炎の色は -4-

 越してきてから少しの間、コロロは新しい暮らしへの戸惑いを見せていた。しかしひとたび慣れてしまったあとは、まるでずっと前から住んでいたかのように、平穏な生活を営むようになった。


 彼女はユーシズとマカジャハットで仕込んだ医術と薬草術でもって、村人たちの病気を診たり、怪我の手当をしてやったりした。


 もともと、サフラ村には樹神ダリオンの神官がいて、神聖魔法で病気や怪我の治療をおこなっていた。しかし彼はすでに老境であったため、コロロに役目を奪われたと憤るより、負担が減ったことを歓迎している様子だった。


 コロロの主な生計の手段は、治療の礼にと村人から分けられた食料や、行商に薬を売って得たガメル銀貨や、小さな畑で収穫した野菜などだった。コロロはあまり社交的な性格ではなかったが、村人たちは彼女に好感を持ち、なにかと世話を焼き、村の一員として難なく受け入れた。


 そんな彼女が住む庵に、アルジェは足繁く通った。コロロが言った通り、魔術の習得は新しい言語の身に着けることからはじまった。アルジェはこのときリカント語と交易共通語の勉強もしていたので、一気に三つの言語を詰め込むことになった。加えて算術や歴史などの勉強、家事の手伝いなども変わらずに続けた。


 魔術の基礎を習得するのは、アルジェが当初想像したよりもはるかに大変だった。それはユーシズの学院でみっちり一年かけておこなうような内容であり、要求される理解力も、基本的な読み書き計算より遥かに高度なものだったからだ。


 こんな調子では、何十年たっても魔術師になどなれないのではないか。学びはじめたころ、アルジェは何度も自信を失くしかけた。しかし、コロロが弟子の才能を腐すことは決してなかった。それどころか、学び続け、研鑽を積み続ければ、必ずや優れた魔術師になれるだろう、と請けあった。


 庵での勉強は一日おきで、一回につき三時間程度で終わったが、アルジェは少しでも長くコロロと一緒にいようとして、さまざまな手伝いを申し出た。掃除をしたり、かまどの番をしたり、薬種の簡単な加工をしたり、農具を振るって庵の前に畑を作ったりした。


 元来人見知りのアルジェが、ここまでコロロに懐いたのは、おそらく彼女がひとりの個人としてアルジェを尊重したからだろう。言葉遣いこそ親しげでも、過度な世話は焼かず、対等な存在として、礼節を持って接したからだろう。


 家での仕事と、庵での仕事。少し前までのアルジェには、到底考えられない、活発な生活だった。たとえ二、三日続けられたとしても、すぐに疲れ果て、咳がとまらなくなり、熱を出して寝込んでいたはずだ。


 しかし沼ニンジンの処方が功を奏したのか、アルジェはコロロが来る前に比べてずっと健康になった。平均よりも虚弱なのは相変わらずだったが、成人まで生きられないのではないか、という家族の心配を払拭する程度には、ふつうの身体に近づいた。


 そのような変化をもたらしてくれたコロロは、アルジェにとって単なる教師以上の存在だった。健康になる助けをしてくれた恩人であり、新しい世界の案内人であり、優しい姉代わりであり、そしておそらくは、淡い初恋の相手だった。


 アルジェがはじめて魔法を使ったのは、コロロと出会ってから四年が経ったころだった。何十回もの失敗のあと、指先にともった小さな光を、アルジェは何時間も飽きずに眺めた。


 自分は魔術師になったのだ。何者にもなれないと思っていた、この自分が。


 その翌々日、庵を訪れたアルジェに、コロロは卵くらいの小箱を手渡した。


「私からのプレゼントだ。少し前に注文して、昨日届いた。開けてごらん」


 中に入っていたのは、丸いガーネットがあしらわれた細い銀製の指輪だった。


「はじめて魔法を使った記念だ。気休め程度だが、守りの魔法がかけてある。いつか誰かの悪意に晒されたとき、これが君の助けになるかもしれない」


「ありがとうございます、先生」


「でも、慢心してはいけないよ。君はまだ、迷宮の戸口に立ったばかりだ」


 アルジェは陽光の差し込む窓辺で、その立派な贈り物が煌めくさまに見惚れた。


「身体が大きくなったら、すぐに入らなくなってしまうかもね」


「そうなったら、打ち直しますよ。ずっと大切に使います、先生」


 アルジェは幸福だった。この指輪と身につけた魔法があれば、どんな困難でも乗り越えていけるような気がした。


 今日は間違いなく、人生最良の日だ。


       *


 アルジェがコロロと出会ってから、六年が経った。


 当時八歳だったアルジェは、十四歳になっていた。兄たちほどではないにせよ背も伸び、コロロと同じくらいまでになった。痩せているのは相変わらずだったが、枯れ枝のよう、と評されることはなくなった。耳の丸みも取れ、尻尾の毛も豊かになった。


 ある日、アルジェがいつものように庵を訪れると、すぐ外に大きな黒い馬が繋がれていた。村の農耕馬や荷馬よりも毛並みが艶やかで、よく訓練されていそうだった。


「こんにちは。君はどこから来たの?」


 アルジェが馬の首を撫でていると、庵から黒い外套を纏った人間の男が出てきた。年齢は三十歳ほど。体格はがっしりしていて、目つきも鋭かった。


「あ、ご、ごめんなさい。立派な馬ですね」


 馬から離れたアルジェは、愛想笑いをしながら言った。怒られるのではないかと思ったが、男は特に頓着した様子もなかった。彼は無言のまま馬に跨ると、さっさとその場を離れてしまった。そのにおいや所作は、なんとなくアルジェを不安にさせた。


 薬を求める村人や、行商が客として庵を訪れることはある。しかし、ああいった雰囲気の人物は見たことがない。とはいえ、暴力や興奮を示唆するにおいは発せられていなかった。少なくとも、押し入り強盗というわけではなさそうだ。


 そういったことを考えつつ、アルジェは庵の扉を開いた。


「先生、おはようございます」


「……ああ、アルジェ。おはよう」


 コロロは椅子に座ったまま、なにか考え事をしていたようだった。彼女の手には、さきほどの男から渡されたのであろう手紙があった。


「いまの人はお客さんですか?」


「うん。昔の仕事のことで、ちょっとね」


 彼女の声音には、明らかに詮索を拒むような響きがあり、アルジェはそれ以上尋ねることができなかった。すぐ日課に関する事柄に話題を移し、外套の男と手紙については気にしないようにした。


 アルジェが魔術について学ぶべきことはまだ多くあった。しかしここ一、二年の間、習得の速度は芳しくなかった。手に入る書物が限られていたからだ。基礎の部分についてはコロロの説明のみでも理解できたが、ある程度高度なものになると、やはり体系だった教科書が必要になってくる。


 しかしそのような書物はかなりの大都市でなければ扱っておらず、近くの街で見つかったとしても、手が届かないほど高価だった。


 一方で医術や薬草術に関しては、村の神官も多少の書物を所蔵していたため、比較的容易に知識を得ることができた。したがって最近のアルジェは、もっぱらそれらの習得に力を入れていた。


 今日も乾燥させた沼ニンジンを加工して、粉薬を作る予定でいた。これはアルジェが普段飲んでいるもので、主に滋養強壮の効果がある。材料の調達が容易で、リカントの体質にも合っているらしく、村人たちにも評判がよかった。


 ごりごりと材料を挽く音が響く間、コロロはひと言も発することなく、深い物思いに沈んでいた。途中、アルジェがちらりと伺った彼女の横顔は、不安と憂いの色を帯びているように見えた。


       *


 次にアルジェがコロロを訪ねたのは、外套の男を見かけた翌日のことだった。


 いつもなら特段の理由がない限り、アルジェが二日連続して庵に通うことはない。魔法以外の勉強や家の仕事もしっかりこなすというのが、六年前にコロロと交わした約束だったからだ。


 しかしアルジェは今回、意味もなく習慣を破ったわけではない。前日に見たコロロの物憂げな表情が、どうにも気にかかっていたのだ。


 あの外套の男がもたらしたのは、もしかすると相当に悪い報せだったのではないか。昼間に植えつけられた不安の種は、夜の間に芽を出し、茎を伸ばし、アルジェの神経をざわざわと騒がせた。それでも翌朝まで訪問をためらっていたのは、コロロの表情以外に確たる根拠がなかったからだ。


 もしかしたら、全然大したことじゃないかもしれない。僕の思い過ごしかもしれない。でも、それならなんの問題もない。君はそそっかしいな、と先生に笑ってもらえばいい。くだらない心配をするな、と叱られても構わない。


 だから神様、願わくば、この生活をもう少しだけ――


 アルジェが庵の扉を開くと、中には誰もいなかった。


「先生」


 答える者はなかった。


「コロロ先生!」


 もしかすると、近くの川へ水を汲みに行っているだけかもしれない。早くから薬草を取りに出かけているだけかもしれない。しかし、そんな希望をあっけなく消し去るようなものが、テーブルの上にあった。書置きだ。


『しばらく庵を離れます。心配しないように』


 間違いなく、コロロの文字だった。半ば予期しつつ、しかし信じられない思いで、アルジェは書置きを見つめた。それまでただの不安であったものが、哀しみや、怒りや、焦りといったものに変化して、アルジェの心を暴風のようにかき乱した。


 先生。先生。どうしてそんなことを言うんですか。心配するなと言うのなら、どうして理由のひとつも伝えてくれないんですか。困ったことがあるのなら、どうして僕に相談してくれないんですか。僕が頼りないのは分かっています。でも、なんにも言わずに出ていくなんて、あまりに薄情じゃないですか。


 先生。コロロ先生。


 気づかぬうちに目から溢れ、頬を伝い、顎からしたたり落ちる涙を、アルジェはごしごしと拭った。


 コロロ先生はいつ出かけたのだろう。昨日自分が帰ったあと、すぐに庵を発ったのだとしても、半日より前ということはないはずだ。


 いまならまだ追いつけるかもしれない。


 コロロになにか困難があったことを、アルジェは疑わなかった。それが並大抵の事柄ではないことも、直感的に分かった。不肖の弟子がひとりいたところで、大した助けにはならないに違いない。しかし、それでも……。


 アルジェはすぐに家へと取って返し、そのままろくな準備もなく村を出た。家族の制止も聞かず、事情もほとんど説明せずに、ただ師の姿を求めて、生まれ育った村をあとにした。


 露に濡れた新緑のかぐわしい、静かな朝のことだった。

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