第42話 小さな蕾


 腹を殴られ、僕は後ろに吹き飛んだ。

 相変わらず衝撃を推測し、踏ん張るというのが苦手な僕。背後に積まれていた机やイスがガラガラと崩れ落ちてくる。

 いつかと同じ空き教室での展開。目の前に並ぶ三人の上級生も、いつかと同じ顔触れだった。



「久しぶりじゃん、綿谷くーん」


「俺らのこと覚えてた?」


「甲斐の野郎が見張ってっから、なかなか会いに来れなかったんだよねぇ」



 寂しかった? と上級生たちはゲラゲラ笑う。

 僕は相変わらず痛みを感じることはなかったが、殴られたせいで胃がひっくり返りそうな不快感を覚え、腹を撫でる。さっき食べたばかりの昼食が出て来そうだ。



「おお? 腹痛ぇの?」


「あれー? そういや、結局無痛症ってのは嘘だったんだっけ?」


「それわかる前に甲斐の邪魔が入ったんじゃなかったか」


「確かめてみりゃいいじゃん。この前、根性焼きもし損ねたしさぁ」



 変わらないのだな、と彼らを見て思った。

 僕は変わったが、変わらない彼らにはわからないらしい。それを少し、可哀想に思う。



「俺ら、受験勉強でストレス溜まってんのよ」


「痛くないんだろ? じゃあ、俺らのストレス解消に付き合ってくれてもいいよな?」



 上級生たちは煙草を取り出し、座りこむ僕ににじり寄ってくる。

 彼らをじっと見つめながら、僕は口を開いた。ずっと、聞いてみたいことがあったのだ。



「……痛いって言ったら?」


 何がおかしいのかニヤニヤ笑っていた上級生たちが、同時に足を止める。


「……あ? 何だって?」


「僕が、痛みがわかるようになったって言ったら、どうするんです?」



 胃の不快感が落ち着いたので、息をついて立ち上がった。

 制服についた埃を払い、上級生たちに向き直る。わずかに彼らの顔が強張っていた。



「あなたたちと同じように痛みを感じることができるようになったとしたら。殴られたら、血が出たら、骨が折れたら痛いと感じるようになった僕を、あなたたちはどうしますか?」


「何言って……」


「それでも、僕を殴りますか?」



 上級生たちは、何か恐ろしいものを見たかのような顔になった。

 彼らの目が「どうする?」と確認し合っている。さっきまでの勢いはどこに行ったのか、まるで僕に怯えているようにさえ見えた。



「……つーか、マジで痛くねぇの?」


「俺らは痛くないって話だったからさ……」


「痛みを感じない、というのは殴ってもいい理由になりますか」



 これまで一切抵抗してこなかった僕の変わりように、上級生たちは何かを察したのか青褪めながらそれぞれ言い訳を始めた。

 悪気はなかった。冗談のようなものだった。本気ではなかった。

 もうしないから、大事にするのは止めてほしい。大事な時期だからわかってくれるだろう。他の奴らにも言っておくから。

 僕でも呆れてしまうようなことを次々に口にし、上級生たちは逃げるように空き教室を出ていった。

 こんなものか。そう思いながらも、妙な充足感があった。



「お前も言うときは言うんだな。見直したぞ、虹」



 上級生たちと入れ替わるように現れたのは、満足そうな笑顔の泰虎だった。

 後ろにはソワソワと落ち着きのない様子の犬井さんもいる。



「助けに入ろうかと思ったんだけど、前とはなんか違う雰囲気だから様子を見てたんだ」


「はあ。別にいいけど」


 崩れた机や椅子を直していると、スッとハンカチが差し出された。


「綿谷くん、頬のとこ、血が出てる。これ使って」



 なぜか気まずそうに言う犬井さん。

 僕は水玉模様のハンカチをじっと見つめ「ありがとう」と受け取った。ここに連れ込まれるときに引っかかれた頬をそれで押さえる。



「ごめん。洗って返すよ。それとも新しいものを買ったほうがいいかな」


「い、いいの! あげるから、全然気にしないで!」


「そういうわけには……」


「ほんとに! 安物だし! なんか、その、ありがとう!」


「えっ。なんで犬井さんがお礼を言うの」



 僕らのやり取りを見ていた泰虎が小さく吹き出した。

 犬井さんが恥ずかしそうに僕から距離をとる。なぜかその顔は赤く染まっていた。



「あ……えっと、わたし、職員室に用事があるんだった! 先に行くね!」



 不自然なほど早口で言うと、犬井さんは廊下に飛び出していった。

 何か僕は対応を間違っただろうかと考えていると、泰虎が突然僕の肩に腕を回してきた。



「虹。お前、ほんと変わったなぁ」


「そうかな」


「ああ。前はマジで人の気持ちがわからねぇ奴だと思ってたけど」


「まあ、実際そうだしね。いまもよくわかってないよ」


「そんなことないぞ。いまのお前はなんつーか、いい感じだ」



 いい感じ、とは随分と抽象的な言い回しだ。けれど、悪くないと感じる僕がいる。

 これが、いい感じというやつなのかもしれない。


 少し血のついてしまった犬井さんのハンカチを見て、やはり新しく買って渡そうと思った。似たようなものを買えばいいだろうか。

 そういえば、前もこんな風にハンカチを貸してもらったな、と憩いの庭での出会いを思い出し、少し胸が切なく痛んだ。



「なぁ、虹。正直に言ってほしいんだけど……」


「何?」



 正直に、と言われて少し戸惑う。僕にとっては誤魔化したり嘘をついたりするほうが難しい。これまでわりと正直に接してきたつもりだったのだが。



「あいつと、連絡とってたりする?」


「あいつって、司狼? いや……とってないよ」


「そっか……」


「二度と会うことはない、とか言われたしね」


 泰虎は驚いたように僕を見て、それから深くため息をついた。


「お前にそう言ったなら、俺は死ぬまで会うことはないんだろうな。つーか、死んでもわからないかも。どっかで野垂れ死んで、連絡も来ない気がする」


「そうかもね」


「別に、あいつがどうなろうと知ったこっちゃねぇけど」



 わざとらしい冷めた言い方は、強がりにしか聞こえない。

 司狼を毛嫌いしていた泰虎だが、やはり弟として、家族として、心配する気持ちも少なからずあるのだろう。

 司狼だってそうだ。クソ生意気な弟、融通がきかない、つまらない奴、とボロクソに言っていたが、泰虎のことは他の家族より気にしていたと思う。



「なんつーか、あいつがいなくなるなら、虹も一緒に行っちまうんじゃないかと思ってたけど、余計な心配だったな」


「ああ……実際誘われたよ。一緒に行くかって」


「まじか。でも、断ったんだろ?」



 なぜ、と泰虎の目が聞いている。

 僕としては、そんなに不思議がられるのが逆に不思議だった。確かに以前ならついて行く可能性もあったが、そうは言っても僕と司狼はべったりくっついているような関係でもなかった。司狼が僕を誘わない可能性も、僕が断る可能性も同じだけあったと思うのだが。


(そういえば、母さんも前に、似たようなことを気にしていたっけ)


 司狼が僕を、どこか手の届かないところに連れて行ってしまいそうで怖い、と。

 僕が思っていたよりも、僕らはお互いに依存していたのかもしれない。司狼がいなくなってみて初めて、そう考えるようになった。



「やらなきゃいけないことが出来たから」


「何だよそれ……ん?」



 泰虎が床に落ちていたものに気づき、屈んで拾い上げた。

 それは僕が落としたプリント用紙だった。職員室に提出しに行く途中で、あの上級生たちにここに連れ込まれたのだ。



「進路希望調査票か……って、医学部?」


 弾かれたように泰虎が僕を見る。嘘だろ、という表情に、その気持ちはわかる、と頷きたくなった。


「僕は、医者になろうと思う」



 嘘みたいな話だが、本気だった。

 第三希望まで、すべて大学医学部を書きこんだ。すでに受験に向けた勉強や、予備校探しも始めている。本当に、本気なのだ。

 泰虎はしばらく呆然としていたが、やがて安心したかのように気の抜けた笑顔を見せた。



「……向いてるよ、虹」


「そうかな」


「ああ。お前にしか救えない人もいると思う」



 ドキリとするようなことを言うと、泰虎は思い切り僕の背中を叩いた。

 痛くはなかったが、あまりの勢いに咽ながら前につんのめってしまう。相変わらず馬鹿力だ。



「がんばれよ、虹。応援してる」


「……うん。ありがとう」



 泰虎に差し出された進路希望調査票を受けとり、僕は前を見てしっかりと一歩を踏み出した。



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