炎の色は -13-

 

 そこまで語り終えると、コロロフラムはまた大きく息をついた。


「どうして、なにも言わずに村を出ていっちゃったんですか」


 アルジェは尋ねた。なんとか冷静を保とうとしていたが、難しかった。


「もちろん、君を置き去りにするためだ」


 コロロフラムは答えた。


「私が村を離れると言ったら、君は必ずついてくるだろうと思った。しかしジハーグからの襲撃に晒される危険を考えれば、君を同行させるわけにはいかなかったんだ。それに……いや、とにかく、説得している余裕もなかったしね。でも君がこんなに無茶な行動に出ると予測できていれば、きっと別の方法を採っただろう」


 彼女は正しい。もし事前に経緯や目的を知らされていたとしても、アルジェは同行すると頑強に言い張ったはずだ。


 でも。だからといって。


「マナカメラに写ったレイスを見て、ジハーグの生存を知るのは分かる。しかしあんたの話しぶりだと、その前に確信を得ていたみたいじゃないか。なぜだ?」


 ムーンが腕と脚を組みながら、ぞんざいな口調で尋ねた。その態度には、何者にもへつらわない、という固い意思が垣間見えた。


「私は一度ジハーグと戦い、呪いを受けた」


 コロロフラムはそう言いながら、衣服の前留めを外しはじめた。彼女は胸をはだけ、白い肌を露わにした。すると鳩尾のあたりに、何匹もの蛇が互いに絡みあったような形の、青黒い痣が見えた。さほど大きくはないが、ひどく気味の悪い痣だった。


 アルジェは目を見開いた。嫌悪感を持ったからではない。痣の存在をはじめて知ったからだ。比較的冷涼なサフラ村で、コロロフラムが薄着になることはなく、また尊敬する女性の胸元を覗き込むような不行儀は、アルジェにとって縁遠いことだった。


「これはマナの流れを著しく阻害する、魔術師にとって非常に厄介な呪いだ。術者の死によって解かれる種類の魔術で、いまこれが解かれていないということは、すなわちジハーグが生きているということだ。その逆にジハーグの方でも、ある程度私の存在を察知しているだろう」


「つまり、また排除に乗り出してくる可能性が高い」


「そうだ」


「なるほど、よく分かった」


 ムーンはやや背を反らすように身を引いて、あとは傍観を決め込むつもりのようだった。


「私からも、ひとついいですか」


 バナフサージュが言った。


「この件は紛れもなく国家の機密に関することです。なぜあなたはこれほどまでに詳しく私たちに話してくれるのですか?」


「公人として対応するならば、内々の事情など明かさず、適当に金を掴ませて口止めをするべきなんだろう。私がそうしなかったのは、アルジェへの義理があるからだ。なにも告げず村を去った理由を、大事な弟子に説明するべきだと感じたからだ」


 そう言って、コロロフラムはアルジェに向き直った。


「アルジェ。サフラ村に帰りなさい。あの場所なら安全だ。ご両親もいるし――」


「嫌です」


「聞き分けなさい、アルジェ。ジハーグは君の姿を見た。マカジャハットにいれば、いつ襲われてもおかしくないんだ。この件が終わったら私も戻るから。だから村に――」


「嫌だ!」


 アルジェはほとんど叫ばんばかりの声で言った。


「自分の恩人をわざわざ捜し出しておいて、困っているのを知りながら、なにもせずに帰るなんて、まるっきりバカみたいじゃないですか。それに、先生は一度敗けたんだ。次は勝てるって保証がどこにあるんですか? 先生が死んだら、僕はサフラ村でずっと待ち続けるんですか? そんなの、安全だって言ったって、なんの意味もないじゃないですか」


 激情に任せて言い募るうち、アルジェは自分の目からぽろぽろと涙が落ちるのを感じた。軟弱な振る舞いだ、と心の隅で思いつつも、昂った気持ちは抑えがたかった。


「先生が僕のことを大事な弟子だって言うなら、僕にとっても先生は大事な人なんです。枯れ枝みたいに貧弱だった僕を、ここまで丈夫にしてくれたのは先生じゃないですか。虚しく生きていた僕に、魔術を教えてくれたのは先生じゃないですか。あのとき、あなたがともしてくれた炎は、まだ僕の中で燃えているんです。あなたの髪と同じ色の炎が。だから、どうか、消さないでください。帰れなんて言わないでください、先生――」


 アルジェは言葉を詰まらせた。最後の方は、自分でもなにを口にしているのかわかっていなかった。それでも、伝えたいことは伝えたはずだった。


 しかし、コロロフラムは態度を崩さなかった。


「君はいま、冷静ではない」


 彼女は食いしばるような、低い声で言った。


「ひと晩、頭を冷やしなさい。ご友人のふたりも、どうかアルジェを助けてやってほしい」


 それから、コロロフラムはオルドウィンの名を呼んだ。この忠実な近衛兵は、いつのまにか部屋に入ってきていた。おそらく、アルジェが大声を出したときからだろう。


「客人がお帰りになる。案内を」


 これ以上の言葉はなんの意味も持たなかった。アルジェは打ちひしがれ、虚脱したようになり、バナフサージュに肩を叩かれるまで、涙顔のままぐったりとうなだれていた。

 

       *


 どうやって〈砂漠の真珠亭〉まで帰ったのか、アルジェはよく覚えていない。心配するレッチェンやベイグルの声もほとんど無視して、朽ちかけたゾンビのような足取りで自室に向かい、寝台の上で丸くなった。そして辛い現実から逃げ出すために、できるだけなにも考えず、ただ眠りを求めた。


 そして、悪夢を見た。


 アルジェは普段の短衣チュニック姿で、灰色の通路に立っていた。壁の表面はつるりとした石で、表面には装飾も標識もなかった。ただ、一定間隔である壁龕の中でともる蝋燭が、弱々しい明かりを放っているだけだった。


 通路は長く続いていた。アルジェはおずおずと足を踏み出し、歩きはじめた。なぜそうするのかは、分からない。


 実のところ、アルジェは昨日にも同じような夢を見ていた。だから、このあとになにが現れるのか、事前に分かっていた。


 背後から、全身を凍りつかせるような冷気が流れてくる。


 アルジェは振り向いた。そうすべきでないのは分かっていたが、夢の中ではどうしようもなかった。


 後方の闇から湧き出したのは、あの砦で遭遇したレイス――もとい、ジハーグだった。コロロフラムを退け、いっときはマカジャハットで権力をほしいままにした、邪悪な魔術師。肉体を滅ぼされてなお死なず、異形の存在となり果ててなお、害意をまき散らす穢れた魂。


 いま見ているものは、本当にただの夢なのだろうか? あるいは自分もコロロ先生と同様、ジハーグに呪いを受けたのではないだろうか? あの一瞬の邂逅で刻まれた、強い恐怖を伴った記憶が媒介となり、自らレイスを呼び寄せてしまっているのではないだろうか?


 ジハーグが迫ってくる。アルジェは追い立てられるようにして、通路の奥へと走った。


 昨日に見た夢では、結局逃げ切ることができなかった。やがて奈落の冷気に、次いで強酸の霧に追いつかれ、全身を焼かれることになった。倒れたところで骨ばった手を体内に差し込まれ、生きながら心臓を握り潰された。


 今日もまた、夢の中で死ぬはめになるのか。毎夜毎夜そんな目に遭っていたら、いつか気が狂ってしまう。あるいはそれこそが、ジハーグの狙いなのかもしれない。


 アルジェは逃げた。夢の中では思うように身体が動かない。しかし現実と同じだけ走れたからといって、ジハーグを撒くのは不可能だろう。なぜなら通路には分岐もなく、別の部屋に通じる扉もないからだ。ときおりある曲がり角や階段も、アルジェを安全な場所に導いてくれることはなかった。


 無慈悲な傾斜の階段をのぼりきったあとで、アルジェはなにか柔らかいものを踏み、バランスを崩して勢いよく転倒した。


 ひたすら無機質な通路に置き去られていたのは、肌を土気色に変じさせたコロロフラムだった。彼女は仰向けになり、恐怖に引き攣った表情のまま天井を睨んでいた。


 アルジェは悲鳴をあげてコロロフラムに縋りついた。華奢な肩を抱くと、ぱきりと音を立てて骨が砕けた。頭がもげて、ごろりと床に転がった。彼女の肉体は朽ちかけていたが、炎と同じ色の髪は変わらず美しかった。


 ジハーグが追いついてくる。彼は隙間風のような声で笑いながら、アルジェとコロロフラムを見おろした。


 アルジェはコロロフラムの頭を庇うように抱きながら、死神から彼女を守ろうとした。もちろん、それは無駄に終わった。

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