第45話 生の名前
「お前、少し会わないうちに随分老けたなぁ」
憩いの庭のベンチに座るなり、泰虎はそう言った。
僕は自分の顔に手をやって頷いた。手の平に、深く刻まれたシワの凹凸を感じる。
「そりゃそうか。医者ってのは苦労が多そうだもんな」
「どうかな。どんな仕事にも苦労はあるよ」
「まあ、俺らも年を取ったってことか」
ため息まじりに笑った泰虎は、次の瞬間表情を引き締めた。
「兄貴の失踪宣言をすることになりそうだ」
予想もしていなかった報告に、僕はまじまじと泰虎の横顔を見る。
精悍な顔立ちは変わっていない。いや、むしろ仕事柄か、鋭さは増したように思う。だが、気を抜いた時に見せる表情は昔より柔らかくなった。
恐らく結婚し、子どもが生まれ、ふたりの女の子を育てる父親になったからだろう。そういえば少し前、子どもが思春期に入り難しいお年頃になったとぼやいていた。何を言っても反発されると。
正論で人を殴っていた頃のようにはいかなくなり、泰虎も変わったようだ。
確かに僕らは、年を取った。ここまで長かったようにも、短かったようにも思う。
「失踪宣言? 行方不明届けは出してたよね。それとはちがうの?」
「ああ。行方不明になった家族を死亡したものとして扱うのが、失踪宣言だ」
「……へえ。何でいまになって?」
僕が隣に座ると、泰虎はコートのポケットから缶コーヒーを出して僕にくれた。
前は確かおしるこをもらった。僕が味音痴なので、何を渡しても同じだと思っているのだろう。実際何でもいいのだが、おしるこは口の中に残った感じがするのでコーヒーのほうがありがたい。
泰虎も同じコーヒー缶のプルトップを開け、ぐいと中身をあおる。
その横顔に、昔の司狼が一瞬重なって見えた。絶対に本人には言わないが。
「相続の関係でちょっとな。別に俺はそのままでもいいと思うんだけど。まあ担当する事件の関係者でも、行方不明の家族の財産の扱いに困ってる人はおおいから、すっきりさせとくのも悪いことじゃないんだけどな」
「ふうん……」
泰虎は父親と同じ警察官になった。もちろんエリートで、四十手前にしてすでに上層部に籍を置いている。
忙しくしているようなのだが、時折こうして僕の様子を見に病院に顔を出す。いまだに僕のことを、自己管理のできないダメ人間のように思っているらしい。お前が明日死んでいても驚かない、などと言ってくる。まあ、それは僕も驚かないが。
これでも大人になり、人並み程度の常識や生活能力は身に着けたつもりだ。いまはただ、それを発揮する機会がないだけで。
憩いの庭を、小さな子連れの母親が、子どもに優しく語りかけながら通り過ぎていく。
母親のお腹は大きく膨らみ歩くのも大変そうに見えたが、その表情はとても幸せそうだった。
「司狼だけど……たぶん、生きてるよ」
迷いながらの僕の呟きに、泰虎はすぐには反応しなかった。
しばらく沈黙が続き、缶が空になった頃「どこで見た?」と聞かれた。
「本人を見たわけじゃないけど」
「はあ? なんだそりゃ。それでなんであいつが生きてるってわかるんだよ」
「だから、たぶんって言っただろ。いや、もしかしたら司狼は死んでるのかもしれないけど……」
「だからどっちなんだよ? 知ってることがあるならさっさと吐け。ほら、吐いちまえ」
「うーん……」
滅多に迷うことのない僕だが、今回は迷う。
僕は司狼と泰虎の幼なじみだが、血の繋がりのない赤の他人でもある。要は、家族のことにはまったく関係がない第三者だ。そんな僕が断りもなく口にしていいのかわからない。
素直に口を割らない僕に、じれた警察官僚は「監視をつけてやってもいいんだぞ」と脅してきた。
冗談ではない口調だったので、逮捕されるべき人間は警察の中にこそ多いんじゃないだろうかと思ってしまった。
「わかったよ。……司狼の子どもを見かけたんだ。ここの最寄り駅で」
「……は?」
「奥さんらしき人も」
「冗談だろ?」
「いや。結婚してるかはわからないけどね」
泰虎はぱかっと口を開けたまましばらく固まっていた。
やがて「マジかよ……」と疲れたように髪をかき上げ、空を仰ぐ。
「それは予想外だ。まさかあいつが家庭を持つなんて思うわけないだろ」
「家庭を持ったかはわからないって」
「はー、信じらんねぇ。余計ややこしくなるぞ。親戚連中になんて言やあいいんだか」
頭が痛い、とうなる泰虎に、僕はポケットに入れていた鎮痛薬をそっと差し出した。
泰虎はやけになったように、薬を口に放りこむとガリガリと咀嚼し飲みこんだ。水で飲んだほうがいいのだが、いまは空になったコーヒー缶しか手元にない。
まあ、泰虎のような健康体にはたいした問題は起きないだろう。
「どうやってその親子があいつの家族だってわかった?」
「奥さんのほうは、学生のときに司狼と一緒にいるのを見かけたことがあったんだ。それで、子どものほうはなんていうか……そっくりだった」
「そっくり……あいつに?」
「うん。子どもの頃の司狼に」
どこにいても目立つ子どもだった。人の視線を集めずにはいられない、歩く宝石のような。
ただ姿かたちが整っているだけではなく、人とはちがう雰囲気、オーラのようなものを持っていた。あれは間違いなく司狼の血だ。
「あと、これが決定的だと思うんだけど」
「何だ?」
「その子のリュックに名前があったんだけど、
泰虎は目を丸くして、次の瞬間吹き出した。
僕の背を叩き、自分の膝を叩き、そうして大笑いしたあとすっきりとした顔でこう言った。
「狼、虎、そんで龍か! そりゃあ俺らより強い子どもになるなぁ」
泰虎は嬉しそうだった。
僕も、あの司狼が未来を生きていたことがわかったとき、本当にうれしかった。
司狼はいまも、死んだように生きているのだろうか。
僕は別に、それでもいいと思う。生きているならそれで。それ自体がすでに奇跡だと思うから。
泰虎は「今年最大のサプライズをどうも」と言って、仕事に戻っていった。
また近いうちに、と彼は当然のように手を振ったが、僕は曖昧に微笑んで返すに留めた。
立ち上がり、亀のような速度で院内に戻る。自然と足が向かっていたのは、あの部屋だった。
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