第44話 生きてきた道


「ねぇ先生。来週、おじいさんの三回忌なの」


 七十代の患者、林さんは、ベッドの上で亡くなった夫の写真を眺めながら言った。


「私、法事に行けるかしら……?」



 灰がかった目が、僕を仰ぎ見る。

 僕は聴診器を外し、林さんの入院着を整えてから応えた。



「旦那さんの法事、ですか」


「ええ。お墓もね、掃除してあげたいわ。それから……おはぎも作ってあげないと。あの人ね、私の作るおはぎが大好物だったの。粒あんをたっぷり乗せたやつ。命日には、必ずおはぎをお供えするって、約束したのよ……」



 痛みを止める薬が効いているのだろう。林さんのまぶたは何度も落ちかけ、必死に睡魔と戦っているのがわかる。

 無理をせず眠ったほうがいい。僕はそっと林さんの目の上に手を置いた。

 こうするとよく眠れる、という患者さんは多い。彼女もそのひとりだ。



「おはぎ、いいですね。美味しそうだ」


「美味しいわよぉ。でも……無理よねぇ。ベッドから、降りられないんだもの……」



 最後にもう一度、作ってあげたい。

 そう言って、僕の手の下で林さんが涙を流した。

 不思議だが、僕には熱さがわからないのに、患者さんたちの流す涙やもらす吐息はいつだって熱をはらんでいるように感じる。

 それはきっと、彼らが必死に生きているからだ。命を燃やしているから、彼らが放つものから熱を感じるのだ。

 では、僕はどうだろう。僕の流す涙や吐息も、彼らと同じように熱いのだろうか。



「……来週ですね。外出許可を出しましょう」


「まあ……いいの?」


「当日、痛みが出ないようにします。ですからそれまで、少しでも体力を温存しておいてくださいね」


「先生……ありがとう。なんだか元気が出てきちゃった。私、がんばるわ」



 明日に遠足を控えた子どものような顔で、林さんが笑った。

 妹の幼い頃を思い出すような笑顔だった。



 林さんが眠りにつくのを見届けて病室を出る。

 するとちょうど向かいの病室から出てきた患者の家族に呼び止められた。

 皺のついたズボンにヨレヨレのシャツ。顔に深い疲労の色を乗せた三十代の男性は、岡田さん。

 昨夜から奥さんが昏睡状態に陥った。奥さんを看取るべく病院に泊まりこんだ彼には、まだ幼い子どもがふたりいる。



「先生。この度は……本当にありがとうございました」


「岡田さん。僕は何もしていませんよ」


「いいえ! 先生のおかげで、妻は最後に子どもの発表会を観に行けました。妻も涙を流して先生に感謝してました。本当に……本当にありがとうございます」


「奥さまが頑張られたからです。願いが叶って良かった」


「先生が担当医で僕らは幸運でした。さすが、神の手を持つ先生です」



 何度も深く頭を下げる岡田さんに「僕は普通の人間ですよ」と返すしかなかった。

 神の手を持つ緩和ケア医。いつからか、そう呼ぶ人が現れた。有名、というほどではなく、どうしても痛みを取り除きたいと切実に願う患者さんの間で、僕のことが噂になっているらしい。

 もちろんただの噂だと否定しているが、僕に担当してほしいと訴えてくる患者さんやその家族は少しずつ、確実に増えてきていた。

 良いことだとは思わない。悪いことだとも思わない。

 僕はただ、これまで通りここの患者さんたちと接するだけだ。そして助けを求める彼らの声を聴き、出来るかぎり希望に応える。それでも、本当に手当ててあてが必要な人は、そう多くはなかった。


 羽子さんと出会い、別れてから、二十年近くの月日が流れた。

 おまじないの力はまだ、僕の手の中にある。

 いつかなくなるだろうと思いながら今日まで来た。なくなるのは多分、僕が死ぬときなのだろうと思うようになった。


 そのときは恐らく近い。そんな予感がしている。




「虹」


 岡田さんと別れ、ぼんやりしながら医局に戻ろうとしていた僕を呼び止める声がした。

 僕を名前で呼ぶ人は少ない。

 顔を上げると、廊下の向こうから歩いてくる体格のいい男が、僕に向かって軽く手を挙げた。



「泰虎?」


「よう、先生。儲かってるか?」


「それは医者に聞くことじゃないなぁ……」



 泰虎は「確かに!」と笑うと、気安げに僕の背中をバシリと叩いた。

 昔と変わらず、加減をしらない男のせいで、僕は咽ながら前につんのめるのだった。




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