炎の色は -17-

〈名づけざられしかばね〉の上巻を読み終えたアルジェは、バナフサージュが去ってくれたのを幸いに、すぐさま下巻を紐解きはじめた。


 上巻までの内容に収穫がなかったわけではない。しかし、レイスへの具体的な対策の手がかりとするには――アルジェの未熟さを加味しても――不充分だった。


 最後まで読み通せば、きっと思いつくこともあるだろう。アルジェはふたたび知識の迷宮へともぐっていき、前回と同様に異様な集中力でもって、現世の雑音を意識の外に締め出した。ムーンが帰ってきたことも、彼が気を利かせてランプをともしたことも、ほとんど気がつかなかった。


 空腹や喉の渇きは忘れ去られた。眠気さえ忍び寄る隙がなかった。すでに一晩の徹夜を経ているにも関わらず、アルジェの目は冴えていた。はじめて魔法を使ったときでさえ、その日の夜半には眠っていたというのに。


 夕から宵へ。宵から深夜へ。日付が変わり、夜の住人たちが寝静まったあとも、アルジェは読み続けた。やがて空の濃紺が群青に変わり、淡い曙光が地平線を照らした。太陽がのぼり、人々が街に出て、物売りが声を響かせた。昼の住人たちが午前の日課を終えたあとも、アルジェは寝台の上で読み続けていた。彫像のように同じ姿勢で、延々と文字を追っていた。


〈名づけざられしかばね〉が上下巻にまとまっていたのは幸いだった。もしこれが百巻から成る大著であったなら、アルジェの払う犠牲は大きかっただろう。肉体の衰弱という点でも、精神の摩耗という点でも。


 ともかく、解読をはじめてから丸二日の時点で、〈名づけざられしかばね〉はあと数十ページを残すのみとなった。しかし、いよいよ最終章に至らんとしていたアルジェは、いきなり耳元で名を呼ばれ、はっと顔をあげた。


 気づけば、目の前にはムーンとバナフサージュが立っていた。


「アルジェ。お前に客だ」


「いま、読み物をしてるんだ。また今度にしてもらってよ」


 アルジェが言うと、ムーンは呆れ顔でため息をついた。


「そうか。なら、コロロフラム先生には出直してもらおう」


「先生が――」


 一瞬動揺しかけたものの、アルジェは辛うじて自制した。


「村に帰れっていう話なら、聞かないよ」


 もし、コロロフラムがオルドウィンを使って無理やり連行しようとするなら、爪や歯を使ってでも抵抗してやろう。アルジェがそのような態度を見せると、ムーンとバナフサージュは顔を見あわせ、お互いに肩を竦めた。


 いったん乱れた集中の糸をり直し、アルジェが解読に戻ろうとしたとき、戸口に姿を現す者がいた。


「図書館から本を盗んだな、アルジェ」


 コロロフラムだった。彼女の視線は、まっすぐ〈名づけざられしかばね〉に向けられていた。


「ファルケスさんから聞いたんですか」


 アルジェは言った。言ってから、以前に比べてずっと冷静な自分に驚いた。


「いいや、違う。呪いカースだよ。本に燃える紙片が挟まっていただろう。盗みを働いた者に罰を与え、その所在を知らせる魔術だ。ずっと昔、手慰みに作ったものだが……。まさか、いまになって役に立つとはね」


「僕を捕まえて、首を刎ねますか」


「そんなつもりで来たんじゃない。私は――」


「なら、もう用はないでしょう」


 数日前とは打って変わった弟子の態度に、コロロフラムは戸惑っているようだった。


「……怒っているのか、アルジェ。私を冷酷なエルフだと?」


「怒ってなんかいません。少なくとも、いまは。子供っぽく泣いたり喚いたりする代わりに、やるべきことを見つけただけです」


 コロロフラムは大きく息をつき、ぐったりとした表情で戸枠にもたれかかった。ここではじめて、アルジェは彼女の顔がひどく青ざめていることに気がついた。


「先生」


「大丈夫だ、少し……」


 そう言いながらも、コロロフラムは力なく膝を折り、ムーンとバナフサージュが支える間もなく、床に崩れ落ちてしまった。


「先生!」


 さすがに冷静さを保てず、寝台からおりて駆け寄ろうとしたアルジェだったが、自身もまた強烈なめまいを感じて、ぐにゃぐにゃとその場に倒れ込んだ。


 魔導書の解読に没頭し過ぎた代償として、アルジェはもはや指一本動かすこともできず、尻を突き出したような格好のまま、白目を剥いて気絶した。


       *

 

 アルジェを昏睡状態から引き戻したのは、焼けつくような喉の渇きだった。


 窓は開いているが、部屋は薄暗い。どれくらい眠ったのだろうか。


 ぎりぎり痛む頭を押さえながら身を起こすと、枕元に置かれた陶器の水差しが目に入った。


 アルジェは腕を伸ばしてそれを掴み、コップも使わずに中身を飲もうとした。水差しに入っていた水は、一部がアルジェの喉を潤し、一部が盛大に零れて服や寝具を濡らし、一部が気管に入って激しい咳の発作を引き起こした。


 ぜいぜいと息を整えているうち、バナフサージュが部屋に入ってくる。


「ようやく起きましたか。やれやれですよ、アルジェ」


「ごめんなさい」


「少しは正気に戻ったようですね。あなたが読んでいた本はいま、ベイグルさんに預かってもらってます。まさか盗品だったとは……。まあ、それについてはあとで考えましょう」


「先生は?」


「教えません」


「意地悪しないでよ」


「しっかり食事を摂ったなら、教えてあげます。いいですね。先生を助けたいという志はご立派ですけれど、自分が倒れちゃったら、元も子もないんですからね」


「ごめんなさい」


 バナフサージュの言う通りだった。魔導書を読み切るのはあくまでも手段だ。うまい策を考えついたとしても、それを実行する元気がなければ意味がない。


 とはいえ、〈名づけざられしかばね〉を必死に読み込んだおかげで、魔術師の肉体をレイスに変える方法については、おおまかに理解することができた。


 しかしレイスへの効果的な対処については、まだアルジェの中で明確な形を成していなかった。


 やはり、そう簡単な話ではないか。


 ひとまず、アルジェはバナフサージュに監視されながら食事を摂った。柔らかく煮込まれた羊のスープが、飢えた肉体に染み渡る。


「あなたが倒れたあと、私たちは宮殿に使いを遣って、コロロフラムさんを迎えにきてもらいました。彼女もいまごろは、ゆっくりと療養していることでしょう」


 バナフサージュはムーンの寝台に腰かけ、抑制的な口調で説明しはじめた。


「容態については、なんと言えばよいか……。少なくとも、あなたの知らない不治の病に侵されていた、ということはありません。どうもジハーグに受けた呪いを介して、悪影響を受けているようです」


 介して、という言葉に引っかかり、アルジェはその意味するところを尋ねた。


「私にも、詳しいことは分かりません。コロロフラムさんは、魔術的な繋がり、とかなんとか言ってましたが」


「……多分、ジハーグはコロロ先生の身体を乗っ取ろうとしてるんだ」


 アルジェは言った。


「操霊魔法では、そんなことが可能なのですか?」


「理屈の上ではできるはずだ。昨日まで読んでた本にも、似たような魔術が載ってた。もちろんすごく高度なことだけど、自分をレイスに変えられるほどの操霊術師なら、難しくはないと思う」


「コロロフラムさんは、それを防げますかね?」


 アルジェは小さくかぶりを振った。たとえコロロフラムが万全だったとしても、話を聞く限り、魔術師としてはなおジハーグの方が格上だ。呪いで力を抑えられ、それを媒介として苦しめ続けられているような状態では、長く耐えることすら難しいだろう。


 そして宮廷の内外にひそんでいるジハーグ派の存在が、状況をより厄介なものにしている。問題を公にすれば、彼らは必ずや妨害に出るだろう。悪くすれば、せっかく収まった内紛が、ふたたび勃発する事態になりかねない。


 僕がコロロ先生ならばどうするだろう? 冷静で合理的な先生ならば――


「帰ったぞ」


 そのとき、いままで出かけていたらしいムーンが戻ってきた。彼はまっさらな布で包まれた、短い棒のような荷物を持っていた。


「どこに行っていたんです?」


「目当てのものを買いに」


 そう言うと、ムーンはアルジェの寝台の上に、布包みを置いた。


「解いてみろ。中のものには直接触るなよ」


 なにか危険なものだろうか? アルジェは慎重な手つきで、包みを開いていった。


「……さすがはマカジャハット。こんなものまで売られているとは」


 近寄って中身を覗き込んだバナフサージュが、感心したように言った。


「最低でも六千ガメルはくだらないはずですが、盗んできたんじゃないでしょうね」


「まさか。ベイグルのじいさんに頭をさげて、金を借りたんだ。コトが済んだらコロロフラム先生からお駄賃を貰って、上等なワインつきで返すと言った。どうだ、アルジェ。役に立ちそうか? 偽物なら、いますぐ商人の頭を叩き割ってくるが」


 これまでに実物を見たことはなかったが、アルジェは目の前にある品のことを、知識としてよく知っていた。うまく使えれば、コロロフラムを助けるための強力な武器になるだろう。


「本物なのは私が保証しましょう。しかし、状態はあまりよくないでしょうね。一度使えば壊れてしまうかも……」


「それでも」


 アルジェは言った。頭の中で、ひとつの作戦が形を成しつつあった。


「役に立つと思う。コロロ先生と話してみよう」

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