第30話 後輩の宣誓に似た呪い
俺は、勢い余ってとんでもないことをしでかした。だが、ここで恥ずかしがると更に大惨事を招きかねないと、直感が告げている。
「悪い、このままで! あいつらから見えないところまで行ったら、すぐやめるから」
「いやなんでそこでやめるんすか!」
いたい。小さな手の平を覆っていた俺の右手が抓られる。どうもお気に召さなかったらしいが、それより二人のことだ。
恐る恐る振り返れば、むくれているがいつも通りの夏那が仁王立ちしていた。
「まったくもぉ、逃げ出して……それじゃあ、また明日ね!」
その隣からは斗乃片がちょこっと顔を出し、
「あと夏那さんとまとめておくわ。明日のお昼は覚悟しておきなさい」
殺し文句なんだか脅し文句なんだか分からないことを言って、つつましく手を振った。
しかも、さようならと言葉を添えられたからには、返さなくてならない。
「ああ、さよなら! 今日の夜から覚悟しておくよ!」
そう告げ終わって前を向くと、袖が引っ張られる。
「仲、ふつうに良さそうっすね」
「あの二人、会って少しで随分仲良くなったよな。心後輩の作戦、かなりうまくいってるし……これは明日にも『調整』が取り消されるんじゃないか?」
「それはそうかもしれないっすね。このままいくと、かなりの『調整』が明日には消えていくでしょう」
「ほんとか⁉ それはよか――」
「ただ、あたしの言いたいのはそっちじゃないっす」
異常に声音が重い。もし言葉に色を付けるとしたら、俺は今の発言を鈍色で塗りつぶすだろう。
「先輩と斗乃片さんの関係が、普通になってしまったのですね――こんな感じに言い換えたほうがいいすか?」
「どうしたんだ、その言い方。別にさ、普通で、いいだろ。平凡万歳だ。俺は諸手を挙げて歓迎する」
「ふうん、そうっすか」
平坦に反応して、後輩は押し黙った。お喋りな口が動かなくなった代わりに、彼女は俺の腕を強く引く。必死にせつなく、急かすように。最初とは立場が逆転していた。
無言で導かれ、ひたすら手を引かれ、いつもの校舎裏までたどり着く。
普段通り人気なく、静かで暗く、いつのまにか忘れ去られている、誰かの写し鏡みたいな場所だ。
そんなところまで来てから、手を離さず、後輩は閉ざしていた口を開いた。
「先輩は、特別なのですよ」
いきなりどうした? と照れくさく笑うことは諦めた。彼女のしんとした佇まいに直面して、おとなしく飲み込んだ。
唐突だった。深刻で真剣な語り出しだった。呟きで終わらず、その後も言葉が続くと確信できる語り口だった。
「大規模な『調整』を施される人、クラスから居場所を失っても心を崩さない人、気難しい転校生とも打ち解けられる人で、疎遠だった人とだってすぐ仲良くなれる人」
すらすらと、ずっと考えていたことみたいに彼女は唱えてから、
「それに、孤独なワタシなんかとずっと話してくれる人。全部、先輩のことなのです」
そっと結んだ。
――放課後の第三校舎裏は、日陰者たちの安息所。そんな場所に毎日やってくる個々奈心が、どういう人間でどういう状況にあるか、考えなかったわけじゃない。
でも、考えた上で接するのが良いとは思わない。むしろその逆で、嫌なことを思い出させないぐらい明るく関わるべきだと、俺は今も信じている。
簡単なことを信じて、行うだけの人間だ、比位陽名斗は。
「買いかぶりすぎだ。俺はそんな大層な人間じゃない」
「買いかぶってないっす。いいとこも悪いことも、ちゃんと見てるのです」
「例えば?」
問いに対する返答の代わりは、制服の胸元をつまみ上げては見せつける動作だった。どういう意味か、少し考え――
「あたし、バッジ付けてないっすよ。『運営』のやつです」
「それって、役職を表すやつで大事な――」
「まー、『運営』から支給された物ですね。学園での権限と地位を示す――いや、大げさに言いすぎました。大したことないっすよ。問題は、先輩はこんな簡単なことにも気づかなかった、ってことっす。そこが欠点すね」
「悪い、後輩……」
気が、そこまで回っていなかった。大体、学校生活中に俺が見えているということは、何らかの外れた行為をしているということだ。
斗乃片が仮面を外すように、夏那が特別制服を脱ぐように。
そしてそれは、自身の存在感を犠牲にするということでもある。人に存在を気取られなくなるのは、精神に負担のかかる行為だ。自己の存在を否定されるに等しく、苦しい。
「そんなに落ち込まなくてもいいんすよ。ひとかけらのダメなところなんてすぐに消えちゃうくらい、先輩にはイイところがあるんすから」
励ましをくれてから、彼女は人差し指をぴんと立てて俺の唇に触れさせた。
「でも悪いと思うなら、どうしてもというなら、ひとつ、ワタシの言うことを聞いてもらうのです。黙ったままで、頷いてください」
指先一つで、身動きが取れない。心臓は弾んで、肺が痛い。
緊張で軋む臓器にまで、少女のソプラノは響く。
「先輩は特別っす。不幸な目にあっても折れず、綺麗な転校生と関わっては特殊な関係を築き、疎遠だった幼馴染との縁を繋ぎ、惨めな後輩にも優しい、特別な人。普通になっては――『調整』が要らない人になってはダメっすよ。そうなった先輩には、きっと不幸せが運ばれてくるっす」
それは、呪いだった。決して叶いそうにもない、おまじないだった。
だって俺はもう、仲良くなった転校生と幼馴染を見て思ってしまったのだ――彼女と仲良くなるのは、俺だけじゃないのだと。
特殊な関係でなく、俺らは普通に仲良くなるのだと、悟って。
「ワタシ、先輩には幸せになってほしいのです。だから頷いてくれると、とっても嬉しいのです」
頷けない。あらゆる部位が微動だにしない。言葉にしない嘘すら、吐けない。
視界の中の少女は、それでも笑みをこぼす。
「――先輩の気持ちは変えられないこと、分かったっす。まったく、正直っすね……ま、いいすけど。それじゃあせめてあたしだけでも、先輩の不幸せを遠ざけること、頑張るっすから――目を離しちゃダメっすよ」
囁いて、後輩は俺の胸ポケットの辺りをぽんと叩いた。
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