咎人が見た月 -2-
人族、蛮族、獣、魔物、妖精、幻獣。ラクシアに棲む生命は実に多様だ。人族というグループだけをとっても、優に十を越える種族がいる。第一の剣ルミエルの加護を受けているという点ではみな同じ。しかし、能力や性質は種族ごとに大きく異なる。当然、寿命も。
ルーンフォークの命は、およそ五十年と言われている。成熟した肉体を持って生まれ、稼働を停止するまで老いることもないため、働ける期間は長い。それでも、エルフやリルドラケンといった種族に比べれば、与えられた時間は明らかに短い。
誰かに従い、平凡な役割や仕事をこなすだけなら、五十年でも充分すぎるほどだ。しかし大事を成すのには長い時間がかかる。一年たりとも無駄にできない。
ムーンは焦っていた。
家柄も兵力も土地も持たぬ者が王となるなら、冒険者として声望を高めるのが正道である、とバナフサージュは言った。ムーンもそれを間違いだとは思っていない。とはいえ、隊商の護衛や巨大
王となる。それはムーンにとって、誰からも文句を言われない、強大な力を手に入れるということだ。国家であろうと富豪であろうと、自分の邪魔をできないようにするということだ。
それは緋色の月を見たあの夜、胸に刻んだ使命。しかし虐げられた過去への復讐、というわけではない。従順であった己への戒め、というわけでもない。ラージャハに残してこざるを得なかった、大切な存在を――
「おや、なんだか怖い顔をしていますねえ」
レッチェンに声をかけられ、ムーンは顔をあげた。
穏やかな昼下がり。アルジェは打撲と筋肉痛で寝込み、バナフサージュは近くの神殿に顔を出している。ムーンは特に用事もないまま、なにか依頼でも飛び込んでこないかと、カウンターで粘っていたところだ。
「もしかして、あのことですか?」
「どのことだ?」
「ホラ、最近支部の周りに不審者が、って話。私もロディに言われて気づいたんですけど、確かになんか、監視されてるような気がするんですよねえ」
「初耳だな」
「こないだ宮殿で事件があったじゃないですか。コロロフラムさんのことで。なんか、それ関係で恨みを買っちゃったりしてません?」
「可能性はある」
「まあ、ウチは腐っても冒険者ギルドなんで、おいそれと手を出されることはないと思いますけど」
「そうなのか?」
「一応、冒険者ギルドっていうのは国家を超えた組織なんです。支部に直接危害を加えるなんてことになったら、ほかの支部も黙っちゃいません。場合によっては隣の国からだって、腕利きの冒険者が送り込まれてきますよ」
レッチェンはあまり心配していないようだが、ムーンは大いに懸念を抱いた。女王や宮廷魔術師まで手にかけようとした連中だ。冒険者ギルドという権威が、どの程度抑止になるかは疑わしい。
なにより、〈砂漠の真珠亭〉は自分の寝床だ。害を為すつもりの者がいるなら、放ってはおけない。
「俺が見回りをしておこう。怪しいヤツがいたら、頭を叩き割ってやる」
「物騒だなあ……」
*
〈砂漠の真珠亭〉近辺に不審者がいるとして、狙いはなんだろうか。放火、窃盗、誘拐、あるいは暗殺。悪意というものは、ときに予測のつかない形で襲いくるものだ。たとえ空騒ぎに終わるのだとしても、警戒しておくに越したことはない。
レッチェンに話を聞いてから二日、ムーンは空いた時間に窓から広場を見張ったり、近隣住民に聞き込みをおこなったりして、不審者の尻尾を掴もうとした。しかし片手間の調査で芳しい結果を得ることはできず、かえって苛立ちを募らせるだけに終わった。
やがて時間の無駄に気づいたムーンは、なにか具体的な動きがあるまで、不審者のことは忘れようと決めた。些事に気を取られて冒険者稼業が疎かになってしまっては、元も子もない。
とはいえ、一度頭をもたげた心配事は、そう簡単に引っ込んでくれなかった。調査を棚上げしようと思った翌日の明け方。ざわざわと心が騒ぐのを感じたムーンは、いつもより随分と早い時間に目を覚ました。
自分はこんなにも過敏な
砂漠地帯のラージャハに比べると、まだしも冷え込みの緩やかなマカジャハットの朝。それでも外気はひんやりとしていて、深呼吸を繰り返していると、寝起きの怠さが消え去り、頭が冴えてくる。
近頃どうにも落ち着かないのは、結局のところ、新しい生活に慣れていないからかもしれない。奴隷の境遇から脱して、まだひと月あまりしか経っていないのだ。
深く考えたところでどうしようもない。力を手にする機会もいつかは巡ってくる。ムーンは一度大きく息を吐き、バナフサージュから習った歩法の基礎を確認しはじめる。
小さな予備動作からの突進。円を描くような足捌き。深く腰を落とした反撃の構え。はじめぎこちなかった動きは、数十回の反復を経て、骨と筋肉に馴染んでいく。
そうして三十分ほども鍛錬を続けたところで、ふと、ムーンは自分に向けられた視線に気づいた。
〈砂漠の真珠亭〉に隣接して建つ、ベイグルが住まう木造の小さな家。その陰から、貧相な身なりをした人間の少女が、こちらを窺っていた。
このあたりは貧民街から少し離れているが、それでも彼女のような者を目にする機会は少なくない。絢爛の都、〈大舞台〉マカジャハットと言えど、広場や大通りから一歩奥に入れば、うらぶれた影がわだかまる暗い路地がある。
あの少女ならば、以前にも見たことがある。はじめ無視しようとしたムーンだったが、ふと疑念がよぎった。
操霊術師の中には、自らの姿を変えられる者もいるのではなかったか?
無害な存在に化けて、こちらを付け狙う悪漢かもしれない。ムーンがじろりと目を向けると、少女はさっと身を翻して逃げ出した。
いよいよ怪しい。
「待て!」
ムーンは少女を追いはじめた。相手はまだ十歳そこそこといったところで、大して脚力があるとも思えないが、恐怖に駆られているのか必死に逃げる。もしかすると、本当に物珍しさで見ていただけかもしれない。とはいえ、それは直接尋ねてみればよいことだ。
生活臭の漂う入り組んだ裏通り。しばらく走ったあとで、ムーンは小さな空き地で少女に追いつき、その細い腕を掴んだ。
「なぜ俺のことを見ていた?」
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
苦しげな息の合間、懇願するように許しを請う少女。到底、演技とは思えない。
ただの思い過ごしだったか。それならば、可哀そうなことをした。
「怯えなくていい。俺はただ、どういうつもりで見ていたのかと思っただけだ。近頃物騒なことがあったから」
ムーンは宥めたが、どうやら相当に怖がらせてしまったようだ。少女はその場にへたり込み、泣き出してしまった。
どうしたものか……。
そのとき、ムーンの左肩に強い衝撃と痛みが走った。
一瞬遅れて、矢が刺さったのだと理解する。射手はどこかと見回せば、建物の陰からガラの悪い男たちが現れ、にやにやと笑いながらこちらに近づいてくるところだった。
ジハーグ派の操霊術師――ではない。ムーンは彼らの姿、特に首領格と思しき巨漢に、嫌というほど見覚えがあった。
「ようやく会えたなあ、木偶野郎」
巨漢が握る
「おめぇの主人を殺しておいて、逃げられると思うなよ」
「邪魔をするなら、お前も殺してやる」
啖呵を切ってから、ムーンはいましがた射られた左肩から、急速に麻痺が広がるのを感じた。毒矢だ。
「そうか、そうか。だが、おめえは簡単には殺さねえよ。たっぷり苦しんで、身の程を知って、罪を償ってもらわなきゃあ」
ムーンは相手を睨みつけたが、もはや逃げるどころか、立っているのもやっとだった。歩み寄ってきた巨漢が力任せに放った蹴りも、躱すことができなかった。地面に倒れ込み、暴行を受ける間も、ほとんどなすがままだった。
蛮行はしばらく続いた。やがて満足した男たちは、意識が朦朧としたムーンを縛り、脚を掴んで引きずりながら、どこへともなく運んでいった。
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