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 だけどこのときの俺は本当に考えなしで、まさに頭に血が上っていたのだろう、それまであったはずの慎重さ(それでも人並みよりは少なめの)が消し飛んでしまっていた。


 暗闇のなかで一心不乱に歩き続けるということ、これが人の方向感覚をどれほど、めちゃくちゃにするかということが、まったく分かっていなかったのだ。


 しばらく歩き続けたあとに、俺はやっと気がついた。

 あれ、ここって、予想以上に道が長く続いているうえに入り組んでいないか? と…。


 俺は一体、暗渠の入り口から、どれほど奥まで進んだんだ?


 本当に、最初に自分で決めたルール通りに、直線にまっすぐ進み続けることができているんだろうか?

 なんかさっき、かるく角っぽいとこ曲がったような気がするんですけど、気のせいだよな…?


 そんな重要なことが、さっぱり解らなくなっていた。

 カッカと頭に上っていた血の気が、今ではサーッと引いていくのが自分でもよくわかった。


 どうすんだよ、俺!

 こんな場所で道に迷うなんて洒落になんねーぞ!


 自分の馬鹿さ加減にパニックになりかけたところで、いやしかし落ち着けよ、と、冷静さをかろうじて残していた俺の理性が喝を入れた。


 単純にここから道を戻ればいいだけだ。

 ゆっくりと落ち着いて、来た道をたどっていけば必ず暗渠から出られるはずだ。


 それに俺の手には、現代のスーパー利器、スマホがあるじゃないか、めちゃくちゃカッコ悪いが、いざとなったら誰か暇そうなやつに電話して、ヘルプに来てもらおう。


 そうだ、そうしよう、だからちょっとくらい方向感覚がわからなくなったって、そんなのたいしたことじゃないんだ。


 そう考えて、やっと勇気を奮い立たせたところだったのに、今度はこの暗闇の中から微かに、人間のささやき声が聞こえた…ような気がした。


 ずっと静寂を守っていた暗黒から、自分以外の何者かのたてる音が、ふいに現れたのだ。

 背筋がゾゾッと震える。


 ええっ! ちょっと待ってよ、こんなところに俺以外に人がいるのか?

 なんでなんで、こんな夜に暗渠のなかにいる人間なんて絶対ヤバイだろ! と、自分のことは棚に上げてパニックになる。


 一気に心細さがマックスになり、好奇心なんてものは、どこかに吹き飛んでいって消えた。


 そもそも俺は、こんな暗くて薄気味悪いところは苦手なんだった!

 何やってんだろ俺、うん、はやくここを出よう!


 そう決心した俺は、くるりと後ろへ方向転換すると、駆け出した。

 それはもうフルスピードで走った。


 しかし、そう、ここは暗渠のなかの地下通路なのだった。


 恐怖のあまり集中力がゼロになった途端に、俺は何かにつまずいて、転びかけた。

 とっさにコンクリートの床に手を着こうとする。



 「ぎゃああぁああぁぁ!」



 手が触れたそこには、ヌルっとした何かがあった。


 今思えば水苔とかの、ちょっとした汚れだったんだろうけれど、これで俺は完璧なパニック状態におちいった。


 すぐに床から手を引いて、今度は反対側、後ろの方へと体重を移し、逆側の床に尻もちをつく予定だったのが、その瞬間に、まったく想像もしない出来事が起きたのだ。


 宙に浮いた俺の腕を、誰かが、がっちりと掴んだのだった。



 「わあぁあああぁあぁぁあ!」



 完全に、人間の手が、指が、力を込めて、俺の腕を掴んでいる!


 それが暗闇のなかでも感覚から知ることができ、新たなる恐怖から俺は大絶叫をした。


 しかし、その誰かの腕のおかげで、俺は体のバランスを崩すことなく、後方へ倒れるという事態を回避することができた。


 しっかりと地に足をつけることができてから、俺は、俺の腕を掴んでいる何者かの手を、渾身の力を込めて振り払うと、それはあっけなく離れていった。


 俺は、その手が伸びてきた方向に、体を向けた。

 暗くてわからないけれど、今、我々は向かい合って立っているはずだった。


 そこにいる人物が何者なのか、それを確認するために、俺はその人物に向かって、唯一の光源であるスマホをかざした、…つもりだった。


 ところが、俺の右手にさっきまであったはずのスマホが、なくなっていた。

 そう、さっき転んだはずみで、床にスマホを落としていたのだった。



 「やっべぇ! スマホ落としたっ!」



 ショックのあまり、また叫んでしまう。


 それまでの恐怖心はいっぺんに吹き飛んでいって、今度はスマホを失くしてしまったという悲しみで、胸がいっぱいになっていく。


 ああ…俺のiPhone…新しくしたばっかりだったのに!


 そして床を這いつくばって、落としたスマホを探そうとしても無駄なことだった。

 完全な闇を取り戻した暗渠は、辺り一面、すべてが黒で塗りつぶされていた。


 きっと地球上でもっとも暗い世界とは、いま俺がいる、この空間のことなんだと、心から信じることができた。


 床を見ているつもりでも、自分の足すらも見ることができなかった。

 こんなんじゃ、みつかりっこない…。


 俺の唯一の希望の光…というか、高かった最新iPhone…大切に使っていたのに…。


 それを失って、泣きそうになっている哀れな俺が、ぐったりとしゃがみ込んでいる所から、少し離れた位置、そこから今度は、はっきりとした人間の声が聞こえた。



 「ドジねぇ…」



 あきれたように呟かれたその声は、女性のものだった。

 

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