炎の色は -19-
「朝食は済ませてきたかな? ポットにお茶が入っているから、好きに飲んでくれ。大したもてなしができなくてすまない」
はじめより随分と寛いだ態度で、コロロフラムは言った。どうやら、アルジェたちを協力者として認めることにしたようだ。それから、彼女はいま自分になにが起こっているのか、ジハーグがなにをしようとしているのか、操霊魔法の門外漢でも分かるよう、噛み砕いた説明をはじめた。
「高位の操霊術師が使う魔法の中に、
とはいえその辺の蛮族や市民の肉体を奪ったところで、ジハーグが満足するはずもない。魔法の適性や魔力というものは、おおむね肉体に依存するからだ。その点、私はヤツにとって格好の器と言える。呪いさえなければ、充分に抵抗できるはずなんだけどね」
「なぜ、ジハーグは人族の肉体を奪おうとする? レイスのままでいれば毒も短剣も効かないだろう。また暗殺されたいのか?」
ムーンが尋ねた。
「ジハーグは怪物的な魔術師だが、ある意味でとても人間らしい部分も持っている。これは私の偏見も混じっているが――まあとにかく、ヤツは人間特有の支配欲や、嗜虐心といったものを、ほかの誰よりも持っている。ヤツは異形として恐怖されるよりも、権力者として畏怖されることを欲する。ヤツの歪な望みは、人族社会の中でこそ満たされるんだ。
そして社会の中で生きるために、アンデッドの身体は不都合だ。守りの剣による結界の内側に入り込むことができないからね。だから、ヤツはなんとしても人族の肉体を奪わなければならない、と考えるはずだ。できることならば、魔術の適性が高い者の肉体を」
「あなたが考えていた策というのは、どんなものだったんですか? 自らの犠牲を伴うみたいですが」
バナフサージュが尋ねた。
「使える頭数も時間も限られているから、そう複雑なものではない。この部屋にあらかじめ術式を用意して、私の肉体を奪ったジハーグが逃れられないようにする。しかるのち、ヤツに抵抗の隙を与えず、オルドウィンが私の胸を銀の短剣で貫く、という策だ」
「先生にはまだ教わりたいことがたくさんあります。死んでもらうわけにはいきません」
アルジェは言った。
「やむを得ないこととはいえ、心中の相手がジハーグというのはあまり嬉しくないからね……。せっかくユニコーンの角も持ってきてもらったことだし、せいぜい、最善を尽くすとしよう」
「猶予はどのくらいですか? 先生」
「ほとんどない。次に私が眠れば、おそらくジハーグは最終的な行動に出るだろう。実はもう三日も寝ていないんだが、薬を使うとか、冷水に浸かるとかすれば、少なくともあと一日は眠らずにいられるはずだ。それ以降は自信がない」
「分かりました。最善を尽くしましょう」
アルジェの言葉に対し、コロロフラムは力強く頷いてみせた。
「さて、術式についてだが、通常、術者の実力と行使できる魔法の高度さは、かなり厳密に対応している。たとえば、アルジェがいかに理論や詠唱を学んだとて、いきなり火球を放つことはできないし、死者を蘇生することもできない。
しかしながら一部の魔法については、入念な準備や繊細な儀式の手順を踏むことで、未熟な術者でも効果的に使用することができる。私の専門は真語魔法で、操霊魔法はジハーグに大きくおくれを取るが、待ち受ける側であるという意味では多少利がある。準備に必要なものはオルドウィンに調達してきてもらおう」
「操霊魔法のことは分かりませんから、それ関係の手伝いはアルジェに任せましょう。コロロフラムさん、私はフルシルの神官として、アンデッドへの対策を考えます。この部屋に入り込んだジハーグの力を、少しでも弱められるように」
「お願いしよう」
「俺はいったん宿に戻って、武器やらなんやらを取ってくる」
ムーンが言った。
「それと、見張りだ。ジハーグ派のヤツらを警戒する必要がある」
「万が一のとき、君の腕っぷしは頼りになるだろう、ムーン。バナフサージュはそれなりに戦いの心得があるようだけれど、私とアルジェは見ての通り、細腕だからね」
「先生、ユニコーンの角はどう使えば?」
アルジェは尋ねた。しかし、答えは薄々分かっていた。
「それはジハーグの穢れた魂を貫く短剣だ。肉体における魂の所在には諸説あるが……さしあたっては、ここ」
コロロフラムは、鳩尾の少し上あたりを指で示した。そこはジハーグから受けた呪いが痣となって残っている場所だ。
「私が肉体をジハーグに明け渡したら、間髪を入れずに刺しなさい。軽く触れるだけでは意味がない。可能な限り強く、深くだ。とはいえ、なにが起こるか、正確には予測がつかない。角を持つ者の意思にもよるんだろう。ユニコーンにだって癒すばかりでなく、嫌いな者を突き殺したいときはあるはずだ。刺す役割は、オルドウィンあたりが適役かと思うが……」
「僕にやらせてください」
アルジェは言った。
「できるかい? アルジェ。ユニコーンの角の先端は、研いだ刃よりもよほど鈍い。まっすぐ、力強く、ためらいなく突かなければ、胸骨に当たって折れるか滑るかしてしまうだろう」
「必ず、やってみせます。先生」
「……そこまで言うならば、任せよう。しかし君が失敗したら、ほかの者に場所を譲りなさい」
そのときに使うのは鋼の刃だ、とコロロフラムの目は語っていた。アルジェは自分が失敗した場合など想像もしたくなかったが、ひとまずは承諾するしかなかった。
*
不穏な緊張を孕んだ宮殿の一室で、アルジェたちは着々と作業を進めていた。
準備のうちでもっとも重要なのは、コロロフラムの肉体に入り込んだジハーグを捕える術式だ。アルジェは、魔術師ギルドや典医のところから取り寄せた種々の材料――羚羊の血、霊猫香、ゾンビの眼球、
魔法文字ひとつ、図形ひとつ疎かにできない繊細な仕事だが、誤りはコロロフラムによってすぐ修正されたので、作業としてはさほど困難でもなかった。
バナフサージュはコロロフラムの身体――痣の周囲はもちろん、背中、うなじ、脇、腰、下腹や太腿まで――に、祈りの文言やフルシルの紋章を記し、アンデッドの力を抑える用意をした。塗料には、粉末状の没薬を蜂蜜で練ったものが使われた。隣の寝室でその作業がおこなわれる様子を、アルジェは極力想像しないようにしつつ、魔法円を何度も点検した。
ムーンは部屋の入口すぐ近くに座り込み、外の気配を警戒し続けていた。傍らの手斧は、いつでも使えるよう覆いを外してあった。もし襲撃者があれば、彼はすぐさまその首元に、黒い刃を
一行は食事も休息もほとんど摂ることなく、偏執的に術式を書き加えたり、過敏になって外の物音に耳を澄ましたりした。アルジェは、覚醒作用のある香が立ち込める部屋の中で、ジハーグの気配が徐々に強くなっていくのを感じた。
そして、正午の鐘が鳴った少しあと、部屋を訪れる者がいた。
「コロロフラムどの、オルドウィンです」
扉の向こうで、声が言った。
「本物か?」
立ちあがったムーンが、得物を手に問いかける。
「声真似だと思うか? 怪しまれないうちに早く入れろ」
「アルジェ、においで確かめてみてくれ」
渋々扉を開けたムーンに促されて、アルジェはオルドウィンに近寄り、脇あたりのにおいを嗅いだ。しかし香のせいで鼻が鈍っていて、よく分からない。
オルドウィンはそれを無表情に一瞥したあと、コロロフラムの前に立った。彼女は魔法円の中心に置かれた寝椅子の上で、香炉からのぼる紫煙にぼんやりと目を遣っていた。
「宮殿内がやや不穏です。コロロフラムどのの指示通り、数日前から監視していた魔術師の中に、朝方から所在の掴めなくなった者がいます。カスパー、フリューゲル、メフルザッドの三名。いま、行方を捜させていますが、近衛兵も何人か出仕していないようです」
「ふむ……。どのみち、完全に隠蔽することは困難だった。あるいは、ジハーグ自身がなにかしらの方法で接触したのかもしれない。その三人であれば、特にメフルザッドを警戒すべきだ。彼はまだ若いが、優れた操霊術師だと聞いている。けれど、あまり深追いはしなくていい。女王陛下に危害が及ばないよう、要所の警備をしっかりしなさい。こちらはあまり頭数がいても邪魔になってしまうだけだからね」
「承知しました」
それから、オルドウィンは扉に手をかける直前、アルジェたちを振り返って言った。
「正直、お前たちでは心許ないが……。くれぐれも、コロロフラムどのを頼む」
「こちらはご心配なく。お互いに務めを果たしましょう」
バナフサージュが応じると、オルドウィンは小さく頷いた。彼は軽く身だしなみを整えたあとで、なにげない風を装いながら部屋を出ていった。
「私たちの準備はおおむね済んでいる。……妨害がないうちにはじめようか」
コロロフラムは言った。彼女は傍らの紙包みから強烈な眠り薬を取り出し、それまで噛んでいた乳香樹脂の代わりに口へ放り込んだ。
「なにがあっても私を起こさないでくれ」
薬はコロロフラムを深い昏睡状態へ誘うだろう。アルジェたちの試みが失敗すれば、彼女はジハーグに肉体を奪われるか、さもなくば死が与えられることになる。これが正気でいる最後の瞬間かもしれないという状況でも、コロロフラムは冷静だった。
「アルジェ。どんな結果になっても、悔やんだりはしないように。友達は大事にしなさい。勉強は怠らず、物はよく噛んで食べて……」
アルジェの返事も聞いているのかいないのか、コロロフラムの言葉は段々と曖昧になり、やがて静かな寝息へと変わった。
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