刃が背中を貫く感覚。激痛とともに流れ出した命が、乾いた砂に吸われていく。
「ガーニム、女の首を刎ねてやれ」
やめろ!
残虐な男たちが制止に動じるはずもない。妹から無理矢理引き剝がされ、槍で仰向けに縫いつけられる。
「兄さん……兄さん……」
妹の声が聞こえる。こちらからも、必死に呼びかける。
必死に呼びかける――その名前だけが、ぽっかりと抜け落ちている。その名前だけが、どうしても思い出せない。
妹の声が途切れる。あるいは、自分の耳が聞こえなくなっただけかもしれない。すでに目は見えず、四肢の感覚もない――
*
「ムーン……ムーン!」
「ダメですよそんなに揺すっちゃ。怪我はちゃんと治しましたから大丈夫」
バナフサージュにたしなめられて、アルジェは引きさがる。
瀕死のムーンが倒れ伏していたのは、玉座の間の大扉から五、六歩のところだった。すぐ近くには
周囲の壁に施された透かし彫りは、どのような計算によるものか、太陽がどこにあろうとも、その光を玉座に届ける造りとなっている。
この場所に逃げ込んだムーンは、魔神を叩き殺したあと、傷ついた身体を引きずりながら、光の差す玉座に向かった。そして段の手前で力尽き、気を失ったのだ。
アルジェたちの到着があと数時間遅ければ、ムーンはそのまま死んでいただろう。しかしバナフサージュが治療を施し、なんとか容態を安定させた。神聖魔法によって折れた骨を繋げ、腫れを抑え、切り傷を塞いだ。
それでも、ムーンの顔に浮かぶ苦悶の表情は消えなかった。
「いざとなったら、私が魔法を使います。どのみち、彼には休息が必要ですから、やたら起こせばいいというものでもありませんよ」
治療に関することならば彼女の方が経験豊富だ。アルジェは納得し、これ以上手も口も出さないことにした。しかし、長い間待つ必要はなかった。ムーンを発見してから十五分ほど経ったころ、彼は身体が激しく引きつらせながら、突然に意識を回復した。
「俺は……」
彼は少しばかり混乱している様子だったが、これまでにアルジェたちが走り抜けてきた情景に比べると、驚くほど正気を保っていると言えた。
「どうしてふたりがここにいる?」
「もちろん、君を追いかけてきたんだよ!」
アルジェは朝方からいままでの探索行を、若干の興奮とともに語って聞かせる。それを真剣な顔で聞き終えたムーンは、あぐらをかいたまま床に手を付き、深々と頭をさげた。
「大きな借りができたな……ありがとう」
「この際、貸しだの借りだのはナシにしましょうよ。私たち、互いに背中を預けあう仲間なんですから」
バナフサージュが場を取りなしたあと、一行は
方法のひとつは、この空間のどこかにある
そうすれば外界に戻るための出口が現れ、奈落の
また別の方法は、二日後に来るであろう冒険者たちが
魔神との遭遇を避けられるという意味では安全だが、出口が現れたことに気づかなければ、
どちらも一長一短。アルジェとバナフサージュは判断に迷ったが、ムーンだけは、できるだけ早く
「ティップ・ティンのところに妹がいる」
「妹がいるなんて、初耳ですが……」
「あとで必ず説明するから、いまはとにかくここを出よう。俺の身体は大丈夫だ。すっかりよくなった」
ムーンは元気を誇示するかのように、立ちあがって肩を回してみせる。
「核を探すなら、使えそうなものがある」
アルジェは言った。
「使えそうなもの?」
「空飛ぶゴーレムを見つけたんだ」
得意気に胸を張ったあとで、ここがムーンの想念の産物であるとするならば、彼にとって特段の驚きはないかもしれないな、と思い直した。
なにはともあれ、一行は
「立派なお馬さん、いないようですね?」
「ゴーレムは勝手に動いたりしないはずだけど」
もしかするとうまく停められておらず、ゆっくりと浮上してしまったのかもしれない。アルジェは空を見あげたが、そこにも馬の影はなかった。
「あの池から突き出しているのはなんだ?」
ムーンが指し示した方に目を向けると、
「引きあげるか?」
「いやあ、重そうですし、べちょべちょの馬に跨るのはちょっと……」
風に煽られて倒れたのだろうか。しかし、それほど不安定だったようには思えない。
なにか妙だ。
アルジェが黒檀の馬を停めたあたりの地面を確認すると、その部分と池とを繋ぐように、黒く粘ついた水の跡が残っていた。
もしかして――
次の瞬間、アルジェの目の前で水面が盛りあがる。水の薄膜を引き裂くように姿を現したのは、悪夢の顕在かと思うほどの奇怪さと巨躯を持つ、一体の魔神だった。
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