炎の色は -9-

 かつて隆盛を極めた魔動機文明アル・メナス。各都市は魔動列車の線路で繋がれ、離れた大陸の間には空飛ぶ魔航船が行き交い、先鋭した技術の指先は天球の外にまで届かんとしていた。蛮族は地上から駆逐され、人々が平和と繁栄を謳歌していた時代。


 しかしあるとき、蛮族が大規模な反攻に打って出た。世に言う〈大破局〉は、想像を絶する災厄だった。各地に在った都市はおろか、文明自体も完膚なきまでに破壊されてしまった。人族と蛮族の両陣営があまりに激しく戦ったせいで、山脈や大陸の形さえ変わってしまったという。


 最終的に、辛うじて――詳細はほとんど伝わっていない――蛮族を押し返した人族だったが、かつての栄華はすでに跡形もなくなっていた。そして受けた傷を癒す間もなく、蛮族の残党たちが跋扈する中、過酷な生存競争を強いられる……。


 そのような混乱期に造られたのが、いまアルジェの目の前に建つ砦だった。魔動機文明アル・メナス時代に在ったであろう、空を削るような高楼でも、堅牢な大要塞でもない。土を掘り、石を積んで造った素朴な防御施設。


「諸行は無常。あらゆる色もやがては褪せ、すなわちくうに還る、と」


 アルジェと同じような感慨を抱いたのか、バナフサージュが呟くように言った。


「おい、ふたりとも。ぼうっとするな。仕事だぞ」


 ムーンに怒られ、アルジェは現実に戻る。


 天守キープとなっている円塔は、周囲およそ百メートル。高さおよそ十五メートル。砦の敷地にも若干の建造物があったようだが、いまはほとんど瓦礫になっている。もし幽霊がいるのだとしたら、円塔の内部に違いない。


「ねえ、僕、防護の魔法かけられるよ」


 アルジェは申し出た。さきほどの戦闘であまり役に立たなかったことに、若干のうしろめたさがあった。


「ああ、助かります。私の神聖魔法は、万が一のために温存しておきたいですからね」


 アルジェが使えるのは初歩的なレベルのものだが、気休めにはなる。ふたりに魔法をかけると、身体の周囲が一瞬だけ光に覆われ、肌へ馴染むように消えた。アルジェは念のため自分にも防護を施し、砦に向き直った。


 建物の基部には抉れるような穴が空いていて、内部が半ば露わになっていた。進入は簡単そうだが、一行はひとまず警戒のため、外壁の陰から様子を窺った。


 ……ひとまず、それらしき姿はない。


「うーん。夜まで待ってみますか? すでに昇天してしまったとすると、無駄な時間になっちゃいますが……」


 バナフサージュがそう言いながら中へ入っていったので、アルジェとムーンもそれに従った。直径三十メートルほどの空間にはほとんどなにもない。ひんやりとした空気が、不吉な手つきで一行の肌を撫でた。


 この場所は妙に寒い。陽が差さないからといって、ここまで気温が低くなるものだろうか。


「上だ」


 そのとき、ムーンが鋭く囁いた。


 アルジェは彼の目線を追い――激しく慄いた。


 確かに、それは幽霊だった。しかしひと口に幽霊といっても、さまざまな種類のものがいる。比較的低級とされるゴーストから、神に近しい強力なものまで。


 いま、建物の天井付近に浮かんでいるのは、実体を持たないアンデッドの中でも、最上級に危険な種類のものだった。かつてアルジェが本で読んだ魔物の中でも、これにだけは出遭いたくない、と思う怪物だった。


「レイス!」


 バナフサージュが鋭く囁いた。彼女は神官としての知識から、当然に相手の正体を看破していた。間違いなく、その危険性までも。


「ひとまず、写すぞ」


 アルジェとバナフサージュが制止する間もなく、ムーンがマナカメラを操作した。チリン、と鈴を思わせる音が響く。


「さて、あとは――」


 そこまでして、ようやくムーンは敵の異様な圧力に気づいたようだった。

カメラの音に反応したのか、レイスは黒い靄状の身体を翻し、蒼ざめた顔をこちらに向けた。その眼窩に宿るのは、奈落アビスから汲んできたような極限の闇だ。


「逃げて!」


 バナフサージュが叫んだ。しかし、すべては手遅れだった。


 気づけば、アルジェたちの周りには麻痺性の霧が立ち込めていた。透明な、しかし異様な粘度を伴った魔法の霧。それは吸った者の行動を、その意思ごと阻害する強力な効果を発揮した。指一本を動かすのに、普段の万倍もの力が要る。


 霧はすぐに薄い黄緑色へと変化した。アルジェはそれが強力な酸だということに気づいた。目や鼻がちりちりと痛み、喉や肺が急速に侵されていく。


 しくじった。所詮は地上に出る幽霊と侮っていた。このままでは、自分が吐いた血に溺れて死んでしまう。


「神よ――」


 アルジェの傍らで、バナフサージュが喘いだ。彼女は床に手をついて、血を吐きながらなにがしかの魔法を使った。


 足元にかすかな衝撃。次いで、にわかに信じがたいことが起こった。床の石畳が音を立てながら、広範囲に崩落しはじめたのだ。


 支えを失って倒れ込みながら、アルジェは石に潰されないよう祈った。いや、このまま窒息死するくらいなら、ひと思いに圧死した方が楽かもしれない。


 幸か不幸か、アルジェが石の下敷きになることはなかった。そして空気がかき乱されたおかげで、毒性の霧がわずかに薄まったのを感じた。


 身体が動く。アルジェは激しく咳き込みながらも必死に四肢を動かし、崩れた石材の陰まで這っていった。


 本来、舞いあげられた塵芥も大きな瓦礫も、レイスから身を隠す助けにはならない。目も耳も鼻も――実体として――持たない幽霊は、生き物が持つマナの動きや量で存在を察知するからだ。


 床の崩落は、死をほんの少し先伸ばしただけに過ぎない。アルジェは身体を丸め、頭を庇いながら、しばらくの間は為す術もなく、ひたずら恐怖に震えていた。


 ……やがてあたりが静かになった。結局、死神はやってこなかった。


「アルジェ」


 近くから囁くような声が聞こえた。ムーンだ。


「アルジェ。どこにいる? 生きてるか?」


 ここだ、と答えようとして、アルジェは咳き込んだ。吐き出す飛沫には血が混じっている。


 物陰からムーンが出てきて、アルジェを支えた。


「バナフサージュは?」


「分からん。近くにいると思うが」


 ムーンは頭上に空いた穴に目を向けた。アルジェもそれに倣って天井を仰いだ。落ちたのは五メートルといったところか。ひとまず、レイスはどこかに行ったようだ。


「どうして……げほっ、僕たちを見逃したんだろう?」


「さあな。幽霊の考えてることなんてどうでもいい」


 アルジェとムーンはあたりを探し回り、しばらくしてバナフサージュを見つけた。彼女の上半身は瓦礫の中に埋まっており、腰から下が外に出ている状態だった。


 バナフサージュが死んでしまった! 哀しみと後悔で涙を流しながら、アルジェは彼女に縋りついた。しかしそのとき、突き出た両脚がもぞもぞと動き、瓦礫の中からくぐもった声がした。


「誰ですか、お尻を触ってるのは! 早く引っこ抜いてください!」


 バナフサージュは生きていた! アルジェとムーンが慎重に瓦礫を除けてみると、そこには埃で汚れながらも、まずまずは無事な上半身があった。彼女はゆっくりと身を起こし、何度か咳払いをしてから、血の混じった唾を吐いた。


「よく無事だったな。どういう魔法だ?」


「運がよかっただけですよ。ほかの瓦礫が支えになって、小さな空間ができたんです。ところで、レイスは?」


「どこかに行ったみたいだ」


 バナフサージュの無事を喜びながら、アルジェは答えた。


「ああいう手合いは生者に執着すると決まっていますが……。ひとまずはこれも幸運と考えましょう。本当に幸運ですよ。いったいなんでこんなところにいたのかは分かりませんが、レイスと遭遇して生き残るなんて、ティダンの神官戦士団でも難しいことです」


「まだ生き残れるとは決まってない」


 ムーンが言った。


「こんなところでお喋りしてて、敵が戻ってきたら目も当てられないぞ。ここは少し奥があるみたいだ。早く安全なところに移ろう」


 彼の勧めに従って、一行はそそくさと崩落現場を離れた。どうやらこの場所は自然の空洞でなく、もともと地下室であったようだ。


「砦に入ったとき、ちらりと階下への戸口らしきものが見えたので、もしやと思ったんです。とはいえ、ふつうは石の床をぶち抜くことなんてできませんから、やっぱり幸運でしたね」


 レイスの魔法に晒されたとき、バナフサージュは一か八かで床に向かって魔法を放ち、崩落を促すための衝撃を加えていたのだ。結果として、それが全員の命を救ったことになる。


「しかしこの場所は――おお」


 崩落現場から少し奥まった場所まで移動したあたりで、バナフサージュが声をあげた。


「見てください、これを」


 そこにあったのは、壁に刻まれたレリーフだった。太陽神ティダンに寄り添う月神シーン。その傍らに風と雨の女神フルシル。この三柱は司る物事こそ異なっているが、血を分けた家族であると伝えられている。


「この場所はきっと聖堂を兼ねていたのでしょう。敷地の面積は限られていますし、地上だと火や血で損なわれることもありますから。レイスが追いかけてこなかったのも、おそらくは……」


 バナフサージュは半ばで言葉を切り、自分と仲間を守ってくれた神々へ感謝を口にした。アルジェも見様見真似で祈りを捧げ、〈砂漠の真珠亭〉へ無事に帰還し、コロロ捜索が再開できるよう強く願った。

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