炎の色は -終-
寝椅子からずり落ちないよう、コロロフラムの姿勢を整えてやったあとで、アルジェは用意しておいたユニコーンの角を手に取った。いまからはひとときも油断できない。タイミングを誤れば、大事な師の存在は永遠に失われてしまうのだ。
コロロフラムの目蓋が動くたび、呼吸がほんの少し乱れるたび、アルジェは角を握る手に力を込めた。
少しして、宮殿の中庭あたりで、悲鳴とも怒号ともつかない声がした。
ムーンが手斧を握り、バナフサージュも
しかし妨害者は、想定外の方向から現れた。
突然、西側のガラス窓が盛大に割れて、牛の頭ほどの影が勢いよく飛び込んできたのだ。
投石か、火炎壺か。窓はタビットがなんとかくぐり抜けられるほどの大きさだったので、一行はそこからの攻撃をほとんど警戒していなかった。
飛び込んできたのは鳥だった。もちろん、ふつうの鳥ではなかった。羽毛の代わりに体表を覆っているのは、蝋で硬化処理をした藁束だ。魔物とは違う、明らかに人工的な存在――
「ゴーレムだ!」
アルジェは叫んだ。操霊術によって作製されるゴーレムは、必ずしも人の形をしていない。用途に応じて犬や魚、中には竜を模したものもある。
これは作戦の要だ。コロロフラムの命そのものだ。アルジェは角を抱えるようにしてそれを庇った。金属で補強された鋭いくちばしが掠め、耳のうしろを切り裂かれたのが分かった。
「はっ!」
バナフサージュが裂帛の気合とともに、
「アルジェ! 大丈夫ですか」
「平気だ。ユニコーンの角も……」
いまのはジハーグ派の妨害に違いないが、これで終わったとは思えない。アルジェが息をつく間もなく、廊下側を警戒していたムーンが声をあげた。
「来るぞ」
ひと呼吸あと、扉を破って現れたのもまたゴーレムだった。それは
「アレは私とムーンでなんとかします。アルジェ、あなたはコロロフラムさんを見ていてください」
「分かった!」
アルジェが仲間に背中を預け、コロロフラムに向き直ったとき、彼女の指先がぴくりと動いた。
どちらだ? 騒ぎによる覚醒か。それともジハーグの支配か。
見開かれるコロロフラムの目。瞳は彼女が持つサファイア色のそれでなく、不気味な金の縁取りを持つ、奈落の黒色だった。
ジハーグだ!
アルジェはユニコーンの角を振りかぶった。しかしその清浄な先端が触れるより早く、コロロフラムが突き出した手の先で、マナの塊が炸裂した。
内臓すべてが爆散したのではないかと思うほどの衝撃を受けて、アルジェは部屋の中央から壁際まで吹き飛ばされた。苦痛に背を反らせ、口をぱくぱくさせながら、アルジェは掠れた呻き声をあげた。しかし、ユニコーンの角はまだ手の中にある。これだけは、たとえ身体がバラバラになったとしても、放すわけにはいかない。
「立ちなさい! アルジェ!」
傍らで、バナフサージュの声が聞こえた。
「あなただけが先生を救えるんですよ! 立って!」
彼女は床に
いつのまにか立ちあがっていたコロロフラムが、唸りながらわずかに動きを鈍らせる。それでも、無力化にはほど遠い。
恐るべき操霊魔法の詠唱がはじまった。魔法円が焦げて煙をあげ、そこから黒紫色の炎が、まるでひび割れのように床を走った。それは見る間に壁、天井まで這いのぼり、部屋全体を高温の火葬炉にしてしまった。
絨毯の毛が縮れ、寝椅子の皮革がぱりぱりと乾燥していく。ひと呼吸ごとに喉を炙り、肺腑まで焼く灼熱。もう二十秒もいれば髪は燃え、眼球さえ茹ってしまうだろう。
いや、しかし、その時間があれば充分だ。
アルジェは立ちあがった。己の内に燃える炎は、敵の黒炎よりなお盛んだった。そしてユニコーンの角を構えながら、コロロフラムに向かって突進した。
しかし相手はすでに迎撃の用意を整えていた。だらりと垂らされた手に、突如として光り輝く魔法の槍が現れる。無造作に投射されたそれは、雷の速度でアルジェに迫った。
臆するな。足をとめるな。たとえ心臓を貫かれても、息絶える前にコロロ先生を救うんだ。
とはいえ、実際にそれをやろうとしても、きっと不可能だっただろう。さきほどの攻撃で傷ついたアルジェに、もはや致命の衝撃に耐える力は残されていなかった。
しかし、ここで思いがけないことが起こった。
投射された魔法の槍が、偶然にもアルジェの右手、人差し指に嵌めた指輪に命中したのだ。ガーネットがあしらわれた銀の指輪。はじめて魔法を使った記念に、コロロフラムから贈られた指輪だ。
いつか誰かの悪意に晒されたとき、これが君の助けになるかもしれない。
事実、そうなった。銀細工は割れ、宝石は砕け散ったが、それは槍を弾き飛ばし、コロロフラムの背後にある寝椅子を破壊した。
派手な音を立てて木っ端が舞い、一瞬の隙が生まれる。
アルジェは前進し、コロロフラムに肉薄した。
「やめろ――」
コロロフラムが言った。彼女の声で。彼女の顔で。しかしアルジェはとまらなかった。ユニコーンの角を両手で握り締め、それをコロロフラムの胸目がけて突き出した。
薄布を破り、肉を穿つ感覚。骨を砕き、内臓を抉る手ごたえ。アルジェはその細腕で発揮できる限りの力をもって、コロロフラムの胸を貫いた。
ユニコーンの角が持つ癒しの力。アンデッドを滅ぼす力。それがコロロフラムの肉体と、ジハーグの穢れた魂にどのような効果をもたらすのか、確かなことは分からない。しかしこれしか方法がなかった。コロロフラムを救うには、これしか――
灼熱の部屋の中に、身も凍るような絶叫が響いた。コロロフラムの身体に施された術式が焼けて、不快なにおいが漂った。あちこちに這う黒い炎が乱舞して、調度を滅茶苦茶に焼き焦がした。手の中で砕けたユニコーンの角を放り捨てて、アルジェは倒れるコロロフラムを抱きとめ、そのまま床に転がった。
どうかコロロ先生の身体から、魂を零さないでください、神様。
その祈りが通じたのか、あるいは角が目論見通りの効果を発揮したのか。やがて周囲に漂っていた邪悪な気配は薄らぎ、黒い炎は掻き消えた。アルジェはいっとき弱まっていたコロロフラムの呼吸や鼓動が、徐々に力強く、安定していくのを感じた。
うまくいったのだろうか?
アルジェは呻きながらわずかに身を起こし、あたりの様子を窺った。
部屋の中央あたりで、バナフサージュが倒れている。大きな怪我はなさそうだが、黒炎の熱を少しでも減じるために、力を使い果たしてしまったようだ。扉の近くでは、ムーンがゴーレムを部屋の隅に追い詰め、その頭を砕いたところだった。しかし彼もまた満身創痍で、いかにも辛勝という様子だった。
「お前ら、よくもやってくれたな……!」
そのとき、戸口に立つ者がいた。細面の顔を憤怒に赤らめた、
メフルザッドだ。アルジェは彼の甲高い声からそう判断した。魔術師としての実力がどれほどかは知れないが、仮にも宮廷魔術師。重傷のアルジェたちを一掃することなど容易いだろう。
メフルザッドが素早く詠唱をはじめる。彼が綴る魔法文字によってもたらされるのは、アルジェたちを苦痛のうちに殺す強酸の霧だ。
ダメだ。もはや抗う力もない。せっかくジハーグの脅威を排除し、コロロ先生を救ったというのに、こんな終わり方――
しかし詠唱が終わる前に、メフルザッドはびくりと身体を震わせ、口から血を吐いた。彼の胸からは長剣の先端が突き出ていた。
メフルザッドの頭が傾ぎ、どう、と前に倒れる。そのうしろから現れたのは、肩で息をしながら駆けつけたオルドウィンだった。
「遅くなってすまなかった。ジハーグは?」
彼は言った。別の場所で戦いに巻き込まれたのだろう。こめかみから血を流していた。
「一度現れましたが、ユニコーンの角で消えました。どこかに行っただけかもしれませんが」
アルジェは身を横たえたまま、わずかに首を起こして答えた。
「こちらもひと騒動あったが、ほぼ鎮圧した。いま神官を連れてきてやる。……よくやってくれた」
頷き返す余裕もなく、アルジェは今度こそ完全に力尽き、あとはどうにでもなるだろうという気持ちで、静かに目を閉じた。
*
ジハーグに支配されたコロロフラムや、襲いかかってきたゴーレムによって、アルジェたちは重傷を負った。しかし適切な手当のおかげで回復は早く、その日のうちには〈砂漠の真珠亭〉へと帰ることができた。
アルジェが最後に見たとき、コロロフラムはまだ意識を取り戻しておらず、さらに二日が経っても、彼女の安否についての報せはなかった。
宮殿で騒ぎがあったということは、市民たちの間でも噂になっていた。とはいえ女王派とジハーグ派の争い自体、それまでも長らく続いていたことだったからか、いまさら小競りあいがあったところでどうということもない、という態度が
傷を受けてから三日後の夕刻、コロロフラムの無事が知れないことに業を煮やしたアルジェは、また宮殿を訪れようと思い立った。実は昨日も門の前まで押しかけて、衛兵に阻まれていたのだが、今度こそはせめて安否を教えてもらえるまで、絶対に帰らないと決意した。
しかし、ムーンとバナフサージュを連れて〈砂漠の真珠亭〉を出ようとした矢先、アルジェは扉から入ってきたコロロフラムと、ばったり鉢合わせすることになった。
「先生!」
アルジェは思わず彼女に抱きついたが、すぐに恥ずかしくなって身を離した。
「し、失礼しました。ちょっと興奮しちゃって」
「心配をかけたね、アルジェ」
「身体の方はいいんですか」
「おかげさまで、おおむね元気になった。ところで、少し時間を取ってもらえるかな 話したいことがあるんだ。ムーンとバナフサージュも、よければ一緒に聞いてほしい」
「ええ、大丈夫です。実はいまから先生のところに行こうとしてたんです」
「衛兵に叩き出されたらしいね。報告があったよ」
コロロフラムは苦笑しながら、レッチェンに案内されるまま席についた。アルジェたちもその対面に腰をおろし、彼女の話を聞くことにした。
「ジハーグはまだ滅びていない」
「えっ」
動揺するアルジェを、コロロフラムは手で制した。
「とはいえ、もはや害になるほどの力も残っていない。詳しい説明は難しいけれど、私の身体に封印された……という表現がもっとも近いだろう」
「危険はないんですか? 物語だと、封印は破られるのが常ですけど」
バナフサージュが尋ねた。
「少なくとも、いまのところは心配ない。しかし将来のことを考えると、楽観するわけにはいかない。だから……アルジェ。私はサフラ村に帰ることができなくなってしまった。ジハーグを真に滅ぼすための方法を探り、いざというときの備えをするために、私はマカジャハットに留まらなくてはならない」
「なら、僕も帰りません」
アルジェはきっぱりと言った。コロロフラムはもはや反対しなかった。
「君の判断を尊重する。冒険者としていろいろな物を見て、学びなさい。危険や恐怖さえも己の糧としなさい。魔術師として大成するためには、建物の中に籠っているばかりではいけない。私もかつて、旅の中でそれを学んだ。……本当はもっと早く、君を外に連れ出すべきだったのかもしれないね」
コロロフラムはそう言って、ムーンとバナフサージュに頭をさげた。
「弟子をよろしく頼む」
「まだ少し、保護者気分が抜けてないんじゃないか」
ムーンが言った。
「よろしく頼まれようが、頼まれまいが、俺はアルジェの友人で、仲間だ。お互いに力を貸して、迷惑を掛けあう。そういう対等な間柄だ」
「ううむ、そうだな……。反省しよう」
コロロフラムは眉間に皺を寄せて、ばつが悪そうに腕を組んだ。アルジェはその様子に笑ってしまってから、ごまかすようにレッチェンを呼び、いくつかの料理を頼んだ。やがて酒場にも続々と客が入り、あちこちで賑やかな声が響きはじめた。
――こうして、ひとつの事件が幕をおろす。
少年は村を出て、冒険者となった。彼の前途には、まだ数々の波乱に満ちた出来事が待ち受けている。しかしそれらについては、また機を見て語ることにしよう。
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