第5話 久しぶりと幼馴染

「ね、どうして無視するの? わたしがこんなに話しかけてるのに」


 昼休みの屋上を、聞きなれた声が通り抜けた。

 でもまあ、どうせ自分宛ての言葉ではない。黙るのが吉。

 別人のための音を、自分に注がれたと勘違いして返事するなんてミスを俺はしない。


 十回ぐらいそういう失敗をしたから、もう間違えない。

 あれはかなりハズい。そしてこわい。もう一度同じやらかしをしたら、屋上の柵を俺は乗り越えるだろう。だから返事したい本能を抑えて、ぐっとこらえる。


「ちょっとヒナト、聞いてる⁉」


 ヒナト――陽名斗……俺の名前だ、たぶん。

 この学校に同名の人はいなかった、と思う。

 でも俺が知らないだけで、いるかもしれないからまだ――


「わたしたちしか屋上にいないのに、知らん顔なんて不可能だよ。黙ってたって逃げられないし。だってほら、ヒナトに隠れる場所はないよ?」


 あ、やばい。まずい。

 身の危険を感じて動き始めた首が、暖かい手によって止まる。肩に片手を置くふりをして、鎖骨の辺りを抑えることで呼吸の権利まで奪う手口だ。こんな悪行に平然と手を出すのは、俺の知っている限り一人。

 幼なじみの七都名夏那だ。

 声を聞いても不安だが、危険を察知すればわかる。


「なんか、またひどいこと考えてるんだろうけど、わたしはまだ何もしていないよ? これからどうなるかは分かんないし、ヒナト次第だけど」


 指先をそっと動かして、俺をぞっとさせるのはやめて欲しい。自分でも引くぐらい驚いていて、喉を震わせるのに随分と時間がかかっている。簡単に言えば緊張して声出ない。


「――ど、どうしたんだ? こ、こんなところに来るなんて珍しい――第一、夏那が俺に声をかけるのは三ヵ月か四ヵ月ぶり……だよな?」


 声帯を震わせすぎたのか、ひどく声がガタガタだ。生まれたての小鹿よりも、ぷるぷる感には自信がある。


「そうだよ、三ヵ月と二十三日ぶり……たぶん? 久しぶり過ぎて驚いちゃうよね、まあまあ」


 夏那はいつもと変わらない調子だ。緩い口調も、抑揚のない声も、言葉があんまり切れないところも、全部記憶の通り。

 俺と喋らなくなってからも、ずっとこういう声がクラスで響いていた。


「ねぇ、まだ振り向かないの? そろそろ、なにかあるよー」

「なにかってなんだよ」

「さあ? もうそろ、感じれるかも?」


 分かるじゃなく、感じれるってなんだ。言葉選びが怖すぎて身体が勝手に動く。振り返ってすぐに、


「って、体育着のままかよ」


 口は許可なく動いていた。困る。数ヵ月ぶりの会話なのに、反射で言葉が出る。滑舌は怪しいが、軽口を言ってしまう習慣はそのままだ。バグっている。


「次の授業までに着替えればいーの。昼休みは長いし」

「そうやって余裕ぶってると、一人だけ違う服で授業受けることになるぞ」

「そうなる前に着替えるよ、さすがにね」


 そんなに間抜けじゃないよと、夏那は笑う。顔は笑顔のままで、片手も俺の頸動脈に添えたままだが。


「この手、放してくれ。結構苦しい」

「あ、ごめん。悪ノリ、しちゃったね……久々だから、わたしも緊張してさ……思い切ったことしないと、ダメかなって……」


 幼馴染の熱が遠のいて、残滓や圧迫感もきれいさっぱり消失した。と同時に、なんというか、繋がりも一緒くたにどこかへ行った。

 会話のとっかかりが手から零れ落ちた途端に、無言が俺らの周囲を席巻する。

 沈黙に囲まれると、急に安心してきた。どうやら俺は、黙ることに慣れ過ぎたらしい。重病だ。

 一度ぬるま湯に浸かると踏み出すのは難しく、喉が無性に鳴る。掌に爪を食い込ませないと、怠けがちな唇を動かせなかった。


「あのさ、夏――」

「隣、座ってい? 座るね」


 少量の勇気を込めた口火はかき消されて、一応の確認が飛んできた。俺の返事を待たずに、夏那は右隣に座り込む。既に肩と肩が密着していて、距離を取ろうとすれば更にぶつかってしまうから――この身体はもう動けなかった。


 ほんとにこいつは、いっつもこうだ。いっつもこうだった。

 まだはっきり喋れないような時分からの付き合いだとはいえ、対人の距離感覚が壊れているのだ。形式的な確認だけで済ませてしまうマイペースさにも、散々心を乱された記憶がある。


「っ、この……近いし、暑いから」

「わたしが隣にくると、いつもそうやって言うよね、ヒナトはさー。ちょっとくらい、いいじゃんねー、ねー?」


 誰に言っているのか知らないが、すぐそばで同意を求めている。

 幼馴染がこうやって返すのも、いつものことだった気がする。昔を思い返すと、やたらと遠くを眺めたくなった。

 屋上にいるから、簡単に願いは叶う。最高の場所だ、ここは。遠方まで障害物もないのが特によい。景観管理都市万歳。


「懐かしいな、って思った? 思っちゃった?」

「少しな。ほんの少しだけ」

「えへ、わたしと一緒だね。ねえ、懐かしいって、なんだかちょっとだけ良くない?」

「それは……分からないな」


 多少は同意できると思ったけど、すぐ心変わりするかもしれないから、軽く無難に答える。会話の間に生まれた空白がやりづらくて、俺は無心で手を動かした。

 手元にある購買の弁当を開けると、


「あ、まーた焼肉弁当食べてる。前もその前もそうだったよね。まったくもう、いっつもいっつも……」

「前って……ここ最近も、ずっと見てきたかのように言うんだな」


 強がってみたが、図星だった。選択をサボりがちなところは、時間で治りそうにない。

 俺の分かり手は、根拠なしに自信を持って、平然と胸を張る。


「見てないけど、わかるよ? なんかね、びびっとくるの。わたしのお弁当賭けてもいいよ!」

「いや要らないから賭けなくていいよ」

「ひどい⁉」


 わたしの特製手作り超美味しい弁当が……、と情報をむやみやたらに付け加えているが、空しい抵抗だった。こちらの胃の上限は変わらないのだ。

 あと普通にまずいし。


「まずくないよ!」

「心を読むな心を」


 文句を言っても、夏那はゆるく笑うばかり。笑顔は絶えないが、会話は一時途絶える。向けられている表情は柔らかいが、それでも気まずいのは変わらない。

 数拍の沈黙が永遠にまで思えた頃、近くで呟きが零れた。


「こうやってさ、ふざけたことはたくさん言えるのに……なんでかな、ちょっと言いにくいこともあるよね」


 抑揚を付けずに、夏那は告白した。

 言いたくないことがあるなら、口にしなくてもいいはずだ。少なくとも、俺はそう信じている。

 だけど、そうじゃない人間もいる。

 俺の隣に座る少女は、その一人だ。


「あのさ、最近喋れなくて、ごめんね」

「……別に、謝ることじゃないだろ」


 そう、謝罪することはない。幼馴染だからといって、そいつとずっと喋らなくちゃいけない義務なんて、あるわけない。

 いつしか疎遠になることも、一緒にいるグループが異なることも、共通の友達がいなくなることも、当然ありうるだろう。誰が悪いわけでもない。

 だから、夏那がそんな顔する必要ないんだ。

 伝えるべきことが心の底で積もり、喉の奥で詰まって、舌の裏に溜まる。言い出せなくなった言葉で、そろそろ窒息して死ぬ。


「……えへ、わたしもヒナトも黙っちゃって、変なの。ヘンテコだね、わたしたち」


 明るい笑顔が視界の中心にあった。朗らかな表情で、しゅんとした感情をなんとか覆い隠そうとしている幼馴染が、そこにはいた。

 十秒前みたいに笑ってほしいな、と我が儘に思う。

 それを意識すると、凝り固まったなにかが少しがほぐれて、ほのかな希望がじんわり湧き出してきた……気がする。自信はないけど。

 頭が回り始めると、口も段々と回り始めた。


「なんかさ、まあ色々あって、事情もそれぞれだと思うからさ、なんていうんだろ」


 しょうもない建前とか前置きとか、色んなものが音にする度に徐々に剥がれ落ちて、


「また、話しかけてくれたら、俺は嬉しいよ」


 最後に残ったのは、なんてことない陳腐な言葉だった。

 平凡でありふれた気持ちの吐露。

 だけど、目の前にいる幼馴染の顔色は華やいで、


「うん、わかった! これからは休み時間の度にヒナトの席行くね!」


 暖かすぎる反応まで返してくれる。俺のようなぼっちは多分、対応の温度差で調子を崩すだろう。


「ま、まあ、とりあえずほどほどで頼む。リハビリはゆっくり、こんな感じに昼休みにお喋りするところから、始めたいんだ」

「りょーかい。手作りお弁当、もうひとつ用意しとくね」

「いや、それはいい」

「なんで⁈」


 なんて風に、些細な和解も雑談で過ぎ去っていく。

 幼馴染の間にはバフもナーフも関係なく、ただきっかけだけが必要だったらしい。

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