咎人が見た月 -14-

 アマを守らなければならないという義務感から、アルジェはガーニムの前に立ち塞がった。しかし私兵たちの中でもとりわけ屈強なこの男は、細っこいリカントなど問題にもしていないようだった。


 無造作に振り抜かれた拳で側頭部を打たれたアルジェは、首がもげそうになるほどの衝撃を受けて、壁に叩きつけられた。全身から力が抜け、呼吸もままならない。鼻から流れ出したものが口に入り、吐き気を催させる。


「アルジェ!」


 バナフサージュが叫ぶ。その声も、ぐわんぐわんと歪んで聞こえる。


 素手の一撃でもこの暴威。アルジェたちにとってなお悪いことに、ガーニムは武器を手にしていた。ふつうの人間ではまともに扱うことも難しい、重量のある肉厚の曲刀シャムシール


 ムーンとバナフサージュが駆けつける前に、ガーニムは腰が抜けているアマの胴体に腕を回し、自分の方に引き寄せた。彼女は恐怖で声も出せないまま、あっけなく人質となってしまった。


「大事な妹をブチ殺されたくなかったら、武器を捨てて素直に降参しな」


 体躯に見合った野太い声で、ガーニムは言った。


「お前にしては、小賢しい手だな」


 低く落ち着いた声でムーンが応じる。表向き、彼に動揺はない。必死に押さえつけているのか、あるいはすでに覚悟を決めているのか。


「いや、よく考えればいつも通りか。お前はいつも、安全で有利な立場から攻撃するのが好きだったな。図体の割に卑怯で小心。それで豪傑気取りとは、笑わせる」


「木偶野郎がいきがるんじゃねえ」


 ガーニムがアマを捕まえた腕に力を込める。これ以上の挑発は危険だ。


「俺のうしろに、お前の雇い主が倒れてる」


 ムーンが言った。ガーニムがぴくりと反応する。


「用心棒の立場ってのは、どんなもんだ? 使用人や奴隷を好き放題にいじめられて、お前はさぞ気分がいいだろうな。だが、俺がティップ・ティンの頭を叩き割れば、その生活も終わりだ。二度も主人を殺させた用心棒なんて、誰も雇っちゃくれない。露頭に迷ったら、野盗にでもなるか? 前にも似たようなことをやっただろう」


 ガーニムが不愉快そうに鼻を鳴らした。


「身柄の交換でもしようってか? この女を連れて、無事に館を出たいって?」


「それもいいと思ってたが……」


 ムーンの言葉に含まれたわずかな間。遅ればせながら、アルジェはその意図に気づいた。彼は時間を稼いでいる。ガーニムの死角にいる者が、魔法を使えるまでに回復するのを待っている。


 胸に宿った意志がマナの流れとなり、苦痛を押し流していくのを感じた。がくがくと覚束ない腕を掲げ、アルジェはとっておきの魔法文字を描いた。詠唱の声は、傷ついた私兵たちの呻き声に紛れる。


 お前が最初に武器を使っていれば、これを食らうことはなかった。僕を舐めた報いだ。


 詠唱が結ばれるのと同時、切り裂く不可視の刃がガーニムの足元に現出した。それは音もなくその腿に食い込み、鋭く深い傷を負わせた。動脈から血が噴き出し、筋肉から力が失われる。


 わずかな隙を見計らって、アマが拘束を脱した。ガーニムはそれを追わなかった。彼が怒りを向けたのは、いましがた自分に痛みを与えたアルジェだ。


「やりやがったな」


 腿に撃ち込んだ魔法の威力は、常人ならまず立っていられないほどだ。しかしガーニムの耐久力はアルジェの想定をはるかに超えていた。巨躯が振り返り、曲刀シャムシールがぎらりと光る。分厚い鋼が狙うのは、もはや精魂尽き果てた魔術師の首。


 しかし、アルジェは恐れなかった。仲間が助けてくれるのを信じていたからだ。


 果たして一足飛びに駆けてきたムーンが槌鉾メイスを振りかざし、ガーニムの背に強烈な打撃を見舞った。


 雄牛のような身体がつんのめり、石壁に激突する。アルジェの頭上に、埃や欠片がぱらぱらと降ってくる。


 それでも、ガーニムの戦意は萎えなかった。彼は素早くムーンに向き直ると、唸り声をあげながら猛然と攻めはじめた。闇夜の中庭で次々と描かれる斬撃の弧。ひとつでもまともに受ければ、即死は免れない。


 ムーンは重量と膂力の不足を技量と気迫で補い、慣れない槌鉾メイスを巧みに振るった。背後にいるアマと、彼女を守るバナフサージュのために、一歩も引きさがることなく、致命の連撃を捌き続けた。


 激しい打ちあいのさなか、まず限界を迎えたのは武器だった。ふいに詰まったような音が響いたかと思うと、ムーンの握る槌鉾メイスの柄がぽっきりと折れた。


 しかしガーニムの得物も無事には済まなかった。彼が好機と見て振りあげた曲刀シャムシールの刃は、半ばから先が失われていた。


 もちろん、それで終わりにはならなかった。ムーンは武器を捨て、格闘を挑んだ。ガーニムも折れた曲刀シャムシールに固執しなかった。ふたりの戦いは、互いに両手を掴みあう姿勢で、束の間の均衡を見た。


「おとなしく帰ろうと思っていたさ。お前の顔を見るまでは」


 荒い息を吐きながら、ムーンが言った。


「だが、もう引きさがれない。お前が五年前に犯した罪の対価を、いま、この場で、残らず支払わせる。お前の身体に流れるの血で贖わせてやる」


 ムーンが満身に力を込めると、ぎりぎり、みしみしと、ガーニムの骨が軋んだ。巨躯が強張り、毛深い背中から汗が噴き出す。


 このままではねじ伏せられると思ったのだろう。ガーニムは破れかぶれの頭突きを繰り出し、ムーンの胴体を太い脚で蹴りつけた。手の握りが弱まったところで力比べを放棄し、仕切り直しとばかりに、低い姿勢で突進する。押し倒して、体重の利を生かすつもりだ。


 もしもガーニムが万全であったなら、この試みは成功していたかもしれない。しかし彼は怒りと熱狂のあまり、アルジェから受けた傷の深さを忘れていた。


 ムーンが突進を受けとめる。ガーニムは獣のように吠えたが、それはやがて苦しげな吐息に変わった。彼は体重差で圧倒するどころか、逆に腹を蹴りあげられ、自らの血でぬるつくタイルの上に膝をついた。


 それでも、ガーニムは執念を見せた。彼は足元に落ちていた短剣を拾うと、ムーンの脇腹を狙った。


 しかしもはや劣勢は覆せなかった。ムーンは素早く身を引いて刺突を躱し、無防備なガーニムの顔面に渾身の蹴りを叩き込んだ。


 踏ん張ろうとして足を滑らせ、倒れるガーニム。彼が落とした短剣は、いつのまにかムーンの手に握られている。


 ガーニムがなにごとか言った。しかし、ムーンがそれを意に介す様子はなかった。短剣の刃が閃き、少しして、ごぼごぼと泡立つような音が聞こえてきた。


 ガーニムの巨躯はしばらくもがいていたが、やがてぐったりと動かなくなった。


 これ以上、増援が現れる気配はない。使用人や奴隷たちは、ほとんどが目を覚ましているだろう。しかし各々の部屋で息をひそめ、関わりあいを避けることに決めたようだ。


 戦いは終わった。


 気づけば、バナフサージュがすぐ傍にいた。アルジェはわずかに身をもたげ、なんとか強がってみせたが、無理をするなとたしなめられてしまった。


「ごめんよ、僕、あんまり役に立たなくて――」


「なにを言ってるんですか。あなたがいなければ、こんなに無茶な仕事はできませんでしたよ。おかげでみんな、五体満足に済みました。……頑張りましたね、アルジェ」


 神聖魔法による治療を受けたあと、アルジェはバナフサージュの手を借りて立ちあがった。ガーニムの死体が転がっている場所では、ムーンがさきほどとは打って変わった穏やかな声で、アマに館を離れようと働きかけているところだった。


「アマ、あとのことはなにも心配いらない。なにが起こっても、俺が守るから」


「でも、ここを出て、どこに行けばいいの?」


「マカジャハットへ。いいか、俺たちが奴隷だなんていうのは、商人どものたわ言だ。俺たちはどこにだって行けるんだ。もう侮辱されるのを我慢しなくたっていい、仕事だって好きなものを選べるさ。だからいままでの生活は捨てて、ここを出よう……」


 本当はもっと大事な理由がある。しかし、それを短い時間で説明するのは難しい。あまり悠長にしていれば、騒ぎを聞きつけた街の衛兵たちがやってきて、すべてが水の泡になってしまうだろう。もしもアマが納得しないようなら、多少強引にでも――


「分かった」


 しかし、アルジェが心配するまでもなかった。アマは血で汚れるのも構わず、ムーンの手を取った。


「私、あなたに付いていく」


「水を差すようで悪いですが、ムーン。ティップ・ティンはどうします?」


 バナフサージュが言った。


「脅しはもう充分だ。このまま置いていこう。ウディヤ婆さんにも、傷つけないと約束したしな」


「私、槌鉾メイスぶつけちゃいましたけど」


「……まあ、それぐらいはいいだろう。アルジェも、大丈夫か? 鼻血が出てるぞ」


 そう言うムーンこそ、返り血塗れのひどい姿だ。


 アルジェは苦笑しつつ踵を返し、門にかかっていた閂を外す。重い扉を押し開いたとき、中庭に流れ込んだ夜気が、やけに冷たく感じられた。

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