炎の色は -9-
かつて隆盛を極めた
しかしあるとき、蛮族が大規模な反攻に打って出た。世に言う〈大破局〉は、想像を絶する災厄だった。各地に在った都市はおろか、文明自体も完膚なきまでに破壊されてしまった。人族と蛮族の両陣営があまりに激しく戦ったせいで、山脈や大陸の形さえ変わってしまったという。
最終的に、辛うじて――詳細はほとんど伝わっていない――蛮族を押し返した人族だったが、かつての栄華はすでに跡形もなくなっていた。そして受けた傷を癒す間もなく、蛮族の残党たちが跋扈する中、過酷な生存競争を強いられる……。
そのような混乱期に造られたのが、いまアルジェの目の前に建つ砦だった。
「諸行は無常。あらゆる色もやがては褪せ、すなわち
アルジェと同じような感慨を抱いたのか、バナフサージュが呟くように言った。
「おい、ふたりとも。ぼうっとするな。仕事だぞ」
ムーンに怒られ、アルジェは現実に戻る。
「ねえ、僕、防護の魔法かけられるよ」
アルジェは申し出た。さきほどの戦闘であまり役に立たなかったことに、若干のうしろめたさがあった。
「ああ、助かります。私の神聖魔法は、万が一のために温存しておきたいですからね」
アルジェが使えるのは初歩的なレベルのものだが、気休めにはなる。ふたりに魔法をかけると、身体の周囲が一瞬だけ光に覆われ、肌へ馴染むように消えた。アルジェは念のため自分にも防護を施し、砦に向き直った。
建物の基部には抉れるような穴が空いていて、内部が半ば露わになっていた。進入は簡単そうだが、一行はひとまず警戒のため、外壁の陰から様子を窺った。
……ひとまず、それらしき姿はない。
「うーん。夜まで待ってみますか? すでに昇天してしまったとすると、無駄な時間になっちゃいますが……」
バナフサージュがそう言いながら中へ入っていったので、アルジェとムーンもそれに従った。直径三十メートルほどの空間にはほとんどなにもない。ひんやりとした空気が、不吉な手つきで一行の肌を撫でた。
この場所は妙に寒い。陽が差さないからといって、ここまで気温が低くなるものだろうか。
「上だ」
そのとき、ムーンが鋭く囁いた。
アルジェは彼の目線を追い――激しく慄いた。
確かに、それは幽霊だった。しかしひと口に幽霊といっても、さまざまな種類のものがいる。比較的低級とされるゴーストから、神に近しい強力なものまで。
いま、建物の天井付近に浮かんでいるのは、実体を持たないアンデッドの中でも、最上級に危険な種類のものだった。かつてアルジェが本で読んだ魔物の中でも、これにだけは出遭いたくない、と思う怪物だった。
「レイス!」
バナフサージュが鋭く囁いた。彼女は神官としての知識から、当然に相手の正体を看破していた。間違いなく、その危険性までも。
「ひとまず、写すぞ」
アルジェとバナフサージュが制止する間もなく、ムーンがマナカメラを操作した。チリン、と鈴を思わせる音が響く。
「さて、あとは――」
そこまでして、ようやくムーンは敵の異様な圧力に気づいたようだった。
カメラの音に反応したのか、レイスは黒い靄状の身体を翻し、蒼ざめた顔をこちらに向けた。その眼窩に宿るのは、
「逃げて!」
バナフサージュが叫んだ。しかし、すべては手遅れだった。
気づけば、アルジェたちの周りには麻痺性の霧が立ち込めていた。透明な、しかし異様な粘度を伴った魔法の霧。それは吸った者の行動を、その意思ごと阻害する強力な効果を発揮した。指一本を動かすのに、普段の万倍もの力が要る。
霧はすぐに薄い黄緑色へと変化した。アルジェはそれが強力な酸だということに気づいた。目や鼻がちりちりと痛み、喉や肺が急速に侵されていく。
しくじった。所詮は地上に出る幽霊と侮っていた。このままでは、自分が吐いた血に溺れて死んでしまう。
「神よ――」
アルジェの傍らで、バナフサージュが喘いだ。彼女は床に手をついて、血を吐きながらなにがしかの魔法を使った。
足元にかすかな衝撃。次いで、にわかに信じがたいことが起こった。床の石畳が音を立てながら、広範囲に崩落しはじめたのだ。
支えを失って倒れ込みながら、アルジェは石に潰されないよう祈った。いや、このまま窒息死するくらいなら、ひと思いに圧死した方が楽かもしれない。
幸か不幸か、アルジェが石の下敷きになることはなかった。そして空気がかき乱されたおかげで、毒性の霧がわずかに薄まったのを感じた。
身体が動く。アルジェは激しく咳き込みながらも必死に四肢を動かし、崩れた石材の陰まで這っていった。
本来、舞いあげられた塵芥も大きな瓦礫も、レイスから身を隠す助けにはならない。目も耳も鼻も――実体として――持たない幽霊は、生き物が持つマナの動きや量で存在を察知するからだ。
床の崩落は、死をほんの少し先伸ばしただけに過ぎない。アルジェは身体を丸め、頭を庇いながら、しばらくの間は為す術もなく、ひたずら恐怖に震えていた。
……やがてあたりが静かになった。結局、死神はやってこなかった。
「アルジェ」
近くから囁くような声が聞こえた。ムーンだ。
「アルジェ。どこにいる? 生きてるか?」
ここだ、と答えようとして、アルジェは咳き込んだ。吐き出す飛沫には血が混じっている。
物陰からムーンが出てきて、アルジェを支えた。
「バナフサージュは?」
「分からん。近くにいると思うが」
ムーンは頭上に空いた穴に目を向けた。アルジェもそれに倣って天井を仰いだ。落ちたのは五メートルといったところか。ひとまず、レイスはどこかに行ったようだ。
「どうして……げほっ、僕たちを見逃したんだろう?」
「さあな。幽霊の考えてることなんてどうでもいい」
アルジェとムーンはあたりを探し回り、しばらくしてバナフサージュを見つけた。彼女の上半身は瓦礫の中に埋まっており、腰から下が外に出ている状態だった。
バナフサージュが死んでしまった! 哀しみと後悔で涙を流しながら、アルジェは彼女に縋りついた。しかしそのとき、突き出た両脚がもぞもぞと動き、瓦礫の中からくぐもった声がした。
「誰ですか、お尻を触ってるのは! 早く引っこ抜いてください!」
バナフサージュは生きていた! アルジェとムーンが慎重に瓦礫を除けてみると、そこには埃で汚れながらも、まずまずは無事な上半身があった。彼女はゆっくりと身を起こし、何度か咳払いをしてから、血の混じった唾を吐いた。
「よく無事だったな。どういう魔法だ?」
「運がよかっただけですよ。ほかの瓦礫が支えになって、小さな空間ができたんです。ところで、レイスは?」
「どこかに行ったみたいだ」
バナフサージュの無事を喜びながら、アルジェは答えた。
「ああいう手合いは生者に執着すると決まっていますが……。ひとまずはこれも幸運と考えましょう。本当に幸運ですよ。いったいなんでこんなところにいたのかは分かりませんが、レイスと遭遇して生き残るなんて、ティダンの神官戦士団でも難しいことです」
「まだ生き残れるとは決まってない」
ムーンが言った。
「こんなところでお喋りしてて、敵が戻ってきたら目も当てられないぞ。ここは少し奥があるみたいだ。早く安全なところに移ろう」
彼の勧めに従って、一行はそそくさと崩落現場を離れた。どうやらこの場所は自然の空洞でなく、もともと地下室であったようだ。
「砦に入ったとき、ちらりと階下への戸口らしきものが見えたので、もしやと思ったんです。とはいえ、ふつうは石の床をぶち抜くことなんてできませんから、やっぱり幸運でしたね」
レイスの魔法に晒されたとき、バナフサージュは一か八かで床に向かって魔法を放ち、崩落を促すための衝撃を加えていたのだ。結果として、それが全員の命を救ったことになる。
「しかしこの場所は――おお」
崩落現場から少し奥まった場所まで移動したあたりで、バナフサージュが声をあげた。
「見てください、これを」
そこにあったのは、壁に刻まれたレリーフだった。太陽神ティダンに寄り添う月神シーン。その傍らに風と雨の女神フルシル。この三柱は司る物事こそ異なっているが、血を分けた家族であると伝えられている。
「この場所はきっと聖堂を兼ねていたのでしょう。敷地の面積は限られていますし、地上だと火や血で損なわれることもありますから。レイスが追いかけてこなかったのも、おそらくは……」
バナフサージュは半ばで言葉を切り、自分と仲間を守ってくれた神々へ感謝を口にした。アルジェも見様見真似で祈りを捧げ、〈砂漠の真珠亭〉へ無事に帰還し、コロロ捜索が再開できるよう強く願った。
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