炎の色は -3-

 十四年前。アルジェはディガット山脈西側の麓にある、サフラという名前の村で生まれた。サフラ村はほとんど自給自足の集落で、森林での狩猟が主な生活の手段だった。


 アルジェの父は優れた狩人で、十九歳のとき母と結婚してから、数年おきに四人の息子をもうけた。


 長男オラム。次男イーゼン。三男コパ。彼らはみな壮健な子どもだった。多分に腕白で荒っぽかったが、リカントにとってそれはむしろ美徳だった。


 しかし末弟のアルジェは、兄たちと違って虚弱だった。乳児のころから食が細く、しょっちゅう熱を出した。少し疲れると咳がとまらなくなり、寝込むと何日もそのままだった。銀色の体毛と生白い肌も――根拠はどうあれ――不健康の証だった。


 母は常々嘆いていた。この子はきっと成人する前に、ひどい病気にかかって死んでしまうだろう、と。


 父や兄たちがアルジェを虐げたり、蔑んだりすることはなかった。しかし同時に、なにかを期待するということもなかった。アルジェは跡継ぎや仲間ではなく、常に保護され、注意深く世話される存在だった。


 血縁以外の村人たちにとって、アルジェはいないも同然だった。なにせ、アルジェは立って歩けるようになってからも、ほとんど家の中で過ごしていたからだ。そのうち半分はベッドで横になっていて、もう半分はあまり身体の負担にならない家事を手伝っていた。兄や同年代の子どもたちが外で遊び、あるいは狩りの真似事をしているようなときでも、アルジェがその輪に加わることはなかった。


 アルジェが六歳のころ、村に蛮族の集団が襲ってくるという事件があった。


 現れたのは、フッドやゴブリンといった小型の妖魔が三十体近く。集団の中には、ボルグと呼ばれる大柄な妖魔も三体ほど混じっていた。


 襲撃は宵のことで、村人のほとんどは家の中にいた。蛮族の姿に気づいた誰かが警戒の叫び声をあげたとき、アルジェの父は弓を取って颯爽と出ていき、勇敢な兄たちもそれに続いた。ほかの住民たちも、弓矢や農具、ただの棒切れ、あるいは爪や牙で敵に立ち向かった。


 まだ幼かったアルジェは、騒ぎがすっかり収まるまで、母の胸にしがみついて震えることしかできなかった。妖魔たちの雄叫びや、獣の姿になった村人たちの怒号が、長い時間断続的に響いていた。一度、玄関扉が棍棒らしきもので叩かれ、大きな音を立てた。しかしその蛮族が誰かに仕留められると、以降アルジェの家が脅かされることはなかった。


 戦いは夜半にほぼ終結したが、一部の村人は敗走する敵を追撃し、最終的には襲ってきた蛮族のほぼすべてが討伐された。


 翌朝、村に残った蛮族の死体が焼かれ、襲撃の犠牲となった村人の葬儀もおこなわれた。しかし結局、村人側の死者はひとりだけだった。負傷者は十人ばかり出たが、いずれも命に別状はなかった。


 次兄のイーゼンも右腕の骨を折った。しかし彼はボルグを一体叩き殺してやった、と大層自慢げだった。父は子どもながら村を守るために戦った兄たちを称賛し、心から誇りに思う、と言った。


 それを聞いて、アルジェはひどくみじめな気持ちになった。


 もし自分が兄さんたちと同じとしだったとしても、絶対に戦うことなどできはしなかっただろう。このまま貧弱な肉体を抱えて、劣等感とともに生きるくらいなら、いっそ今日、蛮族に襲われて死んだ方がよかった。


 その後もたびたび空虚な気分に襲われながら、アルジェはいつ終わるとも知れない、陰鬱な日々を送っていた。


 転機が訪れたのは、八歳のときだった。


 冬の寒さが身体に応え、咳がとまらず寝込んでいたアルジェは、ふと、見知らぬ客が枕元に立っているのを目にした。村人ではなかった。リカントですらなかった。アルジェが生まれてはじめて出会う、エルフの女性だった。


「こんにちは、アルジェ。身体が悪いとお母さまから聞いたよ。少し診せてごらん」


 女性はコロロと名乗り、つい昨日、この村に越してきたのだと言った。彼女は亜麻色のローブを纏い、少しぼさぼさの、炎のような色をした長髪を持っていた。瞳は少し眠たげだったが、サファイアのように青く煌めいて見えた。


 コロロはアルジェの服を脱がして腕の付け根を触ったり、変わった器具を胸に当てて音を聞いたり、口を開けさせて喉の奥を覗き込んだりした。それから、幼少のころの様子を母に尋ね、思慮深そうにふんふんと頷いた。


「生まれつき内臓が弱いみたいだね。でも、ある程度は改善できると思うよ。ちょうどいい薬があるから、湯で溶いたものを毎日飲みなさい。少し元気になったら、なるべく外へ出るように」


 コロロは、乾燥させた沼ニンジンと救命草を混合したものだと言って、小袋に入った粉薬を置いていった。母は支払いをすると申し出たが、コロロは挨拶のついでに診ただけだから、とそれを固辞した。


 彼女が去ったあと、アルジェは指示された通りのやり方で粉薬を飲んだ。陶器の椀に入った液体はどろりとしていて、口当たりは悪く、独特の土くささや苦みがあった。


 しかし、薬の効き目は充分だった。液体が喉を通り抜け、胃の腑まで流れ落ちると、アルジェは身体の中にぽっと火が灯ったように感じた。その温かさが内臓全体に広がると、呼吸が楽になり、頭や四肢のだるさも消えた。


 アルジェの熱は翌日にさがり、体調はすっかりよくなった。


 コロロになにかお礼がしたい、と考えたアルジェは、家にあったぴかぴかの林檎を三つ、彼女が住んでいる庵へ持っていくことにした。


 村の中を小一時間うろつき回ったあとで、アルジェはようやくコロロの庵を見つけた。


 それは村はずれというよりも、半ば森の中といった場所に建っていた。村の平均的な住居と比べてもかなり貧相で、荒れ果てた無人の小屋に最低限の造作を加え、なんとか生活ができるよう整えた程度のものだった。


 外壁の木材はところどころ腐り、あるいは苔に覆われていた。屋根も一部が大きく破損していて、それを雑に補修したような形跡があった。


 アルジェは遠慮がちに庵へ近づき、扉を叩いた。返事はなかったが、中で誰かが動き回る音がした。アルジェは籠に入れた林檎を胸に抱えながら、金具の壊れかけた扉をゆっくりと押し開けた。


「こんにちは……」


 恐る恐る覗いた薄暗い室内では、コロロが模様替えの最中だった。いまは大きな木のテーブルと格闘しながら、それをどこに置くか悩んでいるようだった。炎の色をした長い髪にも、身に着けている亜麻色のローブにも、汚れや埃がたっぷりついていた。


「おや、アルジェ君か。少しは元気になったかな」


 扉の方に向き直った彼女は、穏やかな笑みを見せた。


「片付いていなくてすまないね。なにせ、引越してきたばかりだから」


 アルジェはなにか言おうとしたが、急に喉が詰まったようになり、なにも言うことができなかった。普段、家族以外の村人とさえほとんど話さないのだ。村の外からやってきた、しかも他種族を相手に、うまく振舞えるはずもなかった。


 それでもお礼をするという目的でやってきた以上、なにもせず回れ右をするわけにはいかない。アルジェはその場に佇んだまま、おずおずと林檎入りの籠を差し出した。


「くれるのかい。ありがとう」


 コロロは歩み寄ってきて、籠を受け取った。彼女の身体からは、埃のにおいに加えて、何種類もの植物が混じったような、複雑な香りがした。


「美味しそうな林檎だね。一緒に食べようか」


 その誘いに対して、アルジェは黙ったまま首を横に振った。ここまでするだけでもすっかり緊張して、体温があがっていた。今度こそ本当に回れ右をして、逃げるように庵を出た。


「よければ、また遊びにおいで」


 無礼な態度を取ったにも関わらず、コロロが気分を害した様子はなかった。彼女はそそくさと去り行くアルジェの背中に向かって、呼びかけるようにそう言った。


       *


 なぜふたたびコロロの庵を訪れようと思ったのか、アルジェには分からない。ただ粉薬を受け取るだけなら、届けてもらうか、母に代わってもらえばいい。また遊びに来い、という言葉を真に受けたわけでもない。


 それでも、林檎を届けてから二日後、アルジェはまたコロロの庵を訪れた。


 前回来たときより、庵は幾分か住みやすそうになっていた。コロロ自身が作業したのかもしれないし、村の誰かが手伝ったのかもしれない。軒先には束になった薬種が何種類か吊るされていて、その中にはアルジェが飲む粉薬の材料になる、沼ニンジンと思しきものも含まれていた。


 アルジェが庵の扉を叩くと、中から木杓子を持ったコロロが顔を出した。


「いらっしゃい、アルジェ」


「あの、き、今日は特に、用事とかはないんですけど」


「歓迎するよ。さあ中へどうぞ」


 先日訪れた際にはほとんど観察する余裕もなかったが、庵の様子はアルジェの家とまったく違っていた。


 狭い室内の中央には大きなテーブルが鎮座していて、そこには分厚い本や天秤や、得体の知れない調合器具などが載っていた。棚に並べられた硝子瓶の中には、金属のような光沢ある液体や、鮮やかな色をした粉末や、黒焼きにした蜥蜴などが入っていた。隅にある小さなかまどでは、生姜と蜂蜜が入っていると思しき黄金色の液体が、ぼこぼこと煮え立っているところだった。


 解体した獣の、血と肉と内臓のにおいがうっすら漂うアルジェの家とは、まるきり反対の場所だった。しかしその只中に入り込んだアルジェか感じたのは、不思議な落ち着きだった。


 コロロはアルジェをテーブルにつかせ、甘い生姜湯を振舞った。そして体調や、家族のことや、普段の生活のことを尋ねた。それから、自分が村に越してくる前、なにをやっていたかについて話した。


 コロロはサフラ村からディガット山脈を挟んで反対側にある、ユーシズという国で生まれた。両親は魔術師で、コロロもまた魔術師となるべく育てられた。成人する前にユーシズの学院へ入ることを許され、種々の魔術や基礎的な錬金術、医術、薬草術などを修めた。


 学院を卒業したあとは何年か旅をして、やがてマカジャハットで職を得た。そこで長いこと働いていたが、あるとき仕事に嫌気が差して、職を辞することにした。いまは疲弊した心身を休ませながら、身の振り方について考えるつもりでいる、等々。


 コロロはとても若々しく見えたので、アルジェは彼女の年齢を二十歳か、せいぜい三十歳くらいだろうと思っていた。しかし話の内容からすると、どうやらアルジェの両親よりも年上のようだった。


 魔術や魔法といった言葉は、アルジェにとって非常に新鮮で、魅力的に聞こえた。狩猟や、喧嘩や、大工仕事といった言葉よりも、素敵な響きを帯びた言葉だった。


「あの、僕も勉強をしたら、魔法を使えるようになりますか」


 生姜湯を二度おかわりしたあとで、アルジェは尋ねた。


「高度な魔法を使えるようになるには、才能と修練が必要だ。種族の差もあるしね。でも、リカントの適性はそう低いというわけじゃない。使えるようになるよ」


「あの、もし先生が嫌じゃなければ、その、ぼ、僕に、魔法を教えてくれませんか」


 アルジェは意を決して口にした。のちの人生を大きく変える言葉だった。


「先生か……」


 コロロはその単語の意味するところを考えるような顔をしたあとで、テーブルの上に積んであった一冊の本を手に取った。彼女は適当なページを開き、中身を見せるようにして差し出した。


 アルジェがのぞき込んだページには、細かい文字がぎっしりと書かれ、その合間に複雑で理解不能な図がいくつも挿し込まれていた。文字はアルジェがはじめて見るものだった。村の神官が教えるリカント語や交易共通語とは、似ても似つかなかった。


「魔法文明語の習得は基礎の基礎だ。これを学ばないうちは、小指ほどの灯りをともすこともできない」


 コロロの声には、どこか挑戦するような響きがあった。ページの上に広がる深遠な世界に気圧されながらも、アルジェは決意の籠った瞳で、コロロを見返した。


「いい目だね」


 コロロは微笑み、ぱたりと本を閉じた。


「分かった。君に魔術を教えよう」

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