第31話 比位陽名斗の調整

 夕方を過ぎ、夜が終わって朝が始まり、通学路を歩んで――俺がクラスへの廊下を歩いていると、世界は変わった。


「おい、比位……だっけか? ちんたら歩いてると遅刻しちまうぞ! 俺らのクラス、ただでさえ遠いんだからよ!」


 え? 誰、だ?

 いや誰ではない。クラスメイトの……そう、高元くんだ。喋ったことはないし、話しかけられたことはない。

 そう、話しかけられたことがない。でも今は。


「俺が、見えてる……認識、されている……?」

「は? なに言ってんだ? 寝ぼけるのは授業にしておいて、今はとにかく走ったほうがいいぜ!」


 この口から勝手に漏れた呟きに、彼は首を傾げつつも去っていく。ある程度の違和を抱きつつも、しっかり目の前の人間と受け答えをしてから、だ。

 理解が、追い付かない。 

 高元くんだけか? 他には?


 周辺を見る。遅刻確定の時間だから人はほとんどいないが、遅刻魔の同類が何人か、立ち尽くした俺を不思議そうにチラ見して追い抜いていく。

 偶然じゃ、ない……なさそうだ。

 これは、もしかして!


 足が動く。視界も動く。先へ先へとひとつずつ踏み出した片足を、もう一方が負けじと追い抜く。全身が前のめりに倒れそうになるけれど、転倒寸前で踏み出した一歩が支えになる。

 心臓がいたい。空気が足りない。もっと吸い込もうとして、呼吸に関わる部位もそうでない部分も平等に全部が苦しい。


 身体のあちこちが悲鳴をあげて、あげつくして、何も聞こえなくなる寸前で――俺は教室の入り口にたどり着いた。

 倒れ込むように、ドアを開ける。

 教室中の視線が集中する。

 俺は教卓の方に目を向けると、そこには。


『莉堂学園 アップデートパッチ 30.7


 禁止制限改訂

 ・比位陽名斗

 :禁止解除

 〈我々が環境の弱者全体に対して与えたバフは、比位陽名斗との相性が良すぎました。彼に対するナーフは功を奏さず不健全性を取り除けなかったことから、スタンダード(朝から放課後まで)のフォーマットにおいて、比位陽名斗は禁止されました。しかし、彼の特別な精神性が失われつつあることから、禁止制限を解除することにします。ただし、再び少年が高すぎるパフォーマンスを発揮しないよう、彼へのバフはすべて巻き戻しました〉

                                        』


「なんだよ、それ……」


 バフでもナーフでもなく、禁止。

 上方修正でも下方修正でもない、単なる放棄。

 ふざけている。調整ミスだ。クソ運営だ。ありえない。こんなことで、俺は。ずっと苦しい思いをして、空気みたいで、何もないみたいで、空虚だ。


 もっと、俺は怒るものだと思っていた。

 もっと、俺は泣くものだと思っていた。

 閉じた教室に意味もなくいて、ずうっと耐えて、救いがないかと待って、俺がいないことが普通なんだと受け入れて、でも縋るような気持ちで部屋の隅で小さくなって――でも全部元通りになったら、思い切り憤慨できるものだと思っていた。


 でも、現実はなにもない。

 蓋を開けてみれば、押し寄せてくるのは虚無に空虚に脱力感。

 力ない笑みを浮かべた後は、立っていられないだけで済む。澄んでしまう。


「――いくん、比位くん、比位、陽名斗くん」


 揺れる。揺らされている。視界が、世界がぐらぐらと振れている。気分が悪くなってきて、見えているものもあやふや、ぼやけてぐちゃぐちゃ、なにもかもが汚くて見てられな――


「私を見なさい」


 きれいな、ものだ。

 大きく丸くて、強く美しい意志に満ちた瞳が、狐面に穿たれた二つの窪みの奥にあった。

 双眸は眩しく、中を満たす感情は煌めいており、熱くて痛い。

 これは怒りだ。

 どうしようもなく発火した心だ。

 瞳から流れ落ちる透明な雫でも、冷やしきれない熱量だ。


「斗乃片、どうして、怒って……それに、泣いて……」

「そんなこと、分かるはずないでしょう。この私がなぜ、こんなにも心を乱れなければならないのかと、今この時も呪っているわ――あと、泣いてなんかない」


 いつも通りの声だ。微細な震えがあっても、ここ数日でよく聞いた音がする。


「どうしてかしら。貴方に興味を持ったから……? 貴方を好ましく思ったから……? 一切自己が認識されない状況を、この身で体験したから?」


 疑問符を並べ連ねる時間に、雫が白面の下から流れ落ちた。


「人とぶつかっても首を傾げられ、無視される痛みを知ったから? 咄嗟に声をかけても誰も振り返らない空白を刻まれたから? それとも、完全に認識されない不安と恐怖に耐えかねて、仮面を外さず斜めに被っていたからかしら? わからない。理解できない、まったく理解できないわ……」


 首をふるふると揺らし、彼女は訴える。


「でも、たったひとつだけ分かるの。貴方が怒っていいことは、わかる。思うように怒れないのならば猶更、貴方をそこまでしてしまったものに怒って、恨んで、復讐の手段を考えて然るべきだと思うのよ……」


 俺の胸元を力なく叩く小さな手。真っ白で、すぐ折れてしまいそうで、壊れてしまうかもしれないのに叩くことをやめない。語ることと同様に。


「――私、勝手な人間だわ。ひとりで動揺して、怒りに負けて、比位くんに寄りかかって、それで貴方の代わりに怒ろうなんて、そんな……そんなの、最低よ……」

「最低じゃないと、思う」


 受け止めたなら、返さなくちゃいけない。昨日の放課後にさようならと言われて、返事をしたことと同じように。


「――俺は嬉しかったよ。斗乃片がそうしてくれて、嬉しかった。自分でもこの感情についていけなくて、震えない心が気持ち悪くて、奮わない精神は心地悪くて、それでも斗乃片が怒ってくれたから――安心できた。怒りたいっていう自分の気持ちは間違ったものじゃないんだって、信じられたから」

「本当に、愚かだわ。私は勿論、比位くんも」

「俺もか、そりゃ、そうだけど……」


 今この街で、一番愚か者である自信さえあった。


「こんな人間に優しい言葉をかけて、それでまた調子に乗らせるのよ。十数秒前と同じ過ちを、また私にさせるわ」

「過ちって、また大げさな……。別に大したことないだろ?」


 問うと、呼吸がひとつ聞こえてくる。待つこと数拍で、彼女は腕をぴんと伸ばした。


「私はあのパッチノートを目にしたとき、怒りと悲しみを覚えたわ。けれどそれ以外にもう一つだけ、感情があったのよ」


 また彼女は区切りをつけて、息を整え数拍空けて、再度喉を震わせる。


「貴方が全身で息をしながら教室に入ってきて、通知を目にしたときの表情――虚脱と混乱の中にひとかけらの安心を見出して、私は、私は」


 一音一音吐き出すのも辛そうにして、彼女の告白は続く。

 何が来ても受け止められるよう構えよう。俺は何度も、斗乃片透華という存在に救われているのだから、どんなことでも。

 少女の唇が動く。仮面で隠されていても関係ない。


「――『よかったね』って、そんなことを考えてしまったの……」


 消え入りそうな声が、実際に段々と消えていった。

 声音に反して、告げられたことは普通の、ことだ。きっとそう。


「それはふつうのことだよ、斗乃片。問題ない心情だから、そんな顔……しないでくれ」


 雰囲気に当てられ、俺は幾度も考え直すがそれでも結論は変わらない。脳内で彼女の言葉を反芻して、嚥下して、よし、やはり問題ない。


「普通、かしら……私はこんなにも身勝手に、人の、貴方の大事な問題に対して胸をなでおろしたのよ?」


 きょとんと、仮面の奥で瞳が初期化されていた。


「普通だ。何も問題ない。俺が斗乃片の立場だったとしてもそう思うよ。少なくとも、過ちから最も遠い気持ちだぞ、それは」

「そ、そう……そうなのね。なんだか、恥ずかしいわ」

「そりゃそうだ」

「そんなことないぞって、そこは否定してくれないのね」

「まあ。なんなら少し笑顔になりそうまであった」

「わ、笑うのはなしよ! ひとの、ひとの気持ちをなんだと……」

「笑ったじゃなくて笑顔になっただから! ぜんぜん違うだろ!」

「一緒よ、そんなこと! 同じだわ!」


 俺を叩く衝撃が、気持ち強くなった。ほのかに痛いが、嫌ではない。


「暗い顔してたり、泣いてるよりはいいだろ? ほらさっきだって」

「さっきってなにかしら。誰かが泣いてたみたいな前提で話すの、やめてもらってもいいかしら!」

「いやでもさっき涙が滴ってて――」

「仮面の下で見えないでしょう? 見えないのに、憶測で好き勝手言うものではないわよ」


 不機嫌そうに拗ねて、斗乃片はちょっとそっぽを向く。

 彼女の横顔に向かって、 


「じゃあ仮面を取って確かめてみるか」


 俺が提案すると、


「それは嫌よ。貴方から私が見えなくなってしまうでしょう」


 なんて、彼女は返した。


「貴方から見えないなんて、私は望まないわ」


 さすが、比位陽名斗を目撃し続けてきた、たった一人の人間だ――あまりに、変わっている。



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