炎の色は -2-
「きゃあっ!」
水面を震わせる甲高い叫び声。
あろうことか、泉ではひとりの女性が沐浴の最中だったのだ。
水辺で立ちどまった男が、唸るように呟く。
「なんて間の悪い……」
「ちょっと、覗き! 覗きはマナー違反ですよ!」
沐浴中の女性は腕で裸身をかばいながら、ばしゃりと肩まで水に沈んだ。薄い金色の長髪には、スミレを象った飾りがついている。どこか神秘的で高貴な雰囲気を漂わせているが、妖精でなく人族のようだ。
「蛮族だ! 早く逃げて!」
アルジェは叫んだ。しかし、背後からはすでにオーガの足音が聞こえてきている。いまから服を着ていたのでは間にあわないだろう。
「蛮族ですって!」
女性はそれを聞くと弾かれたように立ちあがり、ざぶざぶとこちらに向かってきた。アルジェはその姿から目を逸らしつつ、傍らの男を見遣った。
「卑怯者にはなりたくないな」
男は言った。
オーガはいま、アルジェと男を追っている。しかし女性を見つけたとき、標的を移さないという保証はない。そうすれば、あとの展開は容易に想像できる。アルジェも男と同感だった。たとえ自身の安全のためだとしても、ほかの誰かを囮になどしたくない。
「お前、戦えるか?」
「魔法なら、少し」
アルジェがそう答えたとき、背後で荒々しい咆哮が響いた。振り返ってみれば、三体のオーガがすぐ近くまで来ていた。そのうち一体は胴から脚にかけてを血で汚している。洞窟の中で不意打ちを受けたときの傷だろう。
「お前ら、お仲間ともども」
怒りと興奮に満ち満ちた声で、オーガが唸った。
「耳からケツの穴まで、残さず嬲ってやるからな」
「駱駝にでも突っ込んでろ、下種ども」
啖呵を切った男は、手斧を構えてオーガたちに対峙した。
アルジェもまた覚悟を決めた。いまこそ、これまでに学んだ魔法を使うときだ。見慣れぬ文字に苦戦し、コロロから教えを受け、マナ切れと貧血で倒れるまで練習した成果を見せるときだ。
自分でも驚くほど滑らかに、アルジェは詠唱の言葉を紡ぎはじめた。指先を素早く宙に舞わせ、流麗な魔法文字を記していく。それらが終わったとき、ぴんと伸ばしたアルジェの指先から、光り輝く魔法の矢が放たれた。
矢は煌く尾を引きながら飛翔し、負傷したオーガ一体の鼻面に命中した。圧縮されたエネルギーが炸裂し、皮膚や筋肉をずたずたに破壊する。
うわずったオーガの悲鳴と同時、男が手斧を振りかぶって敵に跳びかかった。攻撃は一体の肩口に喰い込み、骨まで達したかに思われた。
しかし、もう少しのところで致命傷には至らなかった。攻撃を受けたオーガが雄叫びをあげながら前蹴りを繰り出すと、男はそれをもろに受けて吹っ飛ばされ、アルジェの背後に着水した。
オーガたちが全身に殺意を漲らせ、一斉に吠える。その圧力と脅威に、アルジェはふたたび尻尾が強張るのを感じた。
さきほど魔法を受けた一体はまだ倒れていない。男の攻撃を喰らったオーガも旺盛な戦闘意欲を見せている。残る一体はかすり傷さえ負っていない。
ふたたび詠唱する余裕はあるだろうか? しかし一体を斃したところで、残りはどうする? 蹴り飛ばされた男は死んでしまったのだろうか?
肩に突き刺さったままの手斧を抜いたオーガが、その刃をアルジェに向けた。
到底手に負えない。いつのまにか傍らまで来ていた女性は、すべてを諦めてしまったのか、祈りの言葉を口にしている。
せめて彼女だけでも逃がせないか。アルジェが生還を諦めかけたとき――
結ばれた祈りが、揺らめく気弾となって放たれた。肉の潰れる鈍い音とともに、オーガたちの身体が木の幹や岩に叩きつけられる。
「まだです。油断しないで!」
女性が鋭い声で言った。
思いがけない事態にアルジェが戸惑っているうち、男がざばりと水からあがってきた。彼は地面に落ちた手斧を拾い、まだ動いているオーガの一体に跳びかかった。男が敵との格闘をはじめたとき、その近くでもう一体が起きあがろうとしていた。
危ない! アルジェは咄嗟に手近な岩を掴み、背後から男を襲おうとしていたオーガに殴りかかった。幸い、すでに瀕死の重傷を負っていた敵は、固い岩で頭を一撃されると、そのままふたたび地面に倒れ、ぴくりとも動かなくなった。
男の方でもなんとか格闘に勝利したようだ。彼が手斧を振りおろし、オーガの額を叩き割ると、血や脳漿の混じりあったものが、勢いよくあたりに飛び散った。
残る一体――洞窟で不意打ちを受け、アルジェの魔法で顔を潰されたオーガ――は、女性が放った気弾ですでに絶命していた。
「やった……」
アルジェは信じられない思いを抱きながら、オーガたちの死体を見おろした。他人の助けがあったとはいえ、こんなに強力な蛮族を斃しただなんて。
「おい、無事か?」
大きく肩で息をしながら、男が振り返った。その顔も髪もべったりと血に濡れていて、普段のアルジェなら見るだけで卒倒しそうな姿だった。
「僕は大丈夫。ええと――」
アルジェは傍らの女性に目を遣ってから、まだ彼女が裸であることに気づき、慌てて視線を逸らした。
「あ……」
女性の方でも、自分が裸であることに改めて思い至ったようだ。慌てた様子で身体を隠しながら、さっと背を向ける。
「ちょ、ちょっと待ってくださいね。いま服を着ますから」
*
「スカーレットムーン。長いから、ムーンでいい」
水辺の岩に腰かけた男は、そう名乗った。
「助けてくれてありがとうございます、ムーンさん。僕はアルジェといいます」
オーガたちを退治したあとで、ふたりはまだ泉の傍に留まっていた。少し時間が経っても、新手がやってくる気配はなかった。おそらくこのあたりにいたオーガは、さっきの三体で全部だったのだろう。
「堅苦しい言葉遣いはやめてくれ。お前、いくつだ?」
「今年で十四……」
「俺は生まれて六年だ。正確には分からない。記憶喪失だからな」
「六年?」
アルジェはムーンが冗談を言っているのかと思ったが、どうもそうではなさそうだ。
「ルーンフォークを見たことがないのか?」
人間、リカント、エルフなどと同様に、ルーンフォークもまた、第一の剣に連なる種族のひとつだ。ルーンフォークはほかの種族のように母親から産まれるのではなく、ジェネレーターと呼ばれる機械から生まれてくる。
生まれてきたルーンフォークは、すでに成人と同じ姿をしていて、それは死ぬまで変わらない。三百年前の〈大破局〉で滅びた
「ついこの間まで、ラージャハにいた。俺は奴隷だったんだ。主人から逃げてきて、西のマカジャハットに行くところだった。どこから来たのか知られるのが嫌だったんで、聞かれたときにあんな態度を取った。だが、お前を連れていったジジイ、いかにも怪しかったからな。少ししてあとをつけていったんだ。ヤツらの巣まで突きとめようとしたのは、いま思えば無謀だったかもしれないな」
「理由はなんだっていいよ。もし放って置かれてたら、僕は死んでたんだから」
「助けたのは優しさからじゃない。名をあげたかったんだ。そこのオーガも、あとで耳を切り取って、酒場のオヤジに見せてやろうと思ってる」
「名を? 名声ってこと?」
「そうだ。俺はいつか王になるつもりでいる」
「王様に?」
「そうだ」
「……すごいなあ!」
皮肉でもお世辞でもなかった。狭い村で育ったアルジェは、スケールの大きな出来事や考え方に、ほとんど無条件で尊敬の念を抱くのだ。
「ごく最近できた目標だから、他人に話したのはこれがはじめてだ」
アルジェの反応は子供っぽいものだったが、ムーンはまんざらでもなさそうだった。
「笑われなくてよかった。アルジェ、お前はコロロとかいう人間を捜してるんだったな。どういう間柄なんだ?」
「それは――」
アルジェが口を開きかけたとき、それまで身づくろいをしていた女性が戻ってきた。
「あらふたりとも、もともとの知りあいじゃなかったんですね。てっきり禁断の関係にある若者同士が、人目を忍んで逢瀬を……というのは冗談として、すみませんが、改めて自己紹介をお願いできますか? 私はバナフサージュ。風と雨の女神フルシルに仕える旅の神官です」
土色のローブを纏った女性は、そう言ってにっこりと微笑んだ。薄い金髪の下にある顔は白く、瞳は髪飾りと同じく美しいスミレ色。細身で若々しい身体つきだが、どこか老成したような雰囲気もある。
乞われるままに名乗ったあとで、アルジェは彼女の髪飾りから、本物のスミレのにおいがすることに気づいた。
「その花って、本物?」
アルジェは尋ねた。
「はい。これは私の花です」
会話が食い違っているような気がする。アルジェは首を傾げた。
「なんたって、私はメリアですから。このあたりだと珍しいかもしれませんね」
バナフサージュはどこか誇らしげな口調で言った。彼女によれば、メリアは人族の中でも変わり種で、植物が第一の剣の加護を受けて誕生した存在であるとのことだった。
人口はそう多くないが、アルフレイム大陸の北部や東部ではよく見られる。三百年ほど生きる長命種――バナフサージュはこちら―――と、十年ほどの寿命しか持たない短命種とに分かれており、どちらも見た目は人間とほとんど変わらないが、身体の一部に花が咲いていて、判別の手掛かりとなる。
「年齢としてはあなたたちよりもだいぶお姉さんですが、種族の中ではほんの小娘に過ぎません」
メリアのバナフサージュ。ルーンフォークのムーン。さきほどのオーガを加えると、アルジェは今日という一日で、三種類もの他種族と相まみえたことになる。
これまでの十四年間、僕はなんて狭い世界に生きていたんだろう。
「げほっ、げほっ、げほっ!」
しばらく気を張っていた反動がきたのか、咳の発作が襲ってきた。バナフサージュが救命草を持っていたので、泉の水でそれを煎じ、飲ませてもらった。いつもは沼ニンジンの粉末を茶にするのだが、村を出てきたときは慌てていたので、持ちあわせがない。そもそも街はずれでオーガに不意打ちされたとき、ほとんどの荷物を落としてきてしまっていた。
アルジェは木の幹にもたれてしばらく休みながら、立ち働くバナフサージュの姿をぼんやりと眺めていた。彼女はムーンの手も借りてオーガたちの死体を並べ、弔いの儀式をおこなっていた。
「こっちを殺そうとしてきた敵にも慈悲をかけるのか?」
ムーンが言った。
「おや、案外物知らずですね。これは慈悲による行為ではありません。ちゃんと弔っておかないと、アンデッドになる危険があるからですよ」
バナフサージュが答えた。彼女は首からペンダントを外し、それを手に持ちながら、死体を前にして祈りの文句を唱えはじめた。正式な神官の手によって弔われた魂は輪廻に加わり、また別の生命としてこの世界に戻ってくる。
蛮族の魂は、やはり蛮族に生まれ変わるのだろうか? もし自分がオーガに殺されていたら、きっと弔いなどされなかっただろうし、あまりの無念からアンデッドになっていたかもしれない。アルジェは改めて、ムーンとバナフサージュの助けに感謝した。
穏やかな祈りが、子守歌のように響く。それを聞いているうち、アルジェは強烈な眠気に襲われた。思えば村を出て以降ろくに眠っていない。
早くコロロ先生を捜さないと。でも、あんなに危険な目に遭ったんだ。もう少し、もう少しくらいは、休んでもいいだろう。
アルジェは木漏れ陽に師の面影を追い求めながらも、結局はまぶたの重みに降参し、そのうちにすうすうと寝息を立てながら、三日ぶりの安寧に身を浸した。
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