咎人が見た月 -11-

 ひと晩を過ごした隊商宿サライからラージャハまでは、駱駝で二日弱の道程だ。起き出した一行は手早く準備を済ませ、いまだ夜の気配が色濃く残る荒地に蹄の音を響かせながら、まっすぐ北へと進路を取った。


 奈落の魔域シャロウアビスの破壊を依頼された冒険者たちは、きっと肩透かしを食らった気分になるだろう。一行はせめてもの詫びとして、砕けたコアの欠片を置いていくことにした。ムーンが手にしていた斧槍ハルバードは消えてしまったが、これだけは現場に残されていたのだ。バナフサージュによると、しかるべき場所で売却すれば、数百ガメルにはなるらしい。


 隊商宿サライを離れるにつれ、地面に転がる岩や礫は少なくなり、代わりに細かい砂が増えていった。日の出から二時間もすると、あたりは熱されたフライパンの上もかくや、という状態になった。


 寒さには比較的強いアルジェだったが、暑さには慣れていない。頭巾(フード)すら不要だと豪語するレッチェン――一説によると、ドワーフは焚火の上で昼寝ができるほど熱に強いそうだ――にからかわれながら、頭上の太陽を恨めしく思った。


 しかしながら、道中の困難はせいぜいそれくらいのもので、あとは蜃気楼に惑わされることも、砂虫サンドウォームに襲われることもなかった。ムーンとの合流を果たした翌々日の午後、一行は想定したよりも早い時間に、ラージャハ市域の辺縁までやってくることができた。


〈砂漠城塞〉ラージャハ。


 隣接する蛮族領と拮抗し、ブルライト地方の防壁として機能する要衝。遥か北方のドーデン地方と魔動列車で接続された、陸上交易の一大拠点。


 周辺地域に多く埋もれる遺跡には、魔動機文明アル・メナスのみならず魔法文明デュランディルのものも多く含まれ、そこからもたらされた遺物や知識は、国家にさらなる力を与える。


 市域人口十二万。純粋な勢力という点では、マカジャハットをも凌ぐ大国だ。


 防壁や見張り塔の上からは、槍を持った歩哨が目を光らせている。とはいえ、それはあくまでも蛮族の侵攻に備えるためであるらしい。人族の余所者に対しては、さして厳しい監視が敷かれているわけではなかった。


 街道上に設けられた関門を通り、ラージャハ入りを果たしたアルジェたちは、視界いっぱいに広がるナツメヤシ畑に迎えられた。


 痩せた土地でもよく育ち、栄養価の高いナツメヤシ。マカジャハットでもよく見かけるが、ラージャハにおいてはとりわけ重要な作物であるらしい。灌漑施設の一部には魔動機文明アル・メナスの技術が応用され、オアシスの水を効率よく分配している。


「ちょっと作戦会議」


 市街の中心部へ到着する前に、バナフサージュが切り出した。一行は駱駝をおり、ひときわ背の高いナツメヤシの木陰で頭を突きあわせた。


「ムーンの妹さんは、ティップ・ティンの館にいるんですよね?」


「そのはずだ」


 ムーンが答えた。


「でも、あなたはティップ・ティンの館を知り尽くしているわけではない」


「ああ。限られた場所しか立ち入らなかったからな」


「となると、少し事前の偵察が必要になりますね。アルジェ、お願いできませんか?」


「え、僕?」


 いきなりの提案に、アルジェは戸惑った。


「ムーンは顔を知られてるかもしれませんし、メリアの私はちょっと目立つでしょう。リカントならラージャハにもたくさんいますし」


「はいはい! ならわたしも行きますよ! ティップ・ティンの館なら、場所も大体分かります」


 レッチェンが威勢よく手をあげる。


「助かります。私たちは万が一にも見つからないよう、このあたりに隠れていることにします。忍び込むにせよ、暴れ回るにせよ、行動を起こすなら、人目の少ない夜になってからですね……」


 自信はないが、バナフサージュの言うことにも一理ある。さわさわと葉を揺らすナツメヤシの木陰で小休止を挟んでから、アルジェは情報収集と偵察へ繰り出すことにした。


       *


 ナツメヤシ畑を通り抜けた先で、街道はふたつに分岐する。まっすぐ北に進めば、円形の防壁に囲まれた中心市街。北西に折れると、大小の加工場や工房が立ち並ぶ職人通り。レッチェンによれば、ティップ・ティンの館は職人通りのさらに先、商業地区あるとのことだ。


 職人や労働者たちのほとんどは、すでに本日の仕事を終えたようで、帰り支度をしていたり、風通しのよい建物の軒先で無駄話に興じていたりと、全体にのどかな雰囲気が漂っている。そんな中、物珍しげに街並みを眺めていたアルジェは、なにやら異様な熱気を持つ人だかりができているのを目にした。


「奴隷市場ですよ」


 レッチェンが囁く。


「住んでたときは当たり前の光景でしたけど……、改めて見ると、やっぱり嫌な気持ちになりますね」


「でも、弱者を守るために必要な部分もあるんでしょ?」


「そのこと自体が、悲しいじゃないですか。わたしたちが生きてるの、弱肉強食の世界なんだなあ、って。まあ、剣から生まれた世界だから、仕方ないのかもしれないですが」


 アルジェにはいまでこそ魔術という武器がある。しかしコロロフラムと出会うまでは、紛れもない弱者だった。生まれた場所が少し違えば。偶然差し伸べられた手を握ることができなければ。ラージャハの片隅にある奴隷市場、商品として縄を打たれているのは、もしかすると自分だったかもしれない。


「あんまり近づかない方がいいですよ。教育上よろしくない部分もありますから」


「よろしくないって、なにが?」


「そりゃねえ……」


 興味がないと言えば嘘になるが、いまは別にすることがある。人だかりから目線を外したアルジェだったが、今度は胸を押さえて路地に座り込む、小柄な老婆を見つけた。


 これはさすがに無視できない、と声をかける。


「あの、大丈夫ですか」


 老婆の傍らには籠が置いてあり、工房で直接買いつけたと思しき荷物が満載されていた。非力な人間がひとりで運ぶには辛い量だ。


「お加減が悪いように見えますが……」


「ああ、いえ、大したことはありません」


 老婆は答えた。その顔には無数の皺とともに、ある種の諦観が深く刻み込まれていた。


「ご覧の通り、もはや死を待つばかりの身。健康なところを探す方が難しいくらいです。少し休んだら、またゆっくり動き出しますわい」


 おせっかいかもしれないが、このまま放っておくのは心苦しい。アルジェはコロロフラムに学んだ医術の知識でもって、老婆を簡単に診てやった。どうも心臓が悪いようで、それは彼女が言う通り、年齢から来る避けがたい変化だった。


「無理はよくないですよ。家が近くなら、送っていきますから。レッチェン、悪いけど……」


「ええ、ええ。大丈夫ですよ。荷物はわたしが運びましょう。ドワーフは力持ち!」


「ご親切にありがとうございます。旅の方でしょうか?」


「僕たちはついさっき、マカジャハットから到着したところなんです。おばあさんの家は、この近くですか」


「ここから十五分ばかり行ったところに、旦那さま――ティップ・ティンさまのお館がありまして、私はそこで住み込みの使用人をしております」


 アルジェとレッチェンは思わず顔を見あわせた。なんという偶然だろうか。


 その様子を見て、老婆が首を傾げる。


「どうかされましたか」


「おばあさん、あなたがティップ・ティンの館で働いているなら、アマというルーンフォークの女性を知りませんか」


 アルジェは尋ねた。


「さほど親しくはありませんが、存じております。彼女がなにか……」


 老婆に事情を明かすのは、危険な賭けだった。ティップ・ティンに注進されれば、目的の達成が極めて困難になる。それでも、もし館に詳しい者を味方にできたなら、アマを連れ出す試みはぐっと容易になるはずだ。アルジェは覚悟を決めた。


「その女性には兄がいます。彼はかつてオルサと呼ばれていました」


 老婆のたるんだまぶたが、わずかに震えた。明らかになにか知っている。


「オルサは死んだと聞きました」


「いいえ。彼は死んでません。いま、生きてラージャハにいます。僕たちは彼の友人で、妹を助けるために力を貸したいんです」


 老婆は首を横に振った。不信、拒絶――あるいは恐怖。座ったまま後ずさり、距離を取ろうとする。その様子はいかにも哀れだったが、ここで見逃すわけにはいかない。


「あなたに危害は加えません。僕たちと一緒に来てください」


「しかし私は、館に帰らなければ……」


「荷物のことは、あとでいくらでも言い訳が利きます。あなたの手伝いが必要なんです」


 アルジェが有無を言わさない口調で詰め寄り、絶対に引きさがらないという態度を示すと、老婆はやがて観念したようにうなだれた。


 埃っぽい通りが朱に染まりつつある。日没まで、あと一時間ほどだろう。

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