第3話 転校生の作戦

「いや、本人に分からないことを俺に尋ねられても分かるわけないが……」


 なんなんだ、こいつは。絶賛コミュニケーションのリハビリ中のぼっちに、読心まで求めるのは残酷すぎる。

 教室全体から無視されているやつが、空気も心も読めるはずもない。となれば残された手段は、不得意な会話だ。 


「えっと……俺視点だと斗乃片は意味もなく、『一般男子高校生を拘束する人間』ってことになるんだが?」


 口に出したくない日本語だった。クラスメイトを形容するために、こんな言葉を使いたくもなかった。

 けれど彼女は半分悪口みたいな言葉を綺麗な顔で受けて、けろっとしたまま続ける。


「そうではないわ。意味は……理由はそうね、今ちょっと考えるけど」

「……何秒必要だ?」

「一秒もあれば――はい、思いつきました。言ってもいいかしら?」

「そう溜めを作られると怖いんだが」

「別に、大したことではないわ。単純なことよ。ただ貴方が逃げてしまいそうだから、私はこの手を離せないの」


 さらりと言いのけておいて、面持ちは小さい子供のそれだった。欲しいおもちゃを手放さない駄々っ子と言うと、怒られてしまうだろうか。


「俺は別に、逃げたりなんてしないぞ」

「それは嘘よ」

「根拠は?」

「勘ね。あとは、握っている手の震えかしら」


 結構しっかりした証があった。途端に手汗が滲んで、身体の芯まで冷え切ってくる。


「今の反応で、予想が確信に変わったのだけど」

「き、気のせいだよ、きっと」

「では、こっそり引いている右足は、なに?」


 返す言葉はとうに枯渇していた。口の中はからからに乾ききって、舌の根は驚くほど動かない。


「逃げられてしまっては困るから、この手を離せない気持ち――分かったかしら?」

「理解できたよ……したくなかったけどな」


 手の平にかかる力がぐっと強まって、少しだけ痛い。その絶妙な痛みが、不思議と斗乃片の真剣さに思えてくる。

 だから俺は向き合おうと、多少は逃げずに相対しようとして――その小さな決心は、ちょっとした落とし穴だった。


「逃げない、本当だ。って言っても、どうしたら信じてもらえるか――」

「簡単よ」


 端的に応じて、斗乃片はブレザーのポケットに片手を突っ込んだ。

 その手で支えていたはずの仮面はどうなったかというと、無論落下している。私物を重力に委ねることに、こいつはなんの思慮も必要としないらしい。

 からんと狐面が音を立てる。文明の光に照らされたリノリウムに小さく弾んで、間を置かずに大人しくなる。


 廊下を通り抜ける物音にも、教室からの反応はなし。俺に対する徹底的な無視は、どうやら健在のようだ。

 再び訪れた静けさの中で、美しい指先は、布と布との間から金物の輪を摘まみだした。鈍く輝く円は二つで、それらを結ぶのは鎖だ。縁の幅は狭く、厚みもないものの確かな威圧を備えていた。

 曲面と曲面が揺れて衝突し、チャラチャラと絡みつくような金属音をかき鳴らす。

 俺の目が狂っていなければ、この物体は――手錠だ。


「これに繋がれてくれれば、信用できるわ」

「なんでそんな過激なこと――ていうか、なんでそんなもん持ってるんだ⁉」

「趣味よ。仮面もこれも、コレクションの一つなの。いいでしょ?」

「ほんと、いい趣味してるよ……」


 ナーフ云々より、指導が必要だ。補導される前に、誰か早く彼女をどうにかしてあげてほしい。そういう制度、どこかにあったはず。助けて行政、あるいは病院。


「褒めてくれて嬉しいわ」


 人差し指を軸に、くるくると回る鈍色が物々しい。度重なる回転運動で、いい加減頭が混乱してきた。

 催眠にかかる前に、しゃんと切り出さなければ。


「手枷ほどに過激じゃない、もっと別の手段はないのか?」


 自分で口にしていて、手軽ってなんだと思わなくもない。もう滅茶苦茶だ。

 転校生、美少女、狐面、連行、簡易手錠ときて、さすがに混乱を重ねすぎた。逸るこの脈は、クラスメイトのせいで落ち着きそうにない。


「私はただ、貴方が逃げないという安心が欲しいだけだから――そうね、個人のデバイスを――」

「預けるのは却下だ。俺が不便すぎる。あと個人情報も大切だしな。他にないか?」


 提案すると、形のよい唇がふにゅりと曲がって、


「縛るのは?」

「なし」

「結ぶのは?」

「ない」

「繋ぐのは?」

「ありえない」


 出てくるワードのことごとくが怖い。顔の良い女と接触しているから生じていたはずの冷や汗が、今や生命の危機から湧き出している。


「どうすればいいかしら? 比位くん、もしかしてちょっとわがまま……?」

「その言葉、そっくりそのまま返したいんだが? 要望が多いのは明らかに斗乃片の方なんだが?」

「そうかしら……でもそうかも……?」


 本気で小首を傾げている姿が可愛くて、許せてしまいそうになるから性質が悪い。わずかでもその見た目に絆されかけると、少女はまた畳み掛けてくる。


「なにか、代償……もし会話しなかったら、払うもの……また会って話せるような、なにかを……」


 長い廊下を転がっていく、呟きひとつひとつがやけに重たい。言葉がこちらに転がり込んでくる度に、ずっしりと重量があり、受け止めるのがしんどい。


「もっと気軽で頼む。そうだな……てか、約束じゃダメか?」

「約束、やくそく……?」


 初めて聞く言葉を耳にした、幼子みたいな反応されても困る。自分の知らないことを提示されて、仲間外れにされたように感じて、ひどく悲しくなる気持ちは――どこか身近だから。親近感が湧いてしまうから。

 対面しているだけで、いたたまれなさはみるみるうちに膨らむ。手首が縛られるくらい、良いのではないか?

 いや、よくはない。危ない。気の迷いが、心に芽生え始めている。


「普通の約束じゃ、頼りないわ。だから――」


 その先に続く言葉を想像して、全身が強張る。知らぬ間に結構身構えていて、続く答えがどういったものなのか、俺は勝手に想像を膨らませていた。

 斗乃片の赤い唇が動く様に、そのまま意識を吸い寄せられてしまう。白い歯がちらりと見えた瞬間なんて、時の流れが鈍ったかのよう。


「貴方が私に接触してこなかったら――泣くわ」

「だれが――」


 俺が質問する途中に、


「私が」


 脊髄反射と思しきスピードで、剥き出しの回答が返ってきた。


 泣く? 昨日来たばかりの転校生が、一クラスメイトと再び話せないというだけで?

 ありえない。と断じたくても、相手の表情が即断を覆そうとしている。悲しさを諦観で上塗りした、その顔はなんなのだろう。

 たった四文字の応答を、視覚情報が膨らませてしまう。どう返せばよいか、反応に困っていると、


「斗乃片透華が、わんわんと泣くわ。人目も憚らず、恥も気にせず、感情に任せて涙を流し続けるの。生徒がぎゅうぎゅうに詰められた教室で、唐突に号泣する――」


 彼女は滔々と続けた。流れ出す言葉は留まるところを知らず、誰もいない廊下を静かに満たしていく。


「泣いて泣いて泣き続けて――どうして泣いてるのって問われたら――」


 今にも目尻から雫を零しそうな雰囲気を漂わせておいて、


「『陽名斗くんに捨てられました』って、言うの」

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