炎の色は -16-

 ファルケスが警告するように唸る。見知らぬ利用者が押し開いた扉は、半ばで太い尻尾に防がれた。


 アルジェはパニックに陥りかけながら、〈名づけざられしかばね〉の上下巻を両手で掴み、ファルケスの傍らに置いてある麻袋に取って返した。


「ああ! ああ、すまない。少し居眠りをしていてね。いますぐに退くから」


 ファルケスがゆっくりと身体を伸ばし、盛大にあくびをして時間を稼いでいるうちに、アルジェは麻袋の中へ滑り込んだ。そして横たわった状態のまま、弦のないハープと書物をしっかりと抱えた。


「ファルケスどの。ここを休憩所かなにかと勘違いしておられるのですか?」


 入ってきた男が、甲高く耳障りな声で嫌味を言った。あまり親切な人物ではなさそうで、いささか気分を害してもいるようだが、どうやらアルジェの姿を見られることはなかったようだ。


「いや、失敬。メフルザッドどののお邪魔をするつもりはなかった。このひんやりとした床が気持ちよくてね」


「涼しい場所なら、ほかにいくらでもあると思いますが。ところで、その荷物は?」


 メフルザッドと呼ばれた男の視線を感じ、アルジェの手がじっとりと汗ばんできた。半端に掴んだ〈名づけざられしかばね〉の片方が、掌から零れ落ちそうになる。無理な姿勢でいるのもよくない。書物を放すまいとして力を入れるほどに、汗で濡れた革の装丁は滑りやすくなった。


「仕事の帰りでね。楽器を置いてくるのが面倒だったものだから」


 ずるり。


 手から書物が落ちた。さほどの高さではないが、メフルザッドの注意を引いたのは間違いない。


「……最近の楽器は動くのでしょうか?」


 まずい。アルジェは尻尾のつけ根を強張らせた。


「おや? うまく空気が抜けていなかったかな」


 次の瞬間、ファルケスの大きくて重い足が、アルジェの腹を押さえつける。


「海辺のエルフたちが使っていた楽器でね。袋から空気を送り出して、穴の開いた管から音を出すのだ。知っているかね? ふつうの笛は演奏しながら歌うことはできないが、これならば同時にこなすことができる。海エルフの吟遊詩人は――」


「ああ、結構、結構。音楽の話には興味がないので。昼寝が済んだなら、早々にお引き取り願えませんか」


「ふうむ。では、別の涼しい場所を探すとしよう」


 ファルケスはアルジェの上から足を退け、麻袋を拾いあげた。


「ごきげんよう、メフルザッドどの」


 陰険な魔術師はわざとらしいため息をついたが、それで終わりだった。彼はもはやファルケスに注意を払うことなく、自分の用事に取りかかったようだった。


 ひとまず、危ない局面は乗り切った。書物の紛失はいずれ気づかれるだろうが、アルジェはあまり深く考えないことに決めた。


「咄嗟に踏んづけてしまったが、大丈夫だったかな?」


 図書館から出たあとで、ファルケスが言った。


「……はい、なんとか」


 麻袋に入ったまま、アルジェは答えた。本当のことを言えば、息をするたびに肋骨のあたりが痛かった。巨躯のリルドラケンは軽く体重をかけただけかもしれないが、華奢なリカントにとっては、まるで倒木に巻き込まれたような衝撃だった。


「さきほどの男はメフルザッドという。かつてはジハーグ派に属していたのだが、どういうわけだか宮廷魔術師の職を解かれただけで、いまだ魔術師ギルドに留まっている。周到で執念深く、目をつけられると少々厄介だ。君がコロロフラムのことに関わるのであれば、注意しておくべきだろう。まあ、とりあえずのところは、露見せずに済んだだけで上々だ。せっかくだから、このまま〈砂漠の真珠亭〉まで運んでいってあげよう」


「助かります」


「うん、うん。約束のことは忘れないように。いますぐでなくとも構わないから」


 帰ったらバナフサージュに治療を受けて、さっそく書物の解読に取りかかろう。アルジェは麻袋が揺れるたび痛みに呻きつつも、図書館から持ち帰った成果の重みに満足していた。


       *


 半ば当て推量で選んだ〈名づけざられしかばね〉だったが、運よくその内容はアルジェの目的に適っていた。あとは書物を詳細に読み解いて、いまのコロロフラムを取り巻く問題を理解し、ジハーグへの対処を考えればよい。


 学び考えることへの意欲とともに、アルジェは歯がゆさも感じていた。もし自分が達人であったなら、わざわざ本を紐解かずとも、すぐにでも有効な手立てが取れたかもしれないのに。


 しかし、いまさら未熟を嘆いても仕方がない。


〈砂漠の真珠亭〉に帰り、ファルケスに踏まれた部分――バナフサージュの見立てによれば、肋骨にヒビが入っていたそうだ――の手当を受けたあと、アルジェは〈名づけざられしかばね〉を抱え、二階の部屋に籠った。


 寝台に腰をおろし、錆色の革表紙を開く。古びた羊皮紙のにおいとともに、交易共通語と魔法文明語、謎めいた紋章や図形で造りあげられた知識の迷宮が、アルジェの眼前に立ち現れた。


 肉なき命を現世に留める術。意思なき屍を下僕とする術。輪廻すべく定められた魂を、欲得や利便のために操る術。〈名づけざられしかばね〉に記されているのは、操霊魔法の中でも特におぞましい種類のものだ。しかしコロロフラムの助けとなれるのであれば、アルジェはどんな禁忌でも犯してみせるつもりだった。


 そして、アルジェは読んだ。


 魔導書を読み解くという行為は、魔術師でない人々が思うよりもずっと難しい。


 入門用と銘打たれ、もっぱら教育のために使われているものを別として、魔導書の文章は大抵、まるで読み手を試すかのように難解だ。一字一句の意味を噛み砕き、行間の空白にまでも喰らいつく意志のない者は、まずここで脱落する。


 また魔導書の内容は、膨大な理論を前提に書かれている。充分な基礎知識を持っていなければ、文章の字面を捉えることができたとしても、その意味を掴むことはできない。いままでの道程を付け焼刃でごまかしてきた者は、ここで脱落する。


 ようやく内容を呑み込みはじめてからも、読み手は試練に晒される。新しい魔術を学ぶということ自体が、読み手の精神に変容を強いるのだ。過去に培ってきた常識や価値観が解体されるのに耐えきれない者は、ここで脱落する。


 脱落するだけならまだいい。ときには魔術の道そのものを諦める者や、正気を失ってしまう者もいる。


 アルジェは読んだ。


 教師としてのコロロフラムは、サフラ村の老神官よりもよほど厳格だった。曖昧な理解をよしとせず、正答に至るまでの道筋を示さなければ、誤答も同じであるとされた。


 そしてコロロフラムは、なによりも基礎を重んじた。彼女曰く、木にのぼる者は早く高度を稼げるが、木の背丈以上にのぼることはできない。ひとつひとつ石を積み、塔を建てる者だけが、地平の果てを見ることができる。


 アルジェは読んだ。


 読みながら、コロロフラムに感謝した。〈名づけざられしかばね〉の内容に、なんとか喰らいつくことができたからだ。記されている魔術の仕組みや働きが――実践には遠く及ばなくとも――理解できたからだ。それは紛れもなく、サフラ村での数年間、役に立つのかどうか首をひねりながら、必死で身につけた基礎のおかげだった。


 何時間も何時間も、アルジェは読んだ。陽が暮れたあとは、ランプの火で手元を照らした。眠ることも忘れた。飲むことも食べることもしなかった。一度だけ小用を足したが、その間も口の中でぶつぶつと、本の内容を繰り返していた。


 この没頭をもたらした要因が、アルジェの素養や覚悟だけだったかどうかは、甚だ疑わしい。あるいは〈名づけざられしかばね〉や、そこに記されたおぞましい文章が、選ばれた読み手を不可視の触腕で捉え、自らが孕む闇を吸収させようと仕向けたのかもしれない。しかし、もしそうだったとしても、いまのアルジェにはむしろ都合がよかった。


 アルジェは読んだ。


 ようやく正気に戻ったのは、二巻のうちの片方を最後まで読み終え、裏表紙に挟まっていた小さな紙片に触れたときだった。


 バチッ、という音とともに紙片から火花が散り、アルジェの指先を焼いたのだ。


「いッ……」


 アルジェが驚いているうちに、紙片は青白い炎に包まれ、焦げ跡ひとつ残さずに消失した。


 ……いまのは、なんだったのだろう。


「アルジェ」


 呼びかけに顔をあげてみれば、部屋の入口に立つバナフサージュの姿があった。彼女が持っている皿の上には、焼き菓子が山と盛られている。


「返事がないので勝手に入りました。お勉強は結構ですけど、いい加減になにか食べないと……」


「いま、何時?」


「もうすぐ午後六時の鐘が鳴るでしょう。あなた、もう丸一日も本を読んでるんですよ。どこから手に入れてきたのか知りませんが、そんなに面白いんですか?」


 アルジェは咄嗟に書物を閉じ、表紙の上に両手を置いた。図書館に侵入したことを知られれば、なにを言われるか分からない。その様子を見て、バナフサージュは呆れたようにため息をつき、アルジェの横に腰をおろした。


「マカジャハット風のクッキーです。レッチェンさんと一緒に焼きました。はい、どうぞ」


 バナフサージュは皿から大きなクッキーを一枚取り、アルジェの口元に押しつけた。促されるままに齧ってみると、クッキーは意外に柔らかく、中には香辛料の効いたジャムが入っていた。


「自分で食べられるよ」


 さらに詰め込もうとするバナフサージュから身を引きつつ、アルジェは言った。


「一度鏡を見た方がいいですよ。ひどい顔ですから。あまり心配かけさせないでください。ムーンもどこかほっつき歩いてるし、まったく……」


 バナフサージュは一度部屋を出て、今度は紅茶のポットを持ってきた。彼女は執拗にクッキーを勧め、半ば無理やり食べさせられたアルジェが胸焼けを訴えるまで、決して満足することはなかった。

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