咎人が見た月 -10-

 頭部と思しき大きな肉の傘。その中央にある単眼が、ぎょろぎょろと庭園を睨め回す。池の縁から伸びてきた突起だらけの触腕に捕まりかけ、アルジェは慌てて飛びすさった。


 黒檀の馬は、風に煽られて転落したのではない。深みに潜んでいたこの魔神によって、力任せに池へと引きずり込まれたのだ!


 アルジェは急いで仲間たちと合流し、玉座の間まで撤退した。扉から距離を取り、魔神が獲物を諦めてくれるよう期待する。


 しかしこの吐き気を催す軟体の怪物は、ひどく腹を空かせているか、あるいは執念深い性質たちであるらしい。池から身を持ちあげると、扉へにじりよってこじ開け、出入口に頭部を押しつけながら、触腕で内部の一行を追い回しはじめた。


「こんなところでモタモタしてる暇はない」


 ムーンが言った。彼はこの恐るべき魔神と戦うことを決めたようだった。


「ふたりは腕の相手をしててくれ。俺はあの目玉を叩く」


「でもムーン。武器は?」


 アルジェは触腕を避けながら言った。彼がいつも使っている手斧は、〈砂漠の真珠亭〉に置いたままだ。こんな事態になると予想できていたなら、忘れずに持ってきていただろうに。


「武器ならある」


 ムーンは兵士の鉄像に歩み寄ると、その手から斧槍ハルバードをもぎ取った。刃の潰れた装飾用の偽物だが、鈍器としては充分に使えそうだった。


 その様子を見て、アルジェも反撃に移ることを決めた。発動体となる指輪を嵌めた方の腕で、中空に魔法文字を記す。文字は詠唱が終わると同時に砕け、細い光の針となって触腕に殺到した。敵に麻痺をもたらす変わり種の真語魔法だ。


 手応えはあった。しかし家屋ほどの巨体を相手に、どこまで効果を発揮するか。アルジェがそれを見極める前に、バナフサージュが神聖魔法を重ねる。


 空間の気温が急激に低下した。天井付近にわだかまる霧から、魔力を帯びた雨が降り注ぐ。それは敵に触れるや否や、真っ白な霜となって肉に食い込んだ。


 触腕の動きが明らかに鈍りはじめる。


 出入口を塞ぐ頭部が、その中央に付いた巨大な単眼が、わずかに揺らいだ。


 分が悪いことを悟り、池の底へ引っ込むつもりだろうか。しかし、ここで敵を見逃すムーンではない。


 彼は一足飛びに間合いを詰めると、体重と遠心力を鋳鉄の斧頭に乗せて、柔らかい眼球に勢いよく叩きつけた。


 濡れた打撃音とともに、声にならない絶叫が響く。触腕が滅茶苦茶に収縮し、暴れ回るが、目を潰したいまとなっては、避けるのも簡単だった。


 ムーンが間髪入れず追撃に移る。彼は斧槍ハルバードの柄が曲がり、刃がひしゃげるまで、徹底的に力を振るった。触腕に打ち据えられても、締めつけられても、決してひるまなかった。


 やがて眼球の損傷が限度を超え、腫瘍じみた肉の傘やぬるぬるした触腕は、だらりと萎えて動かなくなった。


「ムーン! せっかく治療したのに、また無茶を……」


 駆け寄るバナフサージュを片方の手で制しながら、ムーンはもう片方の手を眼窩に差し入れ、内部を探っていた。


「なにやってるんですか、汚い汚い」


「いや、眼球を潰したとき、奥に黒いものが……」


 全員で恐る恐る検分してみると、果たしてそこには人間の前腕ほどもある、闇を煮詰めたような色の、剣に似た形の結晶体が埋まっていた。


 奈落の核アビスコアだ。どうやら、いま殺した魔神こそが、領域の主であったらしい。あるいは単純に、好奇心から吞み込んだだけかもしれないが。


 なんにせよ、これを壊せば元の世界に戻ることができる。ムーンが斧槍ハルバードを振りかぶり、床に置いた奈落の核アビスコアを殴りつけると、黒い結晶体はあっさりと砕け、いくつもの尖った小片と化した。


 直後、庭園で玉虫色の光が閃いた。一行が魔神の死体を踏み越えて確認してみれば、池に溜まっていた黒い汚水は消え失せ、薄青色に揺らぐ境界の向こうに、暮れなずむ荒地の景色が浮かんでいた。


       *


「ムーンさん! ムーンさん!」


 宵闇の中で小柄な影が跳ねている。


 レッチェンだ。どうやら彼女はおとなしく待っていることができず、隊商宿サライの外で奈落の魔域シャロウアビスを監視しながら、いつ一行が戻ってくるのかと気を揉んでいたらしい。


「無事に帰ってきてくれて、わたし、本当に……」


「心配をかけて悪かった」


「なに言ってるんですか。それより、お腹空いてるでしょう。あったかいもの作りますから。……なんか、異様に生臭くないですか? 気のせい?」


 一行は隊商宿サライで身体を休め、焚火とレッチェンの料理で温まりながら、改めて明日以降の予定を話しあった。アルジェはムーン的を手助けするため、ともにラージャハへと向かうつもりだったが、彼の妹や奈落の魔域シャロウアビスで蘇った記憶について、詳しく尋ねてみることにした。


 ムーンが語った奴隷としての生活、妹とともに命を奪われた際の情景は、アルジェにとって大きな衝撃だった。同時に、彼をそのような立場へ追いやった者への怒りが、ふつふつと湧きあがるのを感じた。


「サップ・ティンとティップ・ティンの兄弟、なぜそんなに悪名高いかと言うと、奴隷狩りの噂があるからなんです」


 焚火に燃料をくべながら、レッチェンが嫌悪の滲んだ声で言った。


「ごく小規模な集落とか、旅人を襲って、殺す。蘇生するときって、ルーンフォークじゃなくても、記憶が曖昧になるから、すかさず不利な契約をさせたり、ろくに説明もせず売り飛ばしちゃったりするんです」


「そんなの、許されるの?」


 アルジェは尋ねた。


「もちろんダメですよ! でもうまく証拠を残さないようにしてるんでしょう 奴隷も一応は財産ですから、むやみやたらと危害は加えないと思いますが、妹さん、心配ですね……」


 妹の安全に話が及ぶと、ムーンは表情を曇らせた。


「ああ。ガーニムは俺とアマが兄妹だと知ってる。俺がサップ・ティンを殺したことについても、見当がついてる様子だった。それがティップ・ティンの耳に入れば、妹にどんな仕打ちがあるか分からない。なのに、俺は妹をひと月も放っておいた。いや、それ以前に何年も……」


「記憶を失っていたなら仕方がないですよ。どうか元気を出してください。私も力を貸しますから」


 バナフサージュが言った。


「妹を助けるためには、多分、ティップ・ティンの館に忍び込む必要がある。邪魔が入ったら、俺は誰であれ、叩き潰すつもりだ。俺に力を貸すということは、そういう行為に加担するということだ。神官として――」


「信義について言っているのならば、ご心配なく。風と雨の信徒が忌避すべきは抑圧と停滞であって、法に反することではありません。神官云々というのを抜きにしても、不当に囚われた誰かを助け出すのに、なんの躊躇が必要ですか?」


「あっ、もちろんわたしも行きますよ。ラージャハに土地勘のある人は、ひとりでも多い方がいいですもんね。みなさんが色々やっている間、駱駝を見る役も必要だと思いますし」


 アルジェにとっては、わざわざ言葉にするまでもなかった。わずかひと月前、自分の大事な人が窮地にあったとき、ムーンは一も二もなく協力してくれた。同じようにするのは当然のことだ。


 ラージャハへと至る街道上。隊商宿サライの夜は更けていく。


 翌日未明の出発が決まったあと、アルジェは借りた小部屋で寝具にくるまり、横になっていた。


「俺は仲間に恵まれたな」


 暗闇の中、すぐ隣でムーンが呟いた。


「明日も明後日もそう思ってもらえるよう、頑張るよ」


 アルジェが答えると、ムーンはふっと表情を緩め、こちらに背を向けるように寝返りを打った。穏やかな呼吸は、やがて寝息に変わる。彼にとっては、随分と長い一日に感じられたことだろう。


 明日はもっと困難かもしれない。しかしせいぜい力を尽くして、最良の結末をもぎ取るとしよう。アルジェは心の内で燃える火にそっと蓋を被せ、眠気が忍び寄ってくるのを静かに待った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る