咎人が見た月 -1-


〈大舞台〉マカジャハットに朝が来る。


 曙光に照らされた都市の港湾には、早くから荷を満載した商船が到着する。開け放たれた東の大門からは、駱駝や馬車からなる隊商の荷が続々とやってくる。鍛冶場の炉には火が入り、パン屋では香ばしいにおいが立ちはじめる。青果売りは声を張りあげ、起き出した吟遊詩人は薄めた薔薇しょうび水で口をすすぐ。


 新しい一日のはじまり。〈砂漠の真珠亭〉の二階で、アルジェは目を覚ました。


 石造りの天井も、殺風景な内装も、すでに見慣れたものとなっている。アルジェがマカジャハットに足を踏み入れてから、あっという間にひと月が経っていた。


 はじめての依頼でレイスに遭遇し、それに引き続く事件では宮廷を揺るがす騒動に巻き込まれた。アルジェの冒険者生活は、なんとも波乱の多い幕開けとなった。

 

 しかし旅立ちのきっかけであったコロロフラム捜索は首尾よく終わり、一時は言い争うような場面がありながらも、結局は和解することができた。頼りになる仲間と、親切な知己に助けられたおかげだ。


 このひと月の間、アルジェたちはいくつかの依頼をこなしていた。吟遊詩人のファルケスがそれとなく宣伝してくれたおかげで、人々は〈砂漠の真珠亭〉が冒険者ギルドの支部であるということを、徐々に思い出していった。


 アルジェたちの経験や実力を鑑みると、古代遺跡の探索や蛮族の拠点攻略などはまだ荷が重い。しかしマカジャハットには――うまみは薄いが――もっと手軽な仕事も溢れていた。荒地を渡る隊商の護衛、水路で繁殖した巨大アブの退治、中には舞台劇の裏方や、踊り子につきまとう変質者の捕縛といった珍しい依頼もあった。


 アルジェが身につけた知識や魔法は、多くの場面で役に立った。ムーンの度胸と腕力はどんなときでも頼りになったし、バナフサージュの柔和な話しぶりは交渉を円滑にした。慣れない仕事には苦労も多かったが、信頼を積み重ね、実力をつけていくことには、余所で得難い大きなやりがいがあった。


 さて、今日はなにか依頼が来ているだろうか。


 部屋の窓を開けて外を見てみると、少しだけ寝坊したということが分かった。アルジェは壁際に吊るしてある沼ニンジンの乾燥具合を確かめてから、朝食を摂るため一階におりていった。


「おや、アルジェさんおはようございます。昨日は帰りが遅かったみたいですね」


「おはよう。勉強会が長引いちゃって」


 アルジェはカウンター席につきながら、レッチェンに挨拶を返した。支部の看板娘を自称する彼女は、つやつやとした青い髪を持つ小柄なドワーフだ。


「君の先生は元気にしてるかい?」


 老タビットのベイグルが、カウンター裏の定位置で書類仕事をしながら言った。


「身体の方はもう、なんともないみたいです。悪夢も見なくなったって」


「それはよかった」


「ええ、でも……正直まだ不安はあります」


 アルジェが心配しているのは、言わずもがなジハーグのことだ。いっとき宮廷の実権を握り、肉体を失ってなお野心を燃やし続けた男。コロロフラムの肉体を奪うことで、宮廷への返り咲きを狙った強大な魔術師。


 彼はアルジェたちの奮闘によって力を奪われ、いまはおとなしく休眠している。しかしいつなんどき目を覚まし、ふたたび害を為すようになるか、予測がつかない。


 コロロフラムは自らの肉体からジハーグを除くため、あるいは覚醒を阻止するため、宮廷に留まって研究を続けることを決めた。アルジェは冒険者生活の傍ら、いつか彼女の助けとなるべく、以前にも増して熱心に魔術を学ぶようになった。


 自らの技量を高める環境として、マカジャハットは非常に恵まれていた。豊富な教科書。優れた先達。アルジェは最近、コロロフラムの口添えにより、魔術師ギルド――正式なギルド員となったわけではないが――と併設図書館への出入りを許され、週に一度の勉強会に参加している。昨日も夜がすっかり更けるまで、知識の深淵にもぐってきたところだ。


「朝一番の依頼は入っていないけど、なにか話があれば呼びに行くから、好きに過ごすといいよ」


 大きなあくびをひとつしてから、ベイグルがのんびりとした口調で言った。


「ムーンとナフィはもう出かけたんですか?」


「熱心なことに、朝早くから裏で訓練してるよ。僕も若人たちに倣って、少しは身体を動かした方がいいかなあ」


 そう呟いてはいるが、今日も居眠りをして過ごすつもりなのが分かる。人形に取り換えてもしばらく誰も気づかないだろう、というのはレッチェンの言だ。


 朝食を摂り、沼ニンジンの煎薬を飲んでから、アルジェはムーンたちの訓練を見学することにした。


 厨房の勝手口を使うこともできるが、レッチェンやロディの邪魔になってはいけない。アルジェは表から〈砂漠の真珠亭〉を出て、ぐるりと裏に回った。


 馬が四頭並べるほどの、陽当たりの悪い空き地。そこではいま、ムーンとバナフサージュがそれぞれの得物を構えながら、じりじりと間合いを図っているところだった。


 ムーンが持っている手斧は、両方とも刃にぼろ布が巻いてある。怪我をしないようにとの配慮かもしれないが、直撃すればただでは済まないだろう。


 バナフサージュが持っているのは長い樫のスタッフだ。彼女は隙のない半身の姿勢をとったまま、いつでもどうぞ、と言わんばかりの微笑を浮かべている。


 小さく息を吐いたムーンが、地面を蹴ってバナフサージュに踊りかかった。振り抜かれる左手の斧。回転力を利用した下段の蹴り。密接した状態からの斬撃――と見せかけて右の肘打ち。それらのすべてをバナフサージュは最低限の体捌きで躱し、あるいはスタッフでいなしてみせた。


 直後、一転して攻勢に移ると、体当たりでムーンの態勢を崩し、スタッフによる足払いで転倒させたあと、彼の首を石突で抑えつけてしまった。


「まいった」


 荒い息を吐きながら、仰向けのムーンが呻くように言う。


「歩法にはまだ改善の余地がありますね。予備動作も大きすぎます」


 バナフサージュはムーンを助け起こしながら、一連の攻防をそう評価する。


 傍で見ていたアルジェは、思わず感嘆の息を漏らした。


「強いなあ、ナフィ」


「私の杖術は所詮、護身のための技に過ぎません。ほとんどの魔物に対しては、ムーンの方が効率よく傷を与えられるでしょう。ですが、人族でも蛮族でも、なんらかの武術を身につけた相手と戦うとき、基礎があるのとないのとでは大違いです。……ムーン、アルジェに斧を一本貸してやってください」


「え? ぼ、僕は別にいいよ……。ほら、魔術師だし」


 アルジェは辞退しようとしたが、バナフサージュはそれを許さなかった。


「私やムーンが前衛を務めたとして、取りこぼしてしまわない保証はないんですよ。いざというときに、鍛錬しておけばよかったと後悔しても遅いんです。ほらほら」


 アルジェは助けを求めるようにムーンを見遣った。しかし、彼も味方になってくれることはなかった。


「俺だけやられるのは癪だ。せっかくだから稽古をつけてもらえ」


 彼から受け取った手斧に目を落とし、アルジェは諦めたようにため息をついた。


 明日は多分、痣と筋肉痛で苦しむことになるだろう。

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