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まあ、そんなカンジで、茜さんから週イチくらいのペースで送られてくる、探偵レベルを上げるための指示メールには、心底うんざりしていたのだけれど、同時に、俺は尊敬もしていたのだ。
その、自分の理想のためなら、どこまでも夢中になれる、茜さんの熱意に。
俺には、そんなふうに夢中になって取り組めるものが、これといって何もなかった。
巻き込まれる側の俺は、もちろん迷惑しているんだけれど、巻き込む側の茜さんは、最高に充実しているんだろう。
そういうのは、ちょっと羨ましかった。
犬彦さんと過ごす、平穏な日常。
繰り返される毎日の変わらない日々が、どれほど幸せなことか、知っているはずなのに、それでも俺は...なにか物足りないと思っているんだろうか…?
茜さんのメールには、時々こんなことが書かれていた。
『こうして、定期的に推理に関する本や映像を見ることで、探偵としての感覚を鈍らせないようにしたいものだね。
しかし江蓮君、君ほどのポテンシャルを持った人間からすれば、何の事件も起きない世の中は退屈だろう?
今はじっと我慢のときだよ。
きっとそのうち、我々にふさわしい新しい事件が起こるはずさ。
名探偵のもとには、導かれるように事件の方からやってくる、そういうものだからね』
そんな言葉を読むたびに、俺の心のどこかが、チリチリと疼いた。
何の事件も起きない世の中は、…退屈?
いままでは、平穏である毎日のことを、退屈、と思えるかもしれないなんて、考えたこともなかった。
でも、あのとき…事件の真実を手に入れるために、茜さんと推理合戦をした、あの経験…追い詰められ、それでも頭をフル回転させて、ヒントの欠片を手に入れるために全力を尽くした、その記憶…感覚を、俺は時々思い出して、反芻することがあった。
つまり俺は…また、ああいった出来事を、再体験したいと心のどこかで思っているんだろうか?
目を閉じて、俺はじっと考えてみた。
自分の心の奥にある、葛藤について。
俺もまた、平穏を退屈だと思っているんだろうか。
それは…。
そう…確かにある部分では、そうなのかもしれない。
自分の持ちうるすべての力を出し切って、追い求めるそれに、手をのばす。
そして、それに手が届いた瞬間に、それまで視えていなかった、新しい光景が目の前に広がっている。
その感覚は…とても、達成感に満ちていて、これまで、俺が知ることのなかった一種のカタルシスがあった。
この感じは、登山に例えることができるかもしれない。
ひとりきりで雪山の道無き道をすすみ、吹雪の冷たい痛みに耐え、苦しい思いをしながらも、やがて頂上にたどり着けた喜びとは、きっと、こんな達成感なんだろう。
いま俺の目の前には、果てしなく広がる星空があり、それまで歩いてきた道が、地上の世界のすべてが見通せる、ここにたどり着くまでには知ることのできなかった、すべてのものを、見て、理解することができる…。
あの達成感を、また体験したい。
そう思う気持ちが、確かに、俺のなかには残っている。
でも駄目だ。
その達成感を、推理をする、という行為に求めては駄目なんだ。
推理をするためには、まず事件が必要になる。
そして、事件が起こるということは、それに傷つき悲しんでいる人々がいるということだ。
人の悲しみや痛みを、自分の好奇心を満たすための材料に使うなんてことは許されない。
推理がしたいから、事件が起こればいいのに、なんて考えることはもってのほかだ。
だから俺はもう、推理はしない。
だけど茜さんの言うように、…認めよう…確かに今、俺は、ちょっと退屈しているんだと思う。
こんなのって、ひどい矛盾だよなぁ。
だんだん鬱々とした気分になってきて、俺は深く目を閉じた。
こんな気持ち、犬彦さんにも相談できない。
だけど、もしも、こんな俺の葛藤について犬彦さんに話すことができたならば、いったい犬彦さんは俺になんて答えてくれるだろう。
犬彦さんは、俺を軽蔑するだろうか…。
「江蓮」
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