第4話 ナーフがあればその逆も

「『好き好き大好きだったのに捨てられました』って、か細く鳴くわ」


 纏っていた一切の感情が、彼女の身体からすとんと落ちた。

 落涙を堪えて細められた両目は元通り。嗚咽を飲み込もうとしていたはずの口元は白い歯を見せている。悲しみを予感させるような諦めの笑みと、肩の震えはどこへ行ったのだろうか?


「演技、上手いんだな」

「嘘はついていないわ。貴方がこれから話しかけてくれなかったら、どんな気持ちになるかの想像をすると、自然とこういう顔になったの」


 斗乃片の言い方はあまりに違和感なく、本心からの発言に聞こえた。

 でも怪しい。直感がそう告げている。彼女の唇が動くたびに、背中の中心がぞわりとして仕方ない。


「人をあんまり疑っていると、他者が離れていくわよ?」

「忠告どうも。もう手遅れだけどな」

「いえ、まだギリギリ間に合うわ。私がいるもの」


 堂々とした宣言は、舞台上での振る舞いさながらだ。ここが単なる通路だと忘れてしまうくらいに、様になっていた。

 呆れて、ため息が出る。

 恥ずかしげもなくカッコつける転校生は勿論のこと、彼女を見て心を揺らした自分自身にも、あきれ果てた。

 皮肉の一つでも言いたくなって、口は滑っていく。


「自前のお面といい、その仕草に言い草……演劇部にでも入った方がいいんじゃないか?」

「嫌、そんなの。誰かが書いた台詞を喋って、他人が考えた演出に沿って動くなんて、とっても簡単でつまらないわ」


 こいつ、本当に退屈を顔で表すのが上手いな……。

 真正面にいるだけで、飽きや倦怠感がひしひしと伝わってくる。俺と話しててつまらないんだろうな……と勝手に解釈して、精神を病むレベルだ。


「私を見て一人でに悲しむなんて、変な人。別に、貴方に嫌悪を抱いているわけではないわ。ほら、この通り――貴方を前にしている私は、笑顔よ。どうかしら? これが、にこにこかしら?」


 さっきまでのが嘘みたいに、本物の笑顔が目の前に出現した。少なくとも俺には、作り笑顔とは思えない。


「また、変な顔ね。初めて雪を見た子犬みたい」

「そんなに可愛らしいやつじゃないだろ、絶対。もっと別に良い例えがあるはずだ」

「では……初めてお風呂に入る子猫……」

「一体どう見えてるんだよ……そんなに愛嬌のある反応じゃなくて、俺はとびきり驚いてるだけだ。それに、かなり不思議に思ってもいる。魔法というか、まるで編集されたみたいにがらりと表情が変わって、残滓すらも抜け落ちて……」


 ほぼ初対面の人間に、恐れの感情を伝えてよいものか。あれこれ考えれば考えるほどに、口と発言がふらふらと彷徨っていく。

 散々迷って選んだというのに、


「怖いかしら? ころころ顔色を変えられる私が、恐ろしい?」 


 しっかり斗乃片が通せんぼをしていた。

 もうこれでは逃げようがない。はっきり告げる道だけが、俺に辛うじて残されている。


「ああ、正直。理解できないことは受け入れがたいし、こうまでされてはっきり嫌えないのも、空恐ろしい」

「そこまで言ってくれるのなら、私の泣き顔も効果的かしら」


 悪い女がすぎる。言うや否や、瞳を潤ませるところなんてもう、最悪そのものだ。しゅんとして伏せられた瞼からは、目を離したくても離せない。

 その行いが――状況と相手にぴったりと合わせる行為が、俺の胸を深く抉ってかき乱す。

 これは、地面に出来た浅い水たまりを覗き込むのと同じ。水面に薄暗く映る、自分自身を直視させられているのと一緒だ。

 昔を思い出して、


「理解しているなら、すぐにやめてくれ……っ」


 文句の一つが喉からまろび出た。二つ三つと続けようとしたが、地味に噛んだ。ほぼ初対面の相手に緊張しているからか? もはや救いがない。

 隙を見逃さず、向こうは畳み掛けてくるしで詰んでいる。


「貴方が約束してくれるなら、今すぐにでも取りやめるわ」


 弱みを直視して細められた両目は、ここ一、二週間は忘れられそうにない。はっきりと瞳に焼き付いてしまう前に、俺はぽっきりと折れた。


「分かったよ。次話すのはいつだ? 空けとくから」

「空けとくも何も、貴方が話す相手なんて他にいるの?」

「いるが⁉」

「何人くらい?」

「ひ――」

「ひ? その続きは?」

「……ひゃ、ひゃくにん……」

「できればいいわね、友達百人」


 勢い任せに返答しようとしたはいいが、その中身は粗末だった。どうあがいても回答候補は一つで、一人だった。

 恥やら後悔やらなんやらで俯くと、視界内にあった仮面が消える。同時に俺の手首も拘束から放たれ、面は持ち上げられて彼女の胸元へ。

 不用意に優美な動きに釣られて、俺はまた悔やんだ。


「どうしたの? もしかして、次に会う日程が恥ずかしくて切り出せない? それなら大丈夫よ。私がもう決めてあるもの」


 勝手に話が進み、更に続いていく。


「お昼と放課後すぐは、転校の手続きも残っていて忙しいから……そうね、六時ごろに待ち合わせしましょうか。集合場所は、人気のない第一校舎裏あたりで」


 憐れみと慈しみがいっぺんに表れ、器用に両立していた。双方とも、さっさと仮面の裏に隠れてしまったが。


「それじゃあ、また後で。今日の六時、絶対に来るのよ――貴方が皆から無視されている原因、教えてあげるから」


 斗乃片は振り返ってこの場を去った。

 小さな足音を、ドアの騒音が消し去った。

 彼女は教室内に踏み込み、被り直した狐面で、数多くの意識を受け止めている。

 対照的に、その後ろに続く俺は空気同然の扱いだ。

 転校生に向かう好奇と注目は、何一つ例外なく暖かい。しかし注ぎ手に悪意はなくとも、視線は自然と鋭い形をとる。


 最悪まではいかずとも、快適とは形容しがたい環境。

 あいつにとって教室は筵で、地獄ではないのか。面の下に隠れているから、推察するための手掛かりはもう得られない。


「はい、みなさん前を向くように。まだ連絡は終わっていませんよ」


 教師が大きく両手を打ち鳴らすまで、この状況は変わらなかった。いや今でも、ちらちらと断続的な興味の糸は、学び舎の中に張り巡らされている。

 確かにナーフされるのも理解できる影響力だ。

 その調整行為が、正しいかはさておいて。


 公正も公平も、これで実現できているとは到底思えない。けれど、不満を言っている人を見たことがないから、きっと俺だけが仲間外れなんだ。

 クラスで浮いているのも無視されているのも、そうした感性の違いが原因で――。

 考えがぐるぐると自分の中で渦巻いて、こんがらがって訳も分からなくなる。愚考は深まることすらなく、意識の底に沈むこともなく、考え事は乱暴な音に中断された。

 雑音のした方――教壇側のドアに目を向けて、



「あ」


 なんとも間抜けに、俺の喉は震えた。

 扉を乱雑に開け放ったのは、七都名夏那――今朝バフされたばかりの、俺の幼馴染。

 彼女が出入り口を雑に閉ざすと、ほんのり赤を含む茶髪が肩口で揺れる。頭髪よりも深い色を宿した瞳に、悪気が入り込む余地などない。


「どうですか、新しい制服は」


 教師の問いに、


「いいです、まーまー。かわいいです、そこそこ」



 喜びを限界まで押さえつけながら、返答は為された。


「いやその、ほんのちょっといいだけですけど、キャメルに青チェックのスカートがかわいいとか、ローファーの黒もみんなと違って深みがあるっていうか、とにかく、よい……いいです」


 いや、抑えられていないな。

 教師の前でもなんだかんだ自由で、本当に相変わらずだ。成長しないな――という感想すらも、どこか懐かしい。


 今の今まで七都名のことは、すっかり俺の意識から抜け落ちていた。

 真新しい特別制服を着て登場したことで、久しぶりに気に留めたと言ってもいい。


 特別制服という『バフ』は、悔しいことに効果覿面なようだった。


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