炎の色は -10-

 ひとまずレイスの脅威から逃れた一行は、神々を象ったレリーフの下に腰をおろし、怪我の手当をすることにした。強酸の霧によってアルジェの皮膚はところどころ赤く炎症を起こし、鼻や喉の内側もひどく腫れ、胸にも強い痛みがあった。ムーンとバナフサージュはそれよりも軽傷だったが、あと十秒長く霧に晒されていたら、命がどうなっていたか分からない。


 外傷には救命草をよく揉んで貼りつけ、内部のダメージにはバナフサージュの神聖魔法を使った。ようやく人心地ついたあとで、一行は砦を離れる方法について話しはじめた。


「もう一度レイスに遭遇すれば、今度こそ命はありません。落ちてきた穴から出るのは危険ですね」


 バナフサージュが言った。


「助けの来る見込みがないなら、籠城しても仕方がないな。生き埋め覚悟で、外に向かって坑道でも掘るか」


 ムーンが言った。


 アルジェもなにか案を出そうと思い、うんうん頭をひねっていると、ふと獣臭が鼻についた。酸による負傷から回復したことで、嗅覚が戻ってきたのだ。


「なにかいる」


 さきほどの恐怖が蘇ったのか、ムーンとバナフサージュの顔が一気に強張った。アルジェは彼らを宥めつつ、口に指を当てて沈黙を促した。耳を澄ませ、あたりにひそむ何者かを探す。


 そう広くはない空間。アルジェはすぐに気配のもとを見つけた。


「コボルドだ」


 瓦礫に胴体を挟まれるような形で、一体のコボルドが倒れていた。床が崩落したとき下にいて、運悪く巻き込まれたのだろう。


 コボルドは完全に気絶していたが、まだ生きていた。怪我も致命傷というほどではない。適切な手当を施せば、助けてやることができるだろう。


「蛮族ですか……どうします?」


「大した害にならないなら、放っておけばいいだろう。それとも、いざというときの食料にするか?」


 バナフサージュとムーンは、コボルドを助けることに消極的だった。しかしアルジェは、この小柄な蛮族に哀れを催した。サフラ村では駆除の対象だったが、それは家畜や農作物を狙うからだ。いま目の前にいるコボルドは、ただ平和に暮らしていただけかもしれない。


 それにコボルドは従順な種族だ。命を助けてやれば恩を感じて、現状を打開する役に立ってくれるかもしれない。


「ねえ、手当してあげてもいいかな……。この場所とか、レイスについて、なにか教えてくれるかもしれないよ」


「尋問するということだな」


 ムーンが物騒なことを言った。


「いや、そうじゃなくて……」


「あまり蛮族に情けをかけるというのも考えものですが、まあ、わずかでも手がかりが得られるなら、やってみてもいいですね。少なくとも、このコボルドがアンデッドの味方ということはないでしょう」


 完全な善意からというわけではないものの、一行は気絶したコボルドを介抱してやることにした。アルジェが余った救命草で外傷を手当し、バナフサージュが神聖魔法で意識を回復させる。


 魔法をかけられたコボルドはすぐにまばたきをはじめ、やがてはっきりと正気づいた。一行の姿を目にすると、怯えたような鳴き声をあげる。それから犬が服従を示すときのように、仰向けのままわずかに首を傾け、だらりと舌を出してみせた。


 バナフサージュが宥めるように言葉をかける。しかしそれはアルジェが聞き慣れた交易共通語でなく、ごく短い発音を二、三連続させた文から成る、やや耳障りな言語だった。


「蛮族の言葉が話せるのか」


 ムーンが言った。


「汎用蛮族語というヤツです。単語も少ないし、文法もあってないようなものなので、せっかくだからと勉強したことがあるんですよ。敵の言葉が分かれば便利でしょう? オーガ語とかドレイク語なんかはもっとずっと複雑なので、ほとんど話せませんけど」


 はじめのうち、コボルドはあまり芳しい反応を見せなかった。それでも、バナフサージュは辛抱強く話しかけ続けた。その甲斐あってか、コボルドはやがて警戒を解きはじめた。いまだ困ったような表情ではあるものの、ある程度冷静なやりとりができるようになった。


「ええと、彼はもともとゴブリン二体、コボルド二体から成るグループの一員だったようです。何日か前にここを当面のねぐらにしようと忍び込んだところを、怖いお化けに襲われた……と言っています。十中八九、私たちが遭遇したレイスでしょうね」


 コボルドが話したことを、バナフサージュが翻訳してみせた。


「彼は運よく逃げ出せたようですが……」


「どうして戻ってきたんだろう?」


 アルジェは尋ねた。バナフサージュがそれを汎用蛮族語に翻訳し、コボルドに尋ねる。


「友達がいるから、と言っています。ゴブリンたちは意地悪で、いつも自分たちをこき使っていたけれど、もうひとりのコボルドは友達だから、助けられないか様子を窺っていた、と」


「さっきゾンビになっていたコボルドだな。俺たちが殺したと伝えるか?」


「そんなこと言っても仕方ないでしょう。残念ながら亡くなっていたので、私たちで丁寧に弔ったと伝えます。これも別に嘘ではないですし」


 友人の死を知ると、コボルドは悲しげにうなだれた。それから緩慢な仕草で立ち上がり、空間の奥へと向かっていく。途中、アルジェたちを振り返り、クンクンと鼻を鳴らした。


「別の出口を教えてくれるつもりなのかもしれません」


 いまさら罠でもないだろうと判断した一行は、さほど警戒せずにコボルドのあとを追った。


「蛮族っていっても、人間と似てる部分もあるんだね。友情があったり、友達の死を悲しんだり……」


 コボルドの背を見ながら、アルジェは言った。


「似ているからこそ厄介なのですよ、アルジェ。人族と魚類が血みどろの争いを繰り広げないのは、生き方が大きく異なるからです。しかし人族と一部の蛮族は、あまりにも生き方が似ている。地上に住み、社会を作り、肉を食べる。剣の加護を受け、神々を崇める。


 ゆえに、我々は戦うよう運命づけられているのです。コボルドに情けをかけるくらいなら大したことはないですが、蛮族との融和は、かの始祖神ライフォスでさえ果たせなかった難事なのですよ」


「そういうものかなあ」


「まあ、ムーンみたいにあんまり好戦的なのも考えものですが」


「俺が好戦的だと思うなら、しばらくラージャハに住んでみるといい」


 ムーンが反論した。


「北の蛮族領からしょっちゅう侵攻を受けてれば、多少の情けをかけることさえ危険だと、嫌でも分かる。まあ、コボルドは街中にも多いから、俺もそれほど気にはしないが……」


 空間は思いのほか長く続いていた。おそらく天守キープの地下は単なる聖堂でなく、秘密の抜け道にもなっていたのだろう。


 そのまま進んでいくと、やがて崩落した土砂に埋もれた行きどまりに突き当たった。天井部分には小さな隙間があり、そこからわずかに陽が差し込んでいる。コボルドは不器用な仕草で瓦礫を足がかりにし、隙間からもぞもぞと外へ這い出していった。


 隙間はアルジェたちにとって狭すぎたので、通り抜けるためには土砂を崩さなければならなかった。十五分ほど慎重な作業をしたあとで、一行はようやく太陽の下へと出ることができた。


 そこは砦を囲む堀の外側だった。コボルドはすでにどこかへと去り、あたりでは木々の葉がさわさわと音を立てているだけだった。


 こうして命を拾った一行は、ふたたびレイスに見つかることのないよう、埃だらけ土だらけの身で、そそくさと砦をあとにした。

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