咎人が見た月 -11-
ひと晩を過ごした
寒さには比較的強いアルジェだったが、暑さには慣れていない。頭巾(フード)すら不要だと豪語するレッチェン――一説によると、ドワーフは焚火の上で昼寝ができるほど熱に強いそうだ――にからかわれながら、頭上の太陽を恨めしく思った。
しかしながら、道中の困難はせいぜいそれくらいのもので、あとは蜃気楼に惑わされることも、
〈砂漠城塞〉ラージャハ。
隣接する蛮族領と拮抗し、ブルライト地方の防壁として機能する要衝。遥か北方のドーデン地方と魔動列車で接続された、陸上交易の一大拠点。
周辺地域に多く埋もれる遺跡には、
市域人口十二万。純粋な勢力という点では、マカジャハットをも凌ぐ大国だ。
防壁や見張り塔の上からは、槍を持った歩哨が目を光らせている。とはいえ、それはあくまでも蛮族の侵攻に備えるためであるらしい。人族の余所者に対しては、さして厳しい監視が敷かれているわけではなかった。
街道上に設けられた関門を通り、ラージャハ入りを果たしたアルジェたちは、視界いっぱいに広がるナツメヤシ畑に迎えられた。
痩せた土地でもよく育ち、栄養価の高いナツメヤシ。マカジャハットでもよく見かけるが、ラージャハにおいてはとりわけ重要な作物であるらしい。灌漑施設の一部には
「ちょっと作戦会議」
市街の中心部へ到着する前に、バナフサージュが切り出した。一行は駱駝をおり、ひときわ背の高いナツメヤシの木陰で頭を突きあわせた。
「ムーンの妹さんは、ティップ・ティンの館にいるんですよね?」
「そのはずだ」
ムーンが答えた。
「でも、あなたはティップ・ティンの館を知り尽くしているわけではない」
「ああ。限られた場所しか立ち入らなかったからな」
「となると、少し事前の偵察が必要になりますね。アルジェ、お願いできませんか?」
「え、僕?」
いきなりの提案に、アルジェは戸惑った。
「ムーンは顔を知られてるかもしれませんし、メリアの私はちょっと目立つでしょう。リカントならラージャハにもたくさんいますし」
「はいはい! ならわたしも行きますよ! ティップ・ティンの館なら、場所も大体分かります」
レッチェンが威勢よく手をあげる。
「助かります。私たちは万が一にも見つからないよう、このあたりに隠れていることにします。忍び込むにせよ、暴れ回るにせよ、行動を起こすなら、人目の少ない夜になってからですね……」
自信はないが、バナフサージュの言うことにも一理ある。さわさわと葉を揺らすナツメヤシの木陰で小休止を挟んでから、アルジェは情報収集と偵察へ繰り出すことにした。
*
ナツメヤシ畑を通り抜けた先で、街道はふたつに分岐する。まっすぐ北に進めば、円形の防壁に囲まれた中心市街。北西に折れると、大小の加工場や工房が立ち並ぶ職人通り。レッチェンによれば、ティップ・ティンの館は職人通りのさらに先、商業地区あるとのことだ。
職人や労働者たちのほとんどは、すでに本日の仕事を終えたようで、帰り支度をしていたり、風通しのよい建物の軒先で無駄話に興じていたりと、全体にのどかな雰囲気が漂っている。そんな中、物珍しげに街並みを眺めていたアルジェは、なにやら異様な熱気を持つ人だかりができているのを目にした。
「奴隷市場ですよ」
レッチェンが囁く。
「住んでたときは当たり前の光景でしたけど……、改めて見ると、やっぱり嫌な気持ちになりますね」
「でも、弱者を守るために必要な部分もあるんでしょ?」
「そのこと自体が、悲しいじゃないですか。わたしたちが生きてるの、弱肉強食の世界なんだなあ、って。まあ、剣から生まれた世界だから、仕方ないのかもしれないですが」
アルジェにはいまでこそ魔術という武器がある。しかしコロロフラムと出会うまでは、紛れもない弱者だった。生まれた場所が少し違えば。偶然差し伸べられた手を握ることができなければ。ラージャハの片隅にある奴隷市場、商品として縄を打たれているのは、もしかすると自分だったかもしれない。
「あんまり近づかない方がいいですよ。教育上よろしくない部分もありますから」
「よろしくないって、なにが?」
「そりゃねえ……」
興味がないと言えば嘘になるが、いまは別にすることがある。人だかりから目線を外したアルジェだったが、今度は胸を押さえて路地に座り込む、小柄な老婆を見つけた。
これはさすがに無視できない、と声をかける。
「あの、大丈夫ですか」
老婆の傍らには籠が置いてあり、工房で直接買いつけたと思しき荷物が満載されていた。非力な人間がひとりで運ぶには辛い量だ。
「お加減が悪いように見えますが……」
「ああ、いえ、大したことはありません」
老婆は答えた。その顔には無数の皺とともに、ある種の諦観が深く刻み込まれていた。
「ご覧の通り、もはや死を待つばかりの身。健康なところを探す方が難しいくらいです。少し休んだら、またゆっくり動き出しますわい」
おせっかいかもしれないが、このまま放っておくのは心苦しい。アルジェはコロロフラムに学んだ医術の知識でもって、老婆を簡単に診てやった。どうも心臓が悪いようで、それは彼女が言う通り、年齢から来る避けがたい変化だった。
「無理はよくないですよ。家が近くなら、送っていきますから。レッチェン、悪いけど……」
「ええ、ええ。大丈夫ですよ。荷物はわたしが運びましょう。ドワーフは力持ち!」
「ご親切にありがとうございます。旅の方でしょうか?」
「僕たちはついさっき、マカジャハットから到着したところなんです。おばあさんの家は、この近くですか」
「ここから十五分ばかり行ったところに、旦那さま――ティップ・ティンさまのお館がありまして、私はそこで住み込みの使用人をしております」
アルジェとレッチェンは思わず顔を見あわせた。なんという偶然だろうか。
その様子を見て、老婆が首を傾げる。
「どうかされましたか」
「おばあさん、あなたがティップ・ティンの館で働いているなら、アマというルーンフォークの女性を知りませんか」
アルジェは尋ねた。
「さほど親しくはありませんが、存じております。彼女がなにか……」
老婆に事情を明かすのは、危険な賭けだった。ティップ・ティンに注進されれば、目的の達成が極めて困難になる。それでも、もし館に詳しい者を味方にできたなら、アマを連れ出す試みはぐっと容易になるはずだ。アルジェは覚悟を決めた。
「その女性には兄がいます。彼はかつてオルサと呼ばれていました」
老婆のたるんだまぶたが、わずかに震えた。明らかになにか知っている。
「オルサは死んだと聞きました」
「いいえ。彼は死んでません。いま、生きてラージャハにいます。僕たちは彼の友人で、妹を助けるために力を貸したいんです」
老婆は首を横に振った。不信、拒絶――あるいは恐怖。座ったまま後ずさり、距離を取ろうとする。その様子はいかにも哀れだったが、ここで見逃すわけにはいかない。
「あなたに危害は加えません。僕たちと一緒に来てください」
「しかし私は、館に帰らなければ……」
「荷物のことは、あとでいくらでも言い訳が利きます。あなたの手伝いが必要なんです」
アルジェが有無を言わさない口調で詰め寄り、絶対に引きさがらないという態度を示すと、老婆はやがて観念したようにうなだれた。
埃っぽい通りが朱に染まりつつある。日没まで、あと一時間ほどだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます